第14話 ナガイ

 俺は夕暮れのパシフィック・コースト・ハイウエイを北へ走っていた。左手にはマリブの長い海岸線が延びている。水平線近くをゆっくりと動くヨットの白帆が、暮れかけた空の色を背景に寒そうにはためいている。右側の丘の上には、オレンジ色の電灯のあかりがぽつぽつ灯り始めた。このあたりは、LAでも有数の高級住宅地だ。

 金曜日の夜とあって、遊びに出かける高級車がことさらに目立つ。俺の小さなシヴィックは、メルセデスやポルシェの間に挟まって、健気に、懸命に走る。次の休みの日には、また洗車して、今度はワックスもかけてやろうと心に誓う。黄色いフェラーリが海風を巻いて俺を追い抜いていった。スカーフをなびかせた、ちょっときれいな女の子が運転していたが、今日はほとんど気にならない。バットマンがバットカーで通りかかっても気にならないだろう。

俺はこれからナガイに会いに行くのだ。

 

 のりの持ってきた日本食レストランを特集した雑誌に、「ライジング・サン」というレストランが紹介されていた。マリブにある海を見晴らすジャパニーズ・フュージョン・レストランで、開店してまだ二年ちょっとだが、お店はお洒落で料理がおいしいと評判だという。お値段の方もそれなりに張るらしいが人気だそうだ。時々、あの映画このドラマで顔を見た人々がさりげなく食事に訪れたりもする。要予約。

 フードの写真が大きく載っている。色鮮やかなロール寿司、エディブルフラワーを散りばめた刺身サラダ、茹でたロブスター、ハマグリの吸い物、貝柱の刺身。どこがフュージョンなのかよくわからないが、うまそうではある。

 オーナーからのご挨拶の横に、小さな写真を見つけた時、俺は心の中で、ビンゴ! と叫んだ。一見、メキシカンかと思うほど浅黒い肌で、口髭を生やした男が真っ白な歯を見せて笑っている。緋色のシルクシャツの襟元を大きくくつろげているので、首にかかったゴールドのチェーンが見えている。「ライジング・サン」オーナーの長井恭介氏の風貌は、まさに咲枝さんの描写通りだった。


「今日のLA」誌は、来月号で「新しい日本料理」の特集を組むことに決定した。ついては、当誌専属ライターのノリアキ・ナカムラ氏が、ジャパニーズ・フュージョン料理で人気の「ライジング・サン」オーナーの長井氏にインタビューしたい。電話でそう言うと、快く承諾を得られたが、長井氏は非常に多忙で、時間が取れるのは二週間後になるという。それでは間に合わない。俺は作戦を変更した。

 金曜日の夜はレストランの書き入れ時だ。オーナーは店に居るだろう。そこに奇襲をかける。相手が驚いてまごまごしている隙に、こっちのペースに持ち込んで、無理矢理に自白させる。これでいこう。

 ひとつ、問題がある。金曜の夜は、「エコー」も忙しい。普通なら休みなど取れない。やむを得ず、仮病を使った。ひどい腹下しで動けない、と哀れっぽい声で電話をかけると、佐藤氏はさんざん罵ったあげく、今日はバイトの美紀ちゃんと二人でなんとかするから、明日は必ず出てこいよ、と言った。大事にしろ、とぶっきら棒に言われた時には、さすがに良心が痛んだ。

 

 やがてガラス張りのしゃれたレストランが見えてきた。そこを通り越して、脇道に入って車を停めた。LAでは、ひとは乗っている車でその人間を判断する。ヴァレーパーキングの高級レストランに俺のシヴィックを乗り入れるわけにはいかない。俺の愛車だ。いつもなら、ちっとも恥じたりしないけれど、今日は舞台設定上、都合が悪い。俺はレストランまで歩くことにした。

 レクサスやコルベットが次々に到着しているエントランスに近づくと、努めてゆったりと気楽そうに歩いた。幸い、気持ちのいい夕暮れで、待ち合わせの客がアペリティフの合間に外の空気を吸いに出てきたり、ディナーは終わったが話の終わらない客が海を見ながらしゃべっていたりで、人が頻繁に出たり入ったりしている。彼らの間にうまくまぎれ込むようにして、俺は店内に入った。

