2.地方都市駅裏町の警察署
第5話 中邑嚆矢(なかむらこうし)-1
「失礼いたします」
控えめな挨拶だ。
警察署の二階、刑事課オフィスの片隅だった。移動式の衝立で仕切った応接コーナーに若い女刑事が立ち寄り、上司に何やら耳打ちして出て行く。
中邑嚆矢はぼんやりと彼女の背中を眺めた。
そのまま外回りの営業に出ても違和感のない地味なスーツの女刑事だ。美人女優がドラマで演じている男勝りなキャラクターとはまるで雰囲気が違う。そうか警察官だって普通の公務員なんだよなと思い至り、中邑は勝手に納得した。
女刑事が退出すると再び三人きりになる。
薄い応接テーブルの真正面には刑事がふたりいた。
主に話しかけてくるのは向かって右側の田中警部補、肥満気味で躰が大きく擬人化した狸のような顔をしている。中邑に生年月日を言わせて「私のほうが先輩ですね」と笑ったから三十代の後半だろう。中邑は視線を逸らした。だからといって特に親近感はない。
その隣に座って一言も喋らずメモをとっている刑事は、田中警部補よりも一世代若い。何を必死に書き留めているのかはわからないが、どうか誠実に真面目にそして正しく記録してくれよと中邑は祈った。
「お話が途中になってしまい失礼しました。急ぎの知らせで」
女刑事に耳打ちされた伝言を脳内で吟味し終えると、田中警部補は肩を揺らし、狭い応接テーブル越しに微笑みかけた。
「中邑さん、いい知らせですよ。被害に遭った女の子の手術がうまくいったそうです。思ったより傷が浅かったらしい。経過も順調でもう大丈夫、意識が戻りしだい事件当時の詳しい話が聴けるでしょう。迅速な通報のおかげです」
「あ……よかった……本当に!」
中邑の口から大きな声が出た。
青ざめていた頬がゆるんで視線に生気が戻る。
心から安堵して長く吐息した中邑のしぐさを、田中警部補は注意深く眺めた。
躰の線が細く頼りない男だ。
十年勤めた上場企業の地方支社を先月退職して現在は無職。中肉中背、くたびれかけたポロシャツと色あせたジーンズ。伸びかけた髪、髭は薄く、乳白色のシリコンケースにしがみついているのは使い古した小型スマートフォン、そしてブランドロゴマークが剥がれかけた薄い財布。所持品の数々は統一性のない安物だが、清潔感があり下品な印象はない。洒落たデザインの高級品には興味がなく、服も雑貨も実用重視で長く使える買い物を心がけているとみた。
田中警部補が中邑嚆矢から感じ取った第一印象は悪くない。
自己紹介に馴れており、一般的な世間話を振ったときの反応もよくコミュニケーション能力が高い。顧客の笑顔のためならばと命を削る営業マンだったのだろう。だが有能なサラリーマンは入社後十年を過ぎたあたりで故障しやすい。田中警部補はそんなふうに壊れてしまった人間をこれまで数多く見てきた。警察官として向き合った彼らのうちの半分は犯罪被害者で、そして残りの半分が犯罪加害者だった。
さて中邑嚆矢はどうだろう。
他愛ない雑談で探ったところ、この男は未婚で恋人もなく婚活をしている様子もない。趣味は古き良きハリウッド産の大味なアクション映画鑑賞と野球中継観戦と深夜のジョギング。
退職理由は過度のストレス。
過労で自律神経が不安定になってしまったという。薬を飲みながらストレスのない生活と軽い運動と食事療法を続ければ一年ほどで社会復帰できるというのが医者の見立てらしい。
そうはいわれても気持ちの持ちようで不眠は治らない。ならばとりあえず走ってみようと、彼は深夜に五キロほど軽いジョギングをしている。
昨夜、いや正確に言えば本日の午前三時もそうだった。
スマートフォンのイヤホンを両耳に詰めてマキシマムザホルモンの曲を聴きながら未明の裏通りを走っていた中邑嚆矢は、公園の砂場で倒れている血塗れの少女を発見した。そしてすべての善人がそうするように救急車を呼び、翌朝の午前十時にはこうして警察署で捜査に協力している。
田中警部補は中邑の表情に合わせて呼吸した。
中邑が嘘をついているようには見えない。もちろん根拠はない。
だが、状況はこの男を疑えと告げている。
深夜に女子中学生が殺されかけた。腹を刺されていた。
そして実はこれが初めてではない。
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