虎落笛

羽衣石ゐお

本編

 突として、いっぱいに車輪の軋るのが宵のうちに木霊こだました。

『お客様に連絡させていただきます。本、信越線快速列車長岡行は倒木のため、本来の停車駅ではない紅津駅で止まります。急な対応、誠に申し訳ございません』

 窓のくもりを袖で拭ってみると、ぼんやりと白く浮かんだ盆地を、減速していた。ここら一帯に裾を広げる峰々の荘厳そうごんに、あたりまえに畏敬の念を抱くのは、どうしてか。――そうして深々と雪に埋まった中間駅に、列車は不時着でもするみたく、ガタンとひとつ揺れて停まった。雪にべたべたとはりつかれた電灯が、立て看板の『紅津』の文字を殊更くすませていた。小ぢんまりとした、無人駅であった。

「こんなところ、えらく久しいものだね。……」

 灯のまばゆい空間にはあんまりに冷たい独り言だった。庇に連なった氷柱つららが確と男の目に入る、寒空の藍色を稠密ちゅうみつに取り込んだのが、ぼやけた暮と列車の灯とに縁取られて潤んでいた。しばらくして反射した自分の虚ろな目が見えて、はッとした、胸の高鳴るその刹那、たしかに短パンを穿いた坊主が頭をもたげたのである。すると突然、茂みから腕がのびてきて、彼の手を引いた。その腕は、はきはきとした喜色満面の少女のものであった。彼は顔を真っ赤にしてなにか懸命に訴えているようであったが、少女からは一向に微笑み返されてしまうのが関の山、かくれんぼうにしたって、どうにか逃げきってやろうと深い茂みに入っては、必死になって息をひそめたというのに、ずばりと当てられてしまうのだった。

 そう、だからこそ、あんなになった少女に、素直に彼は、言葉さえかけることもままならなかった。


 どこからか聞こえる笛の音が、雲間から覗く寒月をも震わせるようであった。

 ホオムに降りて、吹き抜ける風に凍えながら、ここらはこんなにも凛冽りんれつたるものであったかとあたりを見回してみるも、やはり、なんにも変わっていないのだと、思わず息を吐いた。変わったのは自分ばかりのような気がして。そうなると、自然と懐古に耽るものである。下校時には、構内で手に余るくらいに大きな百円玉で珈琲を買っていた、毎度、コオトのポケットにスティックシュガアを備え付けて。

「さて、」

 六年ぶりに下り立つ、故郷であった。




 星が、ある。満天の星々のなかで、とりわけつづみぼしばかりが男の目に入っては、呆れて出てきたため息に紛れた。自分は、ほんとうに故郷へと帰って来たのだ。歩道は背の丈以上の積雪があったから、しぶしぶ踏み固められたわだちの上を歩いた。足先の感覚もなく、耳は今にも割れてしまいそうだった。ただの革靴では容易に滑ってしまうから、勝手に踵に力が入るようで、無様にわなないている。ぽつりぽつりと並んだ街灯は、その足元ばかりが明るい。次の街灯までの暗がりが途轍もなく長く感じられるたびに、また遠くに笛の音を聞いた。

 行き先というほど大それたものでなく、散歩というほどの諦念もなく、ただそんな心持で身体を震わせながら歩んでゆくのは、おおかた旅情のようなものと思われる。そうでなければ、ただでさえ寒さに丸まった背中が、もっと無様に曲がってしまうから。悔恨というのが、磨かれ、磨かれぬかれて、ずいぶんと小さく鳴りを潜めると、果てに玲瓏な結晶と化す。それがまた、ひとつの郷愁であるから。

 しばらく進んだ路頭に、一軒の家屋がある。あんまりに廃れたのではないか。剥げた木片を摘まんでひっぱってみると、湿った音を立ててちぎれた。それを踏みつけて雪にうずめてから、咥えた煙草に火を点けた、それでまた踏みつけた。吸うと先端できゅうと音がして、焦げてゆく。ああ、これで、また胸が空く。汁粉みたく身体があたたまるわけでもなく、酒みたくかっかしてくるわけでもないというのに。

 そのときふいに、肘に衝撃があった。そのはずみに煙草を落としてしまった。そして背後から、

「ねえ、なに、急にこんなところに戻ってきて」

 そう震えた声音で雪玉をふたたび投げてこようとするのは、ひとりの女であった。彼女の長い髪は、宵の下でやや紫がかった光をはねる。その容貌こそはっきりとはしなかったが、今にも泣いてしまいそうな表情をするのがどことなく伝わってきた。

「おい、馬鹿。君こそ、突然見ず知らずのやつに雪玉をぶつけてくるやつがあるか」

「ほんとうはわかってて言ってるんでしょ」

「しってて、わざわざ、とぼけて雪玉にぶつかるやつがあるか」

 雪玉を避けながら、女のほうへ向かって腕を押さえつけた。

その間もどうにかしてかいくぐってやろうと腕をひっぱってきたり、蹴ってきたりとせわしない。「いったい俺がなんだっていうんだ。指名手配でもされてるっていうのか」「違う、違う、ねえほんとうに覚えてないの」「皆目見当もつかないよ」「そう……」と言って、しょぼくれ、てのひらを合わせてから、