 真紅のカーペットが足裏に心地いい。右側にクローク、左手にちょっとしたバーがあって、数人の客がカクテルを飲みながら、テーブルが空くのを待っている。壁にはモダンな油絵がかけてあり、その前には白いバラをいっぱいに生けたヴェネチアングラスの花瓶が飾ってあった。奥のフロアは、純白のクロスのかかったテーブルが並び、エプロンをかけた制服のウエイター、ウエイトレスが忙しく行き来している。ざわざわとした人の話声、グラスやシルバーの触れ合う音がここまで響いてくる。テーブルは満席らしい。なるほど、金の匂いのぷんぷんするレストランだった。

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でいらっしゃいますか?」

黒い蝶ネクタイの案内係がどこからともなく現れた。

「いや、俺は食事に来たわけじゃない。オーナーの長井恭介氏に面会したいんだ」

俺の頭のてっぺんからつま先まで鋭い目が一瞬にしてスキャンした。

 俺は肩をそびやかした。

 そんなに悪くないはずだ。長めの髪はオールバックにしてジェルで固めた。ラフなジャケットとコットンパンツはノリアキ・ナカムラ氏のものだが、首に借り物の赤いシルクのスカーフを巻き、シャツの前ボタンは三つはずしてある。今朝はわざと髭剃りを怠け、目元にほんの少し、皺を描き、銀縁の眼鏡をかけた。同じアパートのメイクアップアーティストに昼飯をおごった成果だ。これで十歳は老けて見える、とロブは太鼓判を押した。

「お約束ですか?」

「いや、約束はないけど、長井氏は会ってくれる。取り次いでくれ」

「お名前をおうががいできますか?」

「ミノル・サワキ」

 案内係の表情には何の変化もなかった。この名前の意味がわからない全くの雑魚か、それともよっぽど度胸のすわった男か。後者だと少し面倒だ。

「サワキ様。ご用件をお話しいただきませんと、お取次ぎはできかねます。当レストランのオーナーは、非常に多忙でございまして……」

 雑魚だ。

「あんたじゃ話にならないな。マネージャーを呼んでくれ」

「サワキ様……」

「マネージャーだ」

 俺はポケットに手を突っ込み、あさっての方向を向いた。

 案内係は憎々しげに俺を睨んで、奥へ入っていった。バーの客が何人か、面白そうに俺たちの方を見ている。テーブルを待つ間の暇つぶしには格好のショーだとでも考えたんだろう。やがて、案内係が、黒服にびしっと身を固めた男と戻ってきた。

「こちらです」

 マネージャーは俺をどぶねずみでも見るような目で見て、案内係に、よろしい、仕事に戻りなさい、と言った。案内係はほっとした様子で、待たされて苛々している客の方に歩いていった。マネージャーはこちらに向き直った。

「当店のマネージャーをしております、ロペスと申します。お待たせして申し訳ない。ご用件をおうかがいいたします」

「オーナーの長井恭介氏に面会したい」

「お名前は?」

「ミノル・サワキ。何度も言わせるな」

 マネージャーはにやりと笑った。

 まずい。

 相手の笑みに不敵なものを感じて、俺の額に汗が吹き出た。

 「失礼いたしました。先ほどの男がお名前を聞き間違えたのではないかと思いましたもので。ミノル・サワキ氏。まちがいございませんか?」

不遜な笑みを浮かべながらも、マネージャーは馬鹿にしたように丁寧な口調を崩さない。俺は精一杯虚勢を張って答えた。

「まちがいない」

「さようで。それではお取次ぎできかねます」

 マネージャーはずいと前に出た。俺と鼻がぶつかりそうになるくらい近づくと、低い声で、警察を呼ばれないうちに出て失せろ、このイカサマ野郎、と言った。薄荷の匂いのする息がまともに俺の鼻先に吹き付けられた。マネージャーは俺より背が高く、体格もいい。まともに見下ろされて、内心、俺は縮み上がった。作戦は失敗だ。相手の方が一枚上手だった。蛇になってするりと入りこもうとしたら、マングースが出てきた。

 俺は無言のまま必死に相手を睨み返したが、負けは明らかだった。マネージャーはどすの利いた声で、聞こえたか? 引きずり出されたいのか? と続けた。ぐいと俺の腕を掴み、鋼鉄の力で締め付けてきた。俺はうめき声を押し殺して、言った。

「わかったよ。嘘を言ったのは悪かった。手を放してくれ」

 腕の圧迫は止まらない。

「手を放してくれたら、大人しく警察へ行くよ」

 力が緩んだ。俺は腕を振りほどいた。

「俺は警察へ行く。警察で、長井氏は殺された沢木氏の敵だったことを話してくる。ここへ来たのは、親切心からだ。おたくの店の評判を考えてやったんだ。だが、そっちがそのつもりなら……」

 マネージャーは俺を睨みつけた。



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