番外編 ライザの休日・その1

「お風呂……ですか」

「そう。お風呂。体の芯から温まって、とっても気持ちいいのよ」


 船からの支給品であるエコバッグを手に提げたフロランスは、柔和な笑みを浮かべながらライザやアリサと歩いていた。


 海に落ちてしばらく経っていたライザは、髪がゴワゴワして肌も荒れ放題、おまけに中途半端に乾いたせいで塩分も付着していた。フロランスは詳しい経緯には触れなかったが、このままではいけないということで風呂に入ることを勧めたのだ。


「わかりました。先に待っていてください。用意をしてきます」

「ええ、待ってるわ」


 フロランスは手をひらひらと軽く振ってライザを見送った。


 噂には聞いていたが、かなり不気味な女だ。

 一見すると少しばかり大人びた少女だが、実際に言葉を交わしてみると相手の腹の内を探るような話し方が気になってしょうがない。体を嘗め回すように見てきたかと思えば、じっと目を見つめたまま意味深な言葉を発するなど、とにかく気に障る態度も多い。


「やーな感じでしょ、あのフロランスっていうの」

「少なくとも仲良くなれそうにないことはわかる」

「そうそう、人を近づけないオーラが漂ってるっていうか」


 アリサは半笑いで言うが、目が笑っていなかった。ライザは今更ながら、アリサがミステリアスな雰囲気の女性が苦手だということを思い出した。

 とはいえ、このチャンスを逃すわけにはいかない。皇帝が数年かけて追ってきたフランドル騎士団の巫女であるフロランスを捕縛するため、彼女に接近して情報を少しでも引き出す必要があるからだ。


            *     *     *


「お待たせしました」

「それじゃ、行きましょ」


 ライザはアリサにサイズが合う着替えとお風呂セットを購入してもらい、フロランスが待つ屋内大浴場前にやって来た。


 だが、いざ浴場まで来たところで、ライザの脳裏に不安がよぎると同時に、やはり入りたくない気持ちが芽生えていた。


 そもそもライザは水浴びが好きではない。風呂も同様だった。

 セーランの教えでは、水や湯で体を清めることは美徳とされ、貴族は必ず蒸し風呂の設備を屋敷に備えている。公衆浴場に通えない貧民でさえ、川辺に出かけて水浴びをすることも多い。


 だが、そんなことは問題ではない。川の水はいつも冷たく、だからと言って蒸し風呂は息苦しい上に、やはり冷水を浴びる必要がある。


 こんな船の上にある風呂といえば、海水を使った水浴び設備に違いない。フロランスの情報を得るためとはいえ、また海水を浴びることになるのは御免だった。素直に温めたタオルで体を拭きたい。


「その、フロランスさん」

「あら、どうしたの?」


 我慢ならず、ライザはフロランスを引き留めた。話しかけられた彼女は足を止め、きょとんとライザを見つめている。


「あの、ですね……急用を思い出したので、戻ってもよろしいでしょうか」

「ふーん、逃げるんだ?」


 フロランスが口を開けるより前に、ライザの背後から肩に手を置く者がいた。


「あ、アリサ……」

「ダメよ。ほら、ちゃんとお風呂に入る!」

「アリサちゃん、強引にしちゃダメよ?」


 フロランスはぐいぐいと背中を押すアリサをなだめるが、アリサは構わずライザを更衣室に押し込んだ。

 ここまで来たらもう覚悟を決めるしかないのか。ライザはアリサを恨めしく思いながらも、渋々服を脱ぎ始める。


 思えば、海水に浸かった服を数時間も着たままだったので体中がベトベト、髪もかなり乱れていた。下着も脱いで大事なところを腕とタオルで隠すが、そのタオルの感触も心なしかゴワゴワしていて不快だった。


「全く、アリサは……」

「何言ってるの。それと、タオルは取りなさい」

「まさか、全裸で入れと?」


 さすがに裸を他人に見せるような真似はしたくない。ライザは抗議の目をアリサとフロランスに送るが、2人とも冗談を言っているようには見えない。


「……わかりました」


 ここまで来たからには、素直に従うしかない。下手に騒いでフロランスに感づかれてしまえば全てが水の泡だからだ。

 意を決して、浴場へと続く引き戸を引いた。


 すると、やや熱めの空気がライザを包み込んだ。かなり湿気が高く、ここが風呂場であることを感じさせる。

 だが、普段入るような蒸し風呂よりかなり温度が低い。おおよそ『熱い』と『温かい』の中間あたりだろうか、とライザは感じていた。

 浴場はツルツルしたタイルで覆われ、左手には全面がガラス張りになっていた。それこそ小さなため池と見まごうほど大きな浴槽が幾つも並び、右手側には鏡と小さな椅子が並んでいる。


「こ、これは……」


 少なくとも、こんな設備は見たことがない。浴槽から湯気が上がっている時点で、あれは冷水ではなく温水風呂だ。


 個人用の浴槽に湯を張るならまだしも、これだけの湯を熱いまま維持するなど骨が折れる仕事だ。それこそ専門の魔法使いを何人も雇っている必要がある。

 それに加え、潮の臭いが全くしないことも気になっていた。船という環境である以上、大量の海水を真水に変えるのも魔力がいる。


 たまらず、ライザはアリサに耳打ちする。


「浴槽に張っている湯は、もしや海水?」

「ううん、全部真水。どういうわけか真水を大量に作り出せるらしいけど、原理は全くわからない。そういう魔法使いを雇っている様子もないし……」

「ますます謎が深まる……」


 アリサの話が本当ならば、この船はかなりの真水精製能力を持っていることになる。近衛騎士団海軍部のファルザーでさえ、真水精製担当の魔法使いが1日に作れる水の量は限られている。それを文字通り湯水のごとく使えるなど、尋常ではない能力だ。


 風呂1つとっても、この圧倒的な充実ぶり。どれほどまでにジエイタイの文明は進んでいるのか、ライザは浴場の熱く湿った空気の中にいながら寒気を覚えていた。

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