さよなら風たちの日々 第9章ー2 (連載28)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第28話


               【3】


  ぼくは海を眺めながら、大学とアルバイトの二重生活をしていたあの過酷な日々を思った。

 晴れて大学一年生になったその年、ぼくは平日の夕方は東京駅の線路沿いにあるレストランでアルバイトをしていた。そのアルバイトは立ちっぱなし、歩きっぱなしの仕事なので足が疲れたが、それ以外は比較的楽な仕事だった。それゆえ給料がいいわけがない。

 だからぼくは夏休みに入るとそのアルバイトを休ませてもらい、品川区港南にある冷凍倉庫作業の日雇い労働者になった。

 

 その仕事は朝八時までに冷凍倉庫ビルの地下にある事務所に顔を出し、親方と呼ばれる責任者に働きたいことを告げるのだ。この仕事は超ハードな仕事なので、いつも人手不足だったから、たいていその場ですぐ、雇ってもらえることができた。

 仕事内容は朝八時半からマイナス50度という巨大な冷凍倉庫に入っていくことから始まる。仕事内容は1.5m規模の冷凍マグロ、50cm~1mサイズの冷凍カツオ、5m以上もある冷凍サメなどをネコと呼ばれる手押し一輪車や、フォークリフトで巨大倉庫間を移動させたり、搬入や搬出を行なうものだ。

 服装は頭に毛糸の帽子をかぶり、たいていの作業員はボアの付いた通称ドカジャンと呼ばれる濃紺のジャンパーを着ている。手は軍手を二枚重ねて使用する。下半身はいわゆる作業ズボンで当然ズボン下は必需品。靴は防寒仕様の長靴でなければならなかった。

 具体的には、冷凍されて岩のように硬くなっているマグロやカツオを、手鉤てかぎを使って引っ張り出したり。積み上げたりするのだ。これはかなりの重労働で、ときにはマイナス50度という冷凍倉庫内に中にいても、身体が火照ってくるほどだった。

 圧巻は、うず高く積まれた冷凍マグロを搬出するときだ。硬く凍りついた冷凍マグロの山は、おいそれとは動かない。それを一本、一本上から引っ張り出していくのでは効率が悪い。そこでまず、下の方に積まれたマグロを一本ずつ引き抜いていき、マグロの山を崩す方法がとられる。

 まず最初の一本は、マグロの山の中で最も手鉤が入りやすい場所を見つけ、そこにバールを入れて足で何度も強く蹴ったり、何度も全体重をかけて動かしたりして、どうにか最初のマグロを引っ張り出す。そのマグロのほとんどは、だいたい腰から胸までの高さに積まれているマグロで、たぶんその位置が一番、人間が力を入れやすい場所にあるためらしい。

 そうして最初の一本を抜いたあと、その周辺のマグロを同じ要領で順次抜いていき、その抜いたマグロが七、八本になると、そこが空洞になり、やがてマグロの山から不気味な軋み音が聞こえてくる。

 マグロが抜かれたあとの空洞の形や軋み音でベテラン作業員は、いつその山が崩れるか分かるらしい。

「全員、避難」とその作業員が叫ぶ。そして作業員全員が避難したことを確認すると、ベテラン作業員は狙ったマグロにバールをねじ込み、それを足で強く蹴る。

 すると鈍い音がする。その直後、冷凍マグロの山は崩れ、轟音と雪煙を上げて、300本近くはあろうかという大量の冷凍マグロが一斉に出入口に向かって押し寄せてくる。それに直撃されたらひとたまりもない。そのマグロの山に最後の一撃を加えた作業員はしかし、その怒涛のように押し寄せてきたマグロの大群を見事にかわし、タバコで汚れた歯を見せて、ほかの作業員に笑いかけるのだった。


               【4】


 冷凍倉庫での作業は、午前十時から三十分、休憩となる。この休憩がないと、倉庫内と室外の温度差で身体が持たないのだ。だから昼休みも正午から午後一時三十分まであり、さらに午後も三時から三十分の休憩時間がある。

休憩時間。多くの作業員は魚介類の加工工場脇にある通路に段ボールを広げ、そこで身体を休める。作業員たちはそこで、おもいおもいにタバコをくゆらしたり、週刊誌やスポーツ新聞を読んだり、たわいもない雑談をして時間を過ごす。

 その休憩中、ときどき魚介類加工工場で働いている女性作業員がやってきて、ぼくたちの雑談に加わることがある。

「おい、姉ちゃん。おれ、子供が好きなんだよ。おれの子供、産んでくれよ」

「何言ってんだよ。子供が好きって言うより、子供作る、その行為が好きなんだろ」

 男性作業員の冷やかしに女性作業員がやり返し、その場で大爆笑が起こる。

 ぼくはそんな光景を少し離れたところから眺め、段ボールの上で寝そべって、自分の身体をいたわるのだった。

 午後五時。仕事が終わって地下の事務所に行くと、親方がひとりひとりに日当を払いながら、

「おう、お疲れ様。明日も頼むよ」と、ねぎらいの言葉をかけてくれる。

 その日当は当然肉体を酷使した対価であり、それ相当な金額だった。それをもらったぼくは、これで目標がまた一歩近づいたと思い、満ち足りた気分になる。

「明日も来ます」

 と、親方に挨拶してぼくは外に出る。外はまだ気温が高くて、湿った空気がまたたく間にるぼくの全身にまとわりつく。陽はまだ高くて、その下を品川駅まで歩くと、ぼくはもうそれだけで汗だくになってしまうのだ。そして品川駅の長い地下道を歩きながらぼくは、目標まであと〇〇万円、〇万円と自分に言い聞かせ、明日もまた頑張るぞ、と心に誓うのだった。


