第13話 手がかり
久しぶりに着たジャケットは、肩と二の腕のあたりが少しきつかった。知らない間に少し太ったようだ。週一回のジョギングじゃ、目前に迫る三十代の中年太りをくい止めるには足りないらしい。来週から週二回にしよう。
それ以外は、まあまあ及第だろう。コットンシャツにネクタイ、ラフなジャケット、コットンパンツ。黒縁の伊達眼鏡。鏡の中から見返してくる男は、マーロウには見えないけど、ウエイターにも見えない。俺はこれも久しぶりの革靴をはいて、朝の光の中に歩み出た。
俺の忠実なシヴィックが駐車場で待っている。年式が古いのは隠しようもないが、洗車したばかりでフロントガラスもミラーもぴかぴかに光っている。ハヤブサは無理でも、ツバメくらいには見える。
俺は、六十番フリーウエイに乗って、LAの東に向かった。実さんを殺した犯人を見つけるには、被害者の実さんをもっと良く知らなきゃならない。昨夜、幡野さんに電話して、実さんの住んでいたアパートを聞いた。
「どうやって入るんだ? 俺は鍵持ってないぞ」と幡野さんは言った。
「なんとかします。住所だけ教えてください」
幡野さんは「無茶するなよ」と言った。俺だって無茶はしたくない。でも、クライアントが檻の中じゃ、多少強引なのはしかたないんだ。
実さんのアパートは、「やまと」から車で三十分ほどのところにあった。
鉄柵で囲まれた狭い敷地の中に、味もそっけもない鉄筋コンクリートの二階建てが並んでいる。
道路に一番近い建物に、紫と黄色の横断幕がでかでかと張られていて「新入居サービス月間――家賃一ヶ月無料」と読める。どうやらそこが管理人のオフィスらしい。俺は、そのすぐ前の来客用の駐車スペースに車を入れた。ベルを鳴らすとすぐ、待っていたようにドアが開いて、太った中年の女が顔を出した。
「おはようございます。お部屋をお探しですか?」
「ちょっと部屋を見せてもらいたいんです」
どうぞどうぞ、と満面の笑顔でオフィスの中に招き入れられた。物置ほどの狭いスペースで、書類とパソコンの載ったデスクがやたらに大きく見える。ここのアパートの外観をを淡い水彩で描いた絵が、額に入って壁にかかっている。そうやってみると、結構、高級に見える。写真にしなかったのは正解だ。
「コーヒーは?」
「いや、結構です。あまり時間がないので」
仕事に遅刻したら、佐藤氏にどやされる。
まあ、お急ぎなのねえ、と管理人は満足気に言って、デスクの後ろに太った身体を窮屈そうに押し込んだ。
「それで、どんなお部屋をお望みで?」
「お宅の、二〇五号室を見せて頂きたいんです。わたしはこういう者です」
管理人の笑顔が消えた。
俺は昨夜パソコンで作ったばかりの名刺を差し出した。
「今日のLA ノリアキ・ナカムラ」とあって、住所と電話番号、メールアドレスが印刷してある。もちろん、全部でたらめだ。
管理人はろくろく見もしないで、名刺をデスクに置いた。
「日本人向けのタウン情報誌なんです。こちらにお住まいだった沢木実氏の部屋をちょっと見せていただきたいんですが」
「サムライの幽霊に殺された寿司シェフでしょ? お断りします。規則がありますから」
「しかし、警察の調べはもう終わったのでしょう?」
「入るなとは言われてませんけど、プライバシーの問題がありますからね。当月分の家賃はちゃんと頂いてますから、ご本人の代理人が見えるまで、部屋はそのままにしておくんです」
「部屋を荒らしたりはしませんよ。見るだけです。非常に特異な事件でした。日本人コミュニティはあの事件に興味を持っていまして、被害者の沢木氏にも大いに同情しているんです。沢木氏がこういう立派なアパートで平穏に暮らしていたということを知れば、大いに慰められるでしょう。ひいてはこのアパートにとっても、悪い話にはならないと思うんですがね」
