第12話 信頼の問題
真由ちゃんにああ言ったものの、正直言って、俺は頭を抱えた。
どうしたらいい?
香織さんは真由ちゃんを守って、頑固に沈黙を続けるだろう。警察は放さない。香織さんは試験を棒に振り、それどころか、弁護士が必要になるだろう。日本にいる香織さんの家族は大騒ぎして、こっちへすっ飛んでくるかもしれない。香織さんの両親には、一度、会ったことがある。物静かで人のいいご夫婦だ。あのご夫婦が、またトラブルに巻き込まれるのは見たくない。
真由ちゃんは信用できない。俺は精一杯脅しておいたけど、あのタイプは、緊張に耐えられなくなれば、後先考えずにすべてをぶちまける。真由ちゃんは警察に引っ張られ、ウエディングシャワーまでした結婚は白紙に戻る。
そして、実さんの弟は来週、LAにやってくる。兄さんが勤め先のレストランで、深夜、こともあろうにサムライに刺し殺された、容疑者は兄さんの昔の彼女だなんて話を聞かされて、何がなんだか、わけがわからないだろう。
世間では、困った事態になった時は、一人で悩んでないで信頼できる人に相談しろ、という。俺も全面的に賛成する。問題は、「信頼できる人」はそんなにいないことだ。
今まで、俺は困った時は、幡野さん夫婦に相談した。職探しとか、金欠とか、車の故障とか、散々世話になってきた。ただ、真由ちゃんの告白は、幡野さんには話せない。少なくとも今はまだ。
幡野さんは、すぐ警察に通報しろと言うだろう。俺がためらったら、自分で電話をかけるかもしれない。それでは、香織さんを裏切ることになる。あの強烈な肱撃ちは、はっきりと香織さんの意思を伝えていた。
俺のもう一人の相談相手は、認めたくないけど、当の香織さんだった。忖度なしでズバズバものを言い、ブルドーザーなみの馬力で行動する香織さんにかかると、大概の問題は木っ端みじんに粉砕された。今回は、その香織さんもいない。
俺は朝まで悶々と悩んだ。正直、俺の知ったことかって思いもした。大体、俺、なんでこんなに必死になっているんだ? 実さんには、半日、引っ越しを手伝ってもらっただけ。幡野さんはお世話になってる恩人ってだけ、香織さんは、勤め先の店のお得意さんってだけ。
馬鹿みたいだ。いち抜けたと放り出してしまおうか。余計な荷物背負い込まなくても、俺の生活は十分に苦しいんだし……。
ランチタイムの「エコー」は忙しかった。近くの歯医者さんが、従業員の送別会をやると七人のグループで現れ、他にも次々に客が入って、俺はオーダー取りに走り回った。佐藤氏も珍しくテレビを消して手伝い、どうやら無事に乗り切った時には、俺はくたくたに疲れていた。もう若くない。寝不足はこたえる。
ホセが作ってくれたまかないのチーズトルティヤで、昼食をとっていると、入口のドアが開いて誰かが入ってきた。まだ客が来るのか、少々うんざりしながら、いらっしゃい、と声をかけて顔を上げた。
康子さんが微笑みながら立っていた。
「恵の学校の用事で近くまで来たから、寄ってみたの」と言った。その後ろから、のりの奴が顔を出して、こんちわー、と能天気な声をあげた。
康子さんとのりはカウンターにすわった。注文の天ぷらそばを持っていくと、ありがとう、と言って箸をとった。
「ナガイとコジロ、まだ見つからないの。わたしもうちの人も、あちこち当たってるんだけど、みんな知らないって言うのよ」
「大丈夫、見つけますよ」
安請け合いであることは、十分承知の上だ。
「ヒロ君ならできるよ、マーロウだもん」
隣できつねうどんをすすっていたのりが無責任な口を出した。俺はむっとした。
「で、お前は何しに来たんだ?」
「僕? ウエディングシャワーのお手伝いした時のチップをもらいに来たんだよ。香織さんが、ヒロ君から貰ってって言ってたから」
ああ、そうか。
チップは紙包みにして、キッチンに保管してある。俺は、のりの分のチップを渡してやった。のりは包みの中をちょっと覗いて、「わっ、結構ある」とはしゃいだ声を出した。
康子さんは、ソバを食べ終わると、バッグから封筒を取り出して、俺の前に置いた。
「ヒロ君、これ、使ってちょうだい」
「何ですか?」
「LA中、あちこち走り回ってたら、ガソリン代も馬鹿にならないでしょう? うちの人はそういうとこ、気づかない人で…。少しだけど、必要経費として使ってちょうだい」
有難く頂戴した。
「必要経費だって。ヒロ君、ほんとにマーロウみたいだね」
また、お調子者が能天気な口をはさむ。
「そのマーロウってのはなんだ」
「あれ、ヒロ君、マーロウ、知らないの? 香織さんが言ってたんだよ、この前の夜」
この前の夜って……。
「ウエディング・シャワーの時か?」
「うん」
「香織さん、何言ったんだ?」
「パーティまだ終わってないのに、変な男と出てきたから、僕、どこ行くのって聞いたんだ。そしたら、チップはヒロ君から貰ってくれって言ったんだよ」
「それから?」
「時間は稼ぐから、犯人見つけてってマーロウに伝えてねって言った。僕、マーロウって誰って聞こうとしたんだけど、どんどん行っちゃった。今日、友達に聞いたら、有名な私立探偵なんだってね。フィリップ・マーロウ」
のり君、行きますよ、と康子さんが呼んで、のりは、はあーい、と間の抜けた返事をして出ていった。
「もう、わからない人ね」という、香織さんの声が聞こえるような気がするが、俺は、のりじゃないから、わかる。
黙秘して時間を稼いでやるから、その間に実さんを殺した犯人を捜し出せ。
刑事に意味がわからないように、香織さんはのりに日本語で話したんだろう。
俺はため息をついた。
またかい、香織さん。
無茶な注文だ。
そして、俺がその注文を受けなきゃならないのも、いつも通りだった。
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