               【5】


 その過酷なアルバイトを経て手に入れたオートバイが、海と灯台の景色に溶け込んで今、ぼくの目の前にある。いつまでも見ていたい光景。眺めていたい風景。

 腕時計を見た。時刻は午前十一時二十分。雲は多いが雨の心配はない。

 ぼくはオートバイにまたがり、メインスイッチをオンにしてからキックペダルを踏み降ろした。エンジンは一度身震いしてから目を覚ました。エグゾーストマフラーからは、単気筒特有の弾むような音が吐き出される。

 次の目的地は野島埼灯台だ。ぼくはエンジンを軽くレーシングさせてからクラッチを握り、シフトペダルを踏んで、クラッチを離した。するとオートバイは鮮やにターンしながら、道路に出た。


 房総フラワーラインを、ぼくは走る。風は追い風だ。道路の右側に白い砂浜と青い海がどこまでも広がっている。左側が熱帯植物のフェニックス、菜の花畑、マーガレット畑が続く。このあたり一帯は毎年、ひと足早い春が訪れ、観光客や旅人たちの心を和ませる地域だ。

 ときおりすれ違うオートバイが、今度はぼくにピースサインを送ってよこした。ぼくも嬉しくなってオーバーアクション気味にピースサインを送り返す。

 名も知らぬライダー同士の邂逅かいこう。オートバイに乗っているという、ただそれだけの共通点でその刹那、刹那の感動を分かち合うライダーたち。

 だからこそ、と、ぼくは思う。だからこそぼくはオートバイに乗るんだ。、その出会い、感動を大切にするんだと。

 

 鴨川、勝浦、御宿。そして一之宮、九十九里を抜け、結局ぼくは海沿いの道を片貝まで走った。そこからは県道経由で国道126号線に入り、東金、千葉市を過ぎて京葉道路に戻る。この有料道路を走って行けばその先は東京なのだ。

 ぼくはこの京葉道路を制限速度をちょっとオーバーした速度で走った。この道路は両側に防音防護壁が設置されていて、少し殺風景だ。けれどもときどきその防音壁が途切れた道路の右側に、派手な色彩に彩られた怪しげなホテルが見えたりする。同じように左側には遊園地、工場、競馬場などが姿を現わし、やがて後方に遠ざかっていく。工事中の湾岸道路の先は海のはずなのだが、ここからはよく見えない。

たとえ見えたとしても、くすんだ海だろう。特に目を引くものではない。


 ふたつ目の料金所を過ぎてしばらく走っていると、京葉道路は江戸川を跨ぐ橋にさしかかり、終点となった。ここで道路は首都高速と一般道に分岐するのだ。

 ぼくはここで京葉道路に別れを告げ、一般道に降りた。

 けれども家までは、まだ道のりがある。気分も高揚しているし、もう少し走っていたい。風を感じていたい。

 そんなことを思ってオートバイを走らせていると、前方に環状七号線との交差点が見えてきた。ぼくはためらわず、フラッシャーを右に出し、後続のクルマに合図を送ってから右折ラインに入る。

 ぼくは右折ラインの先頭で対向車が途切れるのを待ってたのだが、対向車は一向に途切れない。そのためぼくは信号が変わるまで、右折を待たなければならなかった。

 やがて信号が黄色になった。そして青の矢印が出た。ぼくは元気よくアクセルを開け、オートバイをバンクさせた。不安感はない。タイヤの駆動力と遠心力がうまくマッチして、やがてまわりの景色が斜めになってヘルメットをかすめていく。

 これだ。これなんだよ。オートバイの醍醐味は。この感覚を味わいたくてぼくは、オートバイに乗っているんだよ。

 そうだ。ぼくはこの相棒を『風』と呼ぼう。この相棒と過ごした日々を『風たちの日々』と呼ぼう。

 

 そのあとぼくは、毎月のように相棒に乗ってはツーリングに出かけた。

ときにはぼくにオートバイを教えてくれた中学時代の同級生や大学ので知り合ったバイク仲間と一緒に走ることもあったけれど、基本的にはソロツーリングだ。相棒、と呼ぶにふさわしいこの400cc単気筒マシン。こいつと過ごした多くの日々がぼくが言う『風たちの日々』というわけだ。

 その中でも寺下龍二の詩物語『星と少女とオートバイ』、『そしてもうひとつのピリオド』。その物語に憧れて十和田湖までロングツーリングにでかけたことが、これまでのぼくの最高の『風たちの日々』だろうか。


 そんなオートバイとの日々を過ごしていた十月のある日、ぼくに一本の電話がかかってきた。

 実はその電話がぼくとヒロミの、新しいステージの始まりだったのだ。

 ヒロミ。やはりぼくたちは、運命なのだろうか。

 常にぼくたちのベクトルは、そこに向かってしまうのだろうか。

 それは運命の糸にしろ、神さまの意図にしろ。




                           《この物語 続きます》




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