「そうですかねえ」
管理人は疑い深そうな顔をした。当たり前だ。俺だって疑う。
「ご心配なら、立ち会ってくださってかまいませんよ。なに、大した時間はとりません。お時間頂いた分は、ちゃんとお礼をいたしますから」
俺はデスクの上に、二十ドル紙幣をそっと滑らせた。
「でも、規則だからねえ」
管理人は言ったが、視線は吸い付いたように紙幣から離れない。
「お名前は出しませんから、誰にもわかりませんよ」
俺は言って、もう一枚、二十ドル紙幣を追加した。康子さんの封筒に感謝だ。
「しょうがないねえ。見るだけですよ」
管理人は二枚の紙幣をするりとデスクから掬い取ると、引き出しからマスターキーを取り出した。
管理人は部屋を開けると、ドアに寄りかかった。
「ここですよ。早くして下さいね」
部屋はいわゆるスタジオフラットで、一室で寝室、居間、キッチンの機能を兼ね、それにユニットバスが付いている。
ホテルの部屋のように、がらんとした印象だった。きちんとメイクされたベッドとサイドテーブル、デスクと椅子、クロゼット。家具はそれだけだった。流しとガスレンジの周りに鍋やフライパンなどの調理用具は全く無い。冷蔵庫とコーヒーメーカー、電子レンジがあるだけで、それもほとんど使った様子がない。実さんは家で料理はしなかったのだろう。
作り付けの食器棚に、一人前のコップと皿、マグカップ、箸、ナイフ、フォークが並べてあった。どれも99セントストアで買ってきた安物だ。なんか、痛ましい気がした。仮にも料理人だったのだから、食器を見る目はあったはずなのに。
デスクの上段の引き出しを開けてみた。アドレス帳とか、日記とか、スケジュール表、システム手帳、名刺入れのたぐいのものを探した。だが、便箋、封筒、ペンなど若干の文房具が入っているだけで、個人的な記録は一切無かった。警察が持ち出して保管しているのかもしれない。
下段の引き出しには、寿司や料理に関する本が入っていた。
そういえば、この部屋にはテレビが無い。ディナーウエイトレスの麻美さんは、実さんはテレビにも映画にもスポーツにも興味はないって言ってたな。興味がないと言うより、テレビを見る暇など無かったのかもしれない。ランチウエイトレスの咲枝さんの言うように、週に7日、朝から晩まで働いていたら。
壁には「やまと」の営業用カレンダーがかかっている。実さんが亡くなった火曜日に、待ち合わせのメモでも書いてないかと期待したが、何もなかった。他の日と同じ、ごく普通の日だったに違いない。
写真やポスターもない。ただ、ベッドの脇の壁に日本画のようなものが画鋲で留めてあった。ぺらぺらした紙で、何かの雑誌から切り抜いたものらしい。よく床の間に掛けてある掛け軸みたいに縦長の絵で、枯れ木に一羽の鳥がとまっている。俺に絵の良しあしはわからないけど、さびしい絵だと思った。スマホで写真を撮ろうとすると、管理人に、写真は困ります、と鋭い声で止められた。これ一枚だけですから、と言ったが、管理人がドアから踏み込んできそうだったので、諦めた。
クロゼットを開けてみた。下着類、靴下、Tシャツとジーンズがきちんと収まっている。南カリフォルニアの気候では、それ以外はほとんど必要ないとはいっても、もう少し何かありそうなものだ。たまには気分を変えて、しゃれた格好してみたいこともあっただろうに。真由ちゃんとのデートの時は、何着て行ったんだろう。
「そろそろ、いいですか?」と管理人が声をかけてきた。
「もう、終わりますから」となだめて、俺はベッド脇のサイドテーブルに注意を移した。寝る前に手に取る本は、その人間の個性をあらわすんじゃないかな。少なくとも、今、何に関心を持っているかはわかる。俺のベッド脇には、ボブ・ディラン詩集が載ってる。
