第16話 正義の問題
俺のアパートは、ダウンタウンのすぐ東のモントレイ・パークにある。かっては日系移民が多かった地域だが、今は他の町と同じく、ラテン系民族が大多数になっている。小さな敷地にきっちりとタウンハウスやアパートが立ち並び、町並みは美しいとは言いかねるけれど、家賃の安さとダウンタウンへの近さが魅力だった。
マリブから戻ってくると、もう夜十一時を回っていた。アパートの駐車場はいっぱいで、誰かがまた、俺専用のスペースを勝手に占拠して車をとめている。俺は舌打ちして駐車場を出た。駐車できる場所を見つけるまでに近隣の道路をかなり走りまわり、シヴィックを路上駐車してようようアパートに戻ってきた時はくたくただった。
アパートの二階に通じる外階段を登り、鍵を開けて部屋に入った。ドアを閉め、明かりをつけたとたん、とんでもないものが目に入った。
居間の真ん中に据えた安楽椅子にルディがすわっていた。まっすぐに俺を見ている。右手に構えた銃口も、まっすぐに俺の方を向いていた。同時に誰かが俺の後ろに回りこんだ。肩甲骨の下に鋭くとがったものが当たった。
「お帰り、ヒロ」
ルディの声は落ち着いていた。俺は口の中がからからに渇いて、返事なんかできない。アメリカに住んで九年二ヶ月、今まで銃を突きつけられたことはなかった。夜の駐車場や、働いてる店の閉店後に、強盗に襲われたことのある友人たちからは、幸運だと言われていた。その幸運も尽きたらしい。銃口を真っ向から眺めるのが、こんなに剣呑で、冷や汗の出るものとは知らなかった。
「すわれよ」
俺の足は根が生えたように動かない。
ルディの銃口がくいくいと左に動いた。後ろの誰かが、肩を掴んで俺の身体を前に押し出す。俺はぎくしゃくと歩いてソファにすわった。自分の身体が自分のものでないような気がした。目は銃口から離せない。男は俺の後ろに立った。肩甲骨に触れていた鋭く尖ったものは、今は俺の右肩に載っている。シャープな刃先を俺の右の耳下に向けている。
「驚かせてごめんよ。どうしても聞きたいことがあったんだ」
ルディは気が狂ったんじゃないらしい。この間の夜、インタビューした時と何も変わらない語調だ。俺は喉から言葉を無理矢理に絞り出した。
「まず、その銃を下ろしてくれないか」
ルディは素直に銃を膝の上に下ろした。
俺はほっとした。身体が弛緩すると同時に、全身からどっと汗が吹き出した。後ろの男はナイフを向けたままだ。だが、真っ向から俺の眉間を睨んでいる死神がいなくなっただけで、気分は随分楽になった。遅ればせながら、腹立たしさがこみ上げてきた。
「どういうつもりなんだ。どうやってここに入った?」
「こんなボロアパート、ピン一つで簡単に入れるさ。言ったろう、聞きたいことがあるんだ」
「何を聞きたい」
「ミノルの敵」
ルディの目は恐ろしいほど真剣な色をたたえていた。
「教えてくれって言ったはずだよ」
俺が黙っていると、ルディは穏やかな口調で続けた。
「ヒロは一昨日ミノルのアパートに行った。今日は店を休んでどこかへ出かけていた。僕はちゃんとヒロを見張ってたんだ。ヒロはコジロを見つけたんだ」
「いや、見つけてない」
「嘘をついても無駄だよ」
「嘘はついてない。メルセデス・ベンツの男はコジロという名前じゃなかった。それに、彼はミノルの敵でもない」
「ミノルは敵だと言ったんだ」
「多分、君が受け取ったのとは違う意味で敵と言ったんだ。聞いてくれ。ベンツの男はミノルの昔の同僚で、今は大きなレストランのオーナーになっている。彼はミノルを『やまと』から引き抜きに来てたんだ。ずっといい条件の仕事をオファーした」
「嘘だ」
「嘘じゃない。ミノルは、考えてみると答えたそうだ。移籍に気持ちが動いていたんだ。その証拠もある。それに、ミノルが殺された夜、ベンツの男にはちゃんとアリバイがある。僕が調べた。証人もいる」
俺は必死だった。が、ルディはほとんど聞いていなかった。それなら、と言った。
「それなら、ミノルはどうして死んだんだ」
ルディは突然、銃を取り上げた。おい、よせ、と俺が叫ぶ間に、畜生! とわめくなり、いきなり天井にむかってぶっぱなした。
バンという轟音と共に、ガラスが砕ける音が響き、部屋が真っ暗になった。ルディの発射した弾は、電灯のかさを貫いて電球を打ち砕いたらしい。濃い火薬の匂いがつんと鼻を刺す。しばらく、誰も動けなかった。
それから暗闇の中で、どたどたと重い足音がして、ドアを開け閉めする音が響いた。いつの間にか、俺の後ろにいた男がいなくなっていた。俺の首に突きつけられていた刃物も一緒に消えて、俺は胸をなでおろした。
「おい、大丈夫か?」
俺は部屋の中央付近に向かって聞いた。その辺りから、ルディの荒い息づかいが聞こえてくる。ルディは返事をしなかった。
「どうした? けがをしたのか? 待ってろ、今、懐中電灯を…」
俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。遠くから聞き覚えのある音が響いてくる。ポリスカーのサイレンだ。
やばい。
アパートの誰かが、銃声がしたと通報したに違いない。俺は拳銃の携帯許可を持っていない。未成年のルディはもちろん、そんなもの持ってるはずがない。今、警察に踏み込まれるのは困る。絶対に困る。
