第15話 証言6 敵の話

 長井氏のオフィスは、歯医者の待合室程度の大きさの小部屋だった。調度はデスクとファイルキャビネットだけ、それも実用一点張りのスチール製で、表の店の贅沢な雰囲気はかけらもなかった。俺はデスクを挟んで長井氏と向かい合ってすわった。

「俺に話があるそうだな」

「はい」

「なぜ、偽名なんか使った?」

「本名じゃ取り次いでもらえないでしょうから」

「ほう。本名は?」

「ミスター・ノーボディ」

 ふん、と長井氏は鼻を鳴らした。

「無名人の俺が、あなたみたいにガードの固い人に会ってもらうには、こうするしかなかったんです。失礼はお詫びします。マネージャー氏にも案内係にも、俺が謝罪していたとお伝えください」

「今度はいきなり低姿勢か。くるくると態度のよく変わる男だな。で、何しに来たんだ? ここまで入り込んできた以上は聞いてやる。だが、さっさと済ませろ。俺は忙しい」

「沢木実さんが殺されたことはご存知ですね?」

「知ってる。ニュースで見た」

「五月××日火曜日の夜十一時半から翌日の午前二時半までの間、どこにいましたか?」

 長井氏の目が光った。

「俺を疑ってるのか?」

「お答えいただけますか?」

 長井氏は肩をすくめた。

「警察でもないミスター・ノーボディに答えてやる義務はないんだが、隠す必要もないから教えてやる。サンタモニカの自宅にいた。証人は女房と俺の会計士だ。会計士は友人で、一緒に一杯やって、零時過ぎに帰った。そのあとのアリバイ証人は女房しかいない。会計士の名前と連絡先がいるか?」

「もし、差支えがないなら」

 長井氏は、デスクから名刺を取り出すと、名前と電話番号を走り書きして俺の前に放った。

「そいつを見せれば、ミスター・ノーボディでも会ってくれる」

 どうも、と俺は名刺を取ってポケットに入れたが、おそらく電話することはないだろうと思った。話に聞いた時にはうさんくさかったナガイは実際に会ってみると、抜け目のない目をしたエネルギッシュなビジネスマンだった。あけっぴろげで大胆、この男は日の当たる庭で咲き誇るひまわりだ。薄暗いじめじめした土壌に育つ殺人とは縁が無い。

「俺の方からも、ひとつ質問させてくれ」

 長井氏は、鋭い目で俺を見ながら言った。

「なぜ、俺が沢木の敵なんだ?」

「二週間ほど前、『やまと』に沢木さんを訪ねられましたね?」

「ああ」

「メルセデス・ベンツで」

「その通りだ」

「あなたが帰られた後、沢木さんはあなたを『敵』と呼んだそうです」

 長井氏は横面を張られたような顔をした。

「沢木がそう言ったのか?」

 俺はうなずいた。

 長井氏は俺の言葉を受け入れるのに苦労しているようだった。しばらくの間、苦い顔で黙りこくっていたが、やがて、そうか、とあきらめたように言った。

「沢木は、そう思ったかもしれないな」

「沢木さんとは古くからのお知り合いなんですか?」

「もう、七、八年も前になるかな。パサデナに『さくら』という寿司屋があった。もう無くなっちまったがな。カウンターが十席、テーブルが三つのちっぽけな店で、俺と沢木は二人並んで寿司を握ってたんだ」

 長井氏の声に懐かしさがにじんだ。

「沢木がチーフで俺がサブだった。沢木は築地できっちり修業した一人前の寿司職人だったが、俺といえば、見よう見まねで仕事を覚えた、素人に毛の生えた程度の腕だった」

 長井氏は照れたように白い歯を見せて笑った。

「俺は親とうまくいかなくてな。自分が親になって初めて親の苦労がわかったが、あの頃はいっぱし、生意気な口をきいていた。高校をかろうじて卒業するとすぐバイトで貯めた金を持ってここへ来た。学生ビザだったが、もちろん、英語学校なんか行きやしない。生活するので精一杯だった。随分、いろんな仕事をした。ウエイター、コック、庭師、プール清掃、観光バスの運転手、イチゴ摘み、農場の手伝い、大工の真似事、犬の散歩……モグリでできる肉体労働は大概経験した。寿司を握り始めたのは、特殊技能扱いになって、永住権が取りやすいのと、給料が他の労働に比べていいからだ。方便さ。寿司を握ることにプライドなんか持っちゃいなかった。プライドを持てるほどの腕じゃなかったのも確かだけどな。だが、沢木は違ってた」