実さんのサイドテーブルには、スペイン語会話のテキストと、日本語の雑誌が載っていた。雑誌は、よく日本食料品店などに置いてある無料のタウン誌で、表紙に「今が旬! イケテル日本食レストラン大特集」と、ある。何ヶ月か前のバックナンバーだ。「やまと」が載っているのかな、とぱらぱらとめくってみたら、何かがページの間からはらりと落ちた。拾い上げてみると、名刺だった。表に日本語でトーマス・J・オカモト、弁護士、とあり、オフィスの住所と電話番号、メールアドレスが印刷されている。裏はその英語バージョンになっていた。
実さんは弁護士に用があったのだろうか。それとも、たまたま手元にあった名刺を、しおり代わりに挟んであっただけなのか。ちらりと後ろを見ると、管理人は、開いたドアに寄りかかってスマホをいじっている。俺は名刺をポケットに滑りこませた。
雑誌の方は、とページをめくっていると、
「もういいでしょう? わたしも仕事があるんですから」
管理人が苛々した声で催促した。四十ドルの効果が切れたらしい。雑誌を持って出ようとすると、それは置いていってください、とぴしゃりと言われた。
俺は雑誌のタイトルと発行元を手帳にメモして退散した。
仕事の休憩時間に、俺は康子さんに電話した。
「今朝、実さんの部屋を見てきました。雑誌の間に、弁護士の名刺がはさんであるのを見つけました」
「何の弁護士?」
「ただ、弁護士ってだけです」
「普通、弁護士には専門があるものよ。交通事故賠償、医療訴訟、遺産相続、移民法、刑事事件……」
「いや、ただ、トーマス・J・オカモトとしか」
「ふーん。実さんは何かのトラブルを抱えてたのかしら。私は何も聞いてなかったんだけど……」
「調べてみます」と言ったが、康子さんは「それは私がやるわ」と言った。
「ヒロ君にばかり甘えてられないものね」
「そうしてもらえると、助かります」
弁護士に会うとなると、アポイントメントを取ったり、色々面倒だろう。「エコー」の始業前や、休憩時間にちょっと、というわけにはいかない。それに、俺みたいな若僧が行くより、立派な大人の幡野さんや康子さんの方が向こうも信用する。
「その雑誌の方は何だったの?」
俺が雑誌名を言うと、康子さんは首をかしげた。そんな月遅れの雑誌をわざわざ取っておいたのは、何か理由があるのかもしれない、と言った。
「警察は日本語の雑誌なんか気にも留めなかったでしょうけど、ナガイもコジロも、レストラン関係者じゃないかって気がするの。とすると、その月遅れの雑誌に手がかりがあるかもしれない」
雑誌を調べようにも、現物が手元にないから厄介だ。あの管理人め、四十ドルもふんだくっておきながら、無料の雑誌一冊持ち出させなかった。
思いついて、俺はノリの携帯に電話をかけた。
「お前、『今が旬!イケテル日本食レストラン大特集』って雑誌持ってないか?」
「何それ?」
「よくマルカイとかミツワなんかにおいてある無料のタウン誌だよ。何ヶ月か前のバックナンバーだけど」
「見たような気もする。なんで?」
「俺が見たいんだ。持ってるか?」
「ちょっと待ってて」
五分ほどたってから、俺の携帯が鳴った。
「あったよ」
ビンゴ!
食いしん坊のノリなら、捨てずに取ってあるだろうと思ったんだ。
「それ、こっちへ持ってきてくれ」
「ええー、これから?」
「急ぐんだ。クリームソーダおごってやる」
「もう飽きた」
「かきごおり。宇治金時」
「アイスクリーム付き?」
「ダブル」
「乗った」
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