「ルディ、急げ。そいつを持ってここを出るんだ」
俺は手探りでルディを引っつかむと、アパートを出た。大急ぎで鍵をかけ、ぼうとしているルディを引きずるようにして階段を下りた。サイレンの音は段々近づいてくる。俺は駐車場に向かおうとして、唸り声をあげた。
「どうした?」
ルディがここ数分間で初めて口をきいた。
「俺の車。路上駐車してあるんだ」
銃声のしたアパート付近をこんな時間にうろうろ歩いていたら、不審者として尋問されない方がおかしい。身体検査されたら、たちまち不法所持の拳銃が見つかる。
「大丈夫だよ」
ルディが言って、俺の腕を引っ張って駐車場に向かう。
俺の専用駐車スペースに、磨きぬいた暗い鏡のように光るゴージャスな車がとまっていた。そうか、さっきちらりと見た車は、ルディのアキュラだったのだ。
ルディは一言も言わずに車に乗り込み、俺は助手席に乗った。ルディの運転は滑らかだった。ポリスが到着するずっと前に、俺たちは市街地を抜けてフリーウエイに乗っていた。
「さっきのナイフの男は君の友達か?」
「うん。彼なら大丈夫。こんなことには慣れてる」
「そうか」
慣れてるのはあまり感心しないが、一応、俺は安心した。
「さっきのメルセデスの男の話は本当なんだね?」
「本当だ」
俺は長井氏の話を、念のため固有名詞だけは伏せて――血の気の多いラテン気質は何を考えるかわからないから――すべてルディに話した。ルディは黙って聞いていた。俺が話し終えると、わかった、信用する、と言った。
「そうか、信用してくれるか」
「うん。そんな面倒な話、ヒロが創作できるとは思えない」
何かひっかかる言い方だが、追求しないことにした。
「警察は、女を引っ張ったって聞いた」
俺は慌てた。
「おい、香織さんは違うぞ。警察は間違った人間を捕まえたんだ。あの夜、香織さんは俺と一緒にいたんだ」
「ミノルが会ったのは、ミニクーパーの方だろ? なんで警察に言わないのさ」
「彼女を巻き込まないためだよ。実さんは最後の夜、ウエディングギフトを渡して、彼女の前途を祝福した。」
「ミノル、最後までかっこつけてたんだ」
俺たちはしばらく黙って、夜のフリーウェイを走り続けた。LAの夜は闇とは縁が無い。夜を徹して煌々と灯り続けるネオンのせいで、夜空はぼんやりと明るい。そこを薄い灰色の雲が流れていった。上空には風があるのだろう。
「ルディ」
「何?」
「君、ギャングに入ってるのか?」
「なんだい、いきなり」
「入ってるのか?」
「入ってないよ」
ルディはむっとしたように答えた。
「ラテン系のティーンだからギャングメンバーだなんて、おまわりだけの偏見だよ」
「じゃあ、その銃はどうしたんだ」
「親父のだよ。ちょっと拝借したんだ」
「お前な…」
「親父はもう寝てる。朝までに返しておくから、気付かないよ」
「警察に見つかったら、お前だけじゃない、親父さんまでトラブルにまきこまれるんだぞ、わかってんのか?」
「うるさいなあ。返しておくって言ってるじゃないか」
ルディはやや乱暴に加速して、でも、あくまでもなめらかな動きで、前を走るムスタングを追い越した。
高をくくってしまえるのはルディの若さ、くよくよ心配するのは俺が年を食ったせい、そうして、ルディの親父さんに迷惑がかかるのを怖れているのは、まぎれもなく、俺が日本人である証拠だ。
「ヒロの方がよっぽどギャングらしく見えるよ。何なんだよ、その恰好」
ルディが言って、くくっと笑った。
「俺はギャングになるには年を食い過ぎてる」
「じゃあ、ジャパニーズ・ヤクザだ」
ロブはそのつもりだったのかもしれない。左の頬に、ナイフの傷跡をつけたがったのを、俺が断固拒否したのだ。ロブはテレビ界で、そこそこ仕事をしているが、最近は暇な時間が多くなった。
ハリウッドは経費節減のために仕事を賃金の安いカナダへどんどん移している。仕事がなくては人は暮らしていけない。そのうち、ロブは転職するかカナダ移住を考えなければならなくなるだろう。グローバル化は、人を根無し草にする。
俺たちはしばらくフリーウエイを走ってから、頃合を見計らって俺のアパートに戻った。ポリスカーはもういなかった。ルディは、俺の車の駐車してあるところまで送ってくれた。自分も車から降りて、しげしげと俺のシヴィックを眺めた。
「洗車したな」
「ルックスは君の車に及ばないけど、これでも俺の大事な相棒だからな」
ワックスもかけてやれよ、とルディは言った。ルディのアキュラは、街灯の明かりを反射して、夜の湖水のように光っていた。
ふと、俺はルディのTシャツの左袖が黒く汚れているのに気がついた。血だ。
「おい、左腕、どうしたんだ?」
ああ、とルディは左袖を見た。
「さっきガラスで切ったんだ。大したことない。もう、血も止まってるし」
「ほんとか? でもその腕……」
俺は、ルディの左の二の腕を指さした。そこに、黒々と血が流れている。いや、黒い蛇が這ったような文様がある。
「こいつ?」
ルディはTシャツの袖を捲り上げて俺に見せた。そこに、黒々と彫られているタトゥーを見た時、俺は、実さんの死の真相がわかったような気がした。
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