「ごめんなさい。……だからその、」

 そうして羽織の内ポケットから取り出したのは、二枚の百円玉であった。




「砂糖は、要らないの。うちに寄ればあげるのに、二本くらい」

「ああ、結構。甘いのは苦手なもんでね」

「『にげえっ!』って、叫ばないの」

「あいにく感情表現には乏しいもんでね」

「そっか、そうだよね。好みくらい変わっちゃうよね」

 プルタブを開けると小さく湯気が立った。鼻先にあてて香りを楽しもうとすると、ちょっとばかりあたたかくて、しかしすぐさま冷え込んだ。缶を傾けて、「べつに缶の珈琲なんて美味いもんじゃないがね」「ふうん、そうなんだ」「君は苦いのがだめというふうだね。汁粉顔だ」「……やっぱりアンポンタンなんだ」「ごめんよ。まあほら、きっとこうやって飲んでれば、美味いんだ」言って、笑みがこぼれる。手に持った鞄からスティックシュガアを二本だけ取り出し、封を切って、注ぎ入れた。

 すると女は、

「呆れた。やっぱり苦いんだあ」

「そりゃあ、苦いもんだからね、苦い」

「馬鹿。それくらいわかるよ。そうじゃなくって、苦いのが『苦(く)』って意味を含めて、苦いんだあって」

「馬鹿。それくらい俺だってわかってるさ。いいかい、こんな苦しい寒さで、わざわざ苦いもん飲まなくったっていいだろう。そんなの三文小説の感傷だね。そう、こういうときくらい、甘いもんを飲みたいんだよ」

 そうして、辿り着いたのは林の中にぽつねんと建つ神社であった。境内に雪は少ない、神主が雪除けでもしたのか、それとも月に届いてしまいそうなほどに巨大なブナが堰き止めているのか。ただ、綺麗な石畳の上に白い靴跡を残して進み行くと、そこへ脇の灯篭の火が飛び移り真っ赤に煌めいてみせるのだった。また、鳥居が低いようだった。

 急勾配の石段をのぼりきると、やしろが見えてくる。小さな灯篭が目に映るだけで、熱く感じられた。そして後ろからは、やや弾んだ息づかいが聞こえてくる。

「もっと動けるんだと思っていたよ」

「もうね、最近は走るようなこともしてないから、」

 女はコオトに隠れた腿を呆然と見つめた。

「そうか、じゃあ、あれをしよう、あれなら俺は得意だったし、君もそんなに走らなくていい。俺が鬼で――」

「だめ。わたしが鬼」

「どうしてだい」

「……。三十、二十九、二十八、」

「おい、なんだよ、人が気遣ってやってんのに」

 そう言いながらも、その場に屈んで目を伏せた彼女を起こすのも面倒だったから、とりあえずどこか隠れられる場所へ。……社を左手に折れると在る、深い茂みの先の、祠……。




 祠への道程には急斜面を下る必要がある。

 坊主はその身軽さを活かしてさあッと一気に駆け下った。

 革靴の砂埃をはらってから、尻を地について、弾んだ呼吸を鎮めてゆく。

 あの言葉を、もう聞きたくなかった。真っ暗闇を穿つような爛漫(らんまん)な笑顔は、ぴしゃりと甲高い声に追随して、彼の矮小な自尊心を寸々にするに至る。考えるだけでも縮こまらずにはいられなくなる。

 坊主はほどなくして、やっぱり、「――みいつけた!」と刺されてしまった。

 そのときの少女の表情だって、きっとにこにこの笑みであっただろうに。だが、直後聞こえたのは、喜びに満ちた声風でも、彼の背を叩く音でもなく、なにかが砕け散る音であった。

 坊主よりも大きな図体ずうたいが坂を転がり、翻筋斗もんどりを打って倒れ込んだ。あらぬ方向に曲がった腕が腹の下から覗いていた。力を失った五指がやおら地面に広がって、一度だけ、ぴくりと握られようとして、静かに萎れた。

 あに図らんや、坊主は間の抜けた面で、少女の伏臥ふくがする様を見つめていた。

 意識の判然としたのは、ふたりが複数人の女友達に囲われていたときのことであった。ふたりの少女が彼女を介抱するうしろで、哀切たる素振りからは到底信じられぬほどに明瞭なそしりが届いてくるのであった。

 ついに我慢ならなくなった少年が、「ちがう!」と全身全霊に叫んでいたという。




「――みいつけた!」

「みつかってしまったね」

「雪が足跡を残すんだから、ばればれだよ。なんでこんな雪除けされてないところ選ぶかなあ」

「言わせる気、……なのかい」

 それに女は苦い笑みだけで答えると、おもむろに屈みはじめる。裾を絡げたコオトに円みが浮かんだ。ほんのわずかに覗いた足首がふらふらと揺れていたから、垂れた指先をぐいと手繰り寄せてやると、ひどく力は抜けていて、倒れ込んでしまった。頬にはらりと髪の毛が落ちてくると、甘美なにおいが立ち込めた。しっとりとして冷ややかな手を握ったままに、鬢を持ち上げてやると、頬に赤く差したのが明るかった。そして視線の先には、爛々らんらんとする瞳がある。男の口元がゆるんだ。

「あのときは……俺は、報いてやれなかった」

「そうだね」

「でも、もう負けないさ」

 言って、ひしと手を握りこむ。何度も、握りこむ。するとようやく芯から熱がにじんできた。みぞれのように透いた肌をしていた。

「ねえ、」

「なんだい」

「わたしには勝てっこないんだってば」

 と、女の指先がさそりの尾のようにのびて、手の甲を刺す。それは掌握からすぐさま解き放たれては、

「許してあげるんだから、さ」

 男のおとがいをとらえ、ぐいと視線までもを攫ってみせる。

 彼が後ずさって逃亡を図ろうとした先で頭を強く打ちつけたのは、籬垣ませがきであった。

 ぴゅうと、けたたましく虎落笛もがりぶえが鳴る。莞爾かんじとした笑みが浮かび上がる。月光をとりこんで白銀に瞬くまなこに、おもむろに宵が差されるようだった。







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虎落笛 羽衣石ゐお @tomoyo1567

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