「プライドを持っていた?」

「持ちすぎるくらいにな。寿司はネタのよさとシャリのうまさが命だと言っていた。沢木の理想とする寿司は江戸前の握りなんだ。だが、ここで普通のアメリカ人が考える寿司の代表は、カリフォルニアロールだ。カウンターにすわっても、客はみんなロールばかり注文する。それに醤油じゃなく、甘いテリヤキのたれや鰻の蒲焼用のたれをつけたり、辛いソースやマヨネーズをたっぷりつけて食べる。それでもって、自分は寿司のファンなんだ、と得々と話すんだから、本格的に修業した沢木には辛いところがあった。文化の違いでしょうがないにしても、中には、ロールの中身だけ掘り出して食べて、シャリは全部残す客もいる。具をほじくり出されてぽっかり穴の空いた巻寿司が、皿の上に死屍累々と積み重なってるのを見ると、俺でもむなしい気がした。客にしてみれば、ライスを食べると太るから残す、それの何が悪いってことなんだろうが」

「俺も寿司屋でウエイターしたことありますから、気持ちはわかります。アトキンソン・ダイエットが流行った頃は特にひどかった。あれは、炭水化物を目の敵にしますから」

 俺が言葉を挟むと、長井氏はうなずいた。

「アトキンソンやってるなら、寿司は食わなきゃいいんだがな。だがまあ、どんな食い方しようと金を払ってくれる以上、客は客だ。そう割り切らないとやっていけない」

「実さんは割り切れなかったんですか?」

「努力はしてた。でも、あいつは正直だろう? 不機嫌が顔に出ちまうんだ。あまり客あしらいはうまくなかった」

 俺は「やまと」での実さんの評判を思い出した。そういうところは、昔から全く変わっていなかったらしい。変わろうとしても、変われなかったのか。

 長井氏は突然に話題を変えた。

「『花菱』ってレストランの名前、聞いたことあるか?」

 俺は記憶を探った。

「高級レストランでしたけど、数年前に、何か問題を起こしたんじゃなかったですか?」

「うん。『花菱』は高級本格日本料理店として名前を知られてた。サウスベイにあって、まわりの日本企業御用達の接待用レストランみたいなもんだった。日本からの駐在員は会社の金をフルに使えて金回りがよかったから、『花菱』は景気がよかったんだ。その『花菱』から沢木に引き抜きの話があった時、沢木は喜んだ。給料が段違いにいいのを別にしても、『花菱』の日本人客相手なら、沢木の望むような寿司を握る機会はずっと多くなる。腕のふるいがいがあるじゃないか。話を聞いて沢木の彼女も日本からやってきた。サウスベイなら、周囲に日本語の通じる店はたくさんあるし、日本人も多い。英語の得意でない人間でも、生活していける。二人でアパートを借りて一緒に暮らそうと思うって、沢木は幸福そうに話してたよ」

 真由ちゃんだ、と俺は思った。日本にいた頃からの恋人だったのか。

「ところがだ、沢木の移籍の話はなかなか進まず、そのうち立ち消えになってしまった。代わりに俺が誘われた」

「なぜ?」

「知らんよ。言っとくが、俺は汚い手を使って沢木に来た話を横取りなんかしてないぞ。ただ、『花菱』のオーナーから来た話を受けただけだ。俺が受けなきゃ沢木に行くってわけじゃないからな。誰か他の店の寿司職人に行くだけだ。沢木もそれはわかってた」

 長井氏は居心地の悪そうな顔をした。

「ずっと後になって聞いたんだが、最初に沢木に話を持ってきたのは、『花菱』のマネージャーだそうだ。『花菱』の寿司職人が一人、辞めることになって、後釜を探していた時、本格的に修業した寿司職人ってことで沢木に目をつけた。その後で、『花菱』のオーナーが、客を装って黙って『さくら』に下見に来た。オーナーは沢木が気に入らなかったらしい。それで話は流れた。流れた話を俺が拾った。そういうことだ」

 暗に、俺が悪いんじゃない、と言いたいんだろう。確かに長井氏のせいじゃない。幸運の女神は、実さんにそっぽを向き、長井氏に微笑んだ。それでも長井氏はなんとなく、気がとがめるのだろう。だから俺なんかを相手に、こんな話をしてる。外見はどうあろうと、長井氏は誠実な人なんだ。

それで、と俺は話の続きを促した。

「俺は『花菱』に移った。しばらくして『さくら』は閉店したと聞いた。沢木はどこか他の店に移ったんだろうと思ったが、自分のことで精一杯で、気にかける余裕はなかった。知識も技術もない半ちくの寿司職人だったからな。『花菱』のチーフに怒鳴られながら、なんとか一人前になって永住権がとれるまでに三年かかったよ。それから、あの問題が起きたんだ」

 長井氏は俺に、ビールでも飲むか? と訊ねた。俺が車だから、と辞退すると、じゃあ、コーヒーでも、と言った。長井氏はインターフォンで飲み物を言いつけると、椅子の背に寄りかかった。

「昔話ってのは喉が渇くな」

 ウエイトレスが長井氏にバドワイザー、俺にコーヒーを運んできた。ウエイトレスが出ていくと、長井氏はボトルから豪快にぐい飲みして、また話を始めた。

「『花菱』は日本と比べてもひけをとらないクオリティの日本食を出すのが売りだった。アメリカ人は質はともかく、量がたっぷりあれば一応、満足する。日本人は逆だ。だから、日本人の好みに合わせるために、『花菱』のオーナーは無理をしてるとこがあった。『花菱』の人気メニューにすき焼きがあった。オーナーは極上の神戸牛を日本から取り寄せて客に供していた。ただ、正式に輸入したわけじゃなく、日本の知り合いからオーナー個人へ、こっそりと空輸してたんだ。これがFDA(アメリカ食品医薬品局)にばれて、『花菱』は営業停止処分を受けた」

「ああ、思い出しました。日本語の新聞なんかじゃ大きく取り上げてました」

「うん。『花菱』は閉店に追い込まれ、俺たち従業員はみんな職を失ったんだが、それはまあいい。そのうち皆、次の職場を見つけたよ。ただ、皆が不思議に思ったのは、なぜ、密輸入の一件がFDAにばれたのかってことだ。そして噂が流れた。FDAに密告したやつがいる、と。誰かが、沢木実の名前を口にした。数年前、移籍話が流れたのを根にもって、沢木がFDAに密告したというんだ」

「そんな!」

 俺は声をあげた。

 密告はありそうな話だ。俺が聞いても、「花菱」の成功を妬んだ同業者の密告という気がする。限られた客を奪い合う競争はシビアだ。えげつない手を使ってでも、ライバルを蹴落とそうとする人間はいるだろう。

 俺の働く「エコー」なんてちっぽけな店でさえ、ターゲットにされる。前に、仕事が終わって帰ろうとすると、俺の車のワイパーに近所に新規開店したカラオケ店のチラシが挟んであった。店の駐車場に停めてあったから、カラオケ客の車だと思ったんだろう。マーケティング戦略としては効率がいいのかもしれないが、新規の客を開拓する手間を省いて、ダイレクトに客の横取りに出る強引なやり方には、興ざめする思いだった。

なりふり構わず客を奪い取ろうとするやつなら、密告してライバルをつぶし、その濡れ衣を実さんに着せることなんか平気だろう。

「実さんが密告したという証拠でもあるんですか?」

 俺は憤然として言った。

「あるものか。ただの噂だ。だからこそ怖いんだ。誰が言ったかわからないから、どこへも尻の持ち込みようがない。それでいて、みんなが知っているんだ」

「証拠も無いのに根も葉もない噂を信じるなんて」

「俺は信じなかった。沢木を直接知ってる人間は誰も信じなかった。だがな、噂を聞いたほとんどの人間は沢木に会ったこともないんだ。運の悪いことに沢木がその頃勤めていたレストランが業績不振で閉店した。新しい勤め口を見つけなきゃならないが、LAの日本食業界なんて狭いものだ。悪い噂の立っている沢木を雇うところはなかった。『やまと』は、切羽つまった沢木に、昔修業した築地の店の先輩に当たる人が世話した店だそうだ」

 幡野さんだ。

 長井氏は、ビールを飲みほすと、ボトルをくずかごに投げ込んだ。

「俺は、沢木を引き抜きに行ったんだ」

「え?」

「俺は運が良かった。いや、運ばかりでもないがな。『花菱』がつぶれた時、得意客の一人が、俺に、出資するから店を持たないか、と言ってきたんだ。『花菱』は客層は良かったからな。俺はその話に乗った。それが、この『ライジング・サン』だ。幸い繁盛して、俺は共同経営者になった。今度、寿司シェフの一人が引退するんで、誰か腕のいい寿司職人に来てほしかった。で、沢木のことを思い出した。調べてみると、『やまと』にいて、大した給料はもらってない」

 長井氏はにやりと笑った。抜け目のないビジネスマンの顔がちらりとのぞいた。

「蛇のみちはへびでね。こういうことは裏から手を回せばわかるものさ。沢木の知識と技術、経験を考えれば、えらい低賃金だ。『やまと』のオーナーのやつ、足元を見やがったな、と思ったよ。それなら、沢木に直接会って説けば、うちに来る気になるんじゃないかと思った」

 考えもしなかった展開だった。ナガイは、実さんの敵のはずじゃなかったのか? 俺が驚いて何も言えないでいるうちに、長井氏は話を続け、俺は黙って耳を傾けた。

「七、八年ぶりにあった沢木は全く変わってなかった。俺の方は変わってたらしい。沢木は初め、俺が前にすわっても気がつかなかったからな。沢木の握った寿司を食べながら、あいつの休憩時間になるのを待って、車で連れ出した。店の中で引き抜きの話をするわけにはいかないじゃないか。初め、沢木は驚いてたよ。俺が店を持ったことは知らなかったらしい。俺は『ライジング・サン』の載っている日本語情報誌を見せた。ジャパニーズ・フュージョンだから沢木が望むような握り中心の店じゃないが、給料は今よりずっと良くなる。新しいメニューも開拓したい。だから、沢木の力を借りたいと言った。格下だった俺に使われることになるのは、プライドの高い沢木にはつらいかもしれない。そう思って、十分に配慮はしたつもりなんだが」

 長井氏の表情に淋しげな影がさした。

「実さんはなんて言ったんです?」

「すぐにはうん、と言わなかった。『俺とお前は違う、ロールばかり握るのは俺のポリシーに反する』と言いやがった。俺は苛々した。きれいごとばかり言ってたら、ここでは生き残っていけない。お前のポリシーはお前が自分の店を持ってから貫けばいい。今は店を持てるようになる算段をしろ、と言ってやった。沢木はしばらく黙ってたよ。少し考える時間をくれ、と言った」

 長井氏はため息をついた。

「あの時は、わかってくれたと思ったんだが。『敵』と呼んだのなら、やっぱり、だめだったんだな」

 そうとも限りませんよ、と俺は言った。

「『敵』と呼んだと言ったのは、メキシカンのバスボーイです。実さんは彼とはいつもスペイン語で会話していました。語彙には限りがあったはずです。『敵』にもいろいろあるでしょう。憎むべき『敵』もあれば、『好敵手』としての敵もある。実さんは、ライバルという意味で『敵』と呼んだんじゃないのかな」

 俺は実さんのアパートにあった日本語情報誌を思い出した。賭けてもいい。あの名刺は、「ライジング・サン」のページに挟んであったんだ。実さんは敵前逃亡する気はなかった。長井氏のチャレンジを受けて立つつもりだったんだ。

 俺がそう言うと、長井氏は、嬉しがらせるじゃないか、と言った。吹っ切れたように、長井氏の目から暗い色が消えて、代わりに憤りの表情が浮かんだ。

「だが、沢木は殺されたんだろう? 一体、誰がやったんだ」

「俺もそれが知りたいんです」

 俺は幡野さんの依頼で実さんの周辺を調べていることを話した。

「そうか。沢木の弟が来るのか。もし、葬式をこっちでやるなら、俺にも知らせてくれ、と、その幡野さんに頼んでくれ。焼香ぐらいしに行く」

 もう話すことはなさそうだった。俺は立ち上がった。

「長々お時間を頂きました」

「元気でな、ミスター・ノーボディ」

「俺の名前はノーボディじゃないです。俺は……」

 いい、と長井氏は手を振った。

「ノーボディの名前なんか聞いてもしょうがない。俺は人の名前は憶えられないタチなんだ。俺の店の客だけは別だがな。次に来る時は、客として来い。そしたら、名前を覚えてやるよ」

「俺がこんな高級店に来られるようになるのは、大分先の話になると思います」

「心配するな。十年先でも、『ライジング・サン』はちゃんとここにあるから」

 俺は長井氏と握手した。肉体労働に励んだ過去のある、がっしりとした手だった。

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