第8話 メルセデス・ベンツ
コジロは何者か。
電話で今までの経過を報告すると、幡野さんはかなりショックを受けたようだった。特に、ルディの「ミノルは敵に殺された」という意見は承服しがたかったようだ。あいつは、敵を作るような、そんな男じゃない、と繰り返し言った。馬鹿正直なくらい、まっすぐなやつなんだ、強盗とか通り魔に殺されたというならまだしも、ひとの恨みを買うようなそんな男じゃない、と言う。コジロという名前も聞いたことがないと言った。「沢木に、メルセデス・ベンツを乗り回すような裕福な知り合いがいるとは思えないんだがなあ」とかなり懐疑的だった。だが、森田氏にもあたって、一応調べてみると約束してくれた。
翌日の土曜日、俺はもう一度早起きして、仕事に行く前に咲枝さんに電話をかけた。幡野さんと話している間に思いついたことがあったのだ。
ルディは、夕方、出勤した時にベンツから降りてくる実さんを見かけている。実さんは仕事熱心で無遅刻無欠勤。すると、実さんは通常通りランチタイム前に出勤して仕事し、ディナータイムが始まるまでのスタッフの休憩時間に、コジロの車でどこかへ出かけたのだ。
そのコジロはいつ「やまと」に来たか。
レストランで働く知り合いを訪ねる時、たいていの人間は開店中に来て、売り上げに貢献していくものだ。多分、コジロはランチタイムにやってきてカウンターにすわり、実さんの握る寿司を食べながら、彼の身体が空くのを待っていたはずだ。知り合いなら、挨拶ぐらいはしただろうし、無口な実さんも寿司を握りながら少しは話をしたはずだ。カウンター越しに客と寿司シェフが会話している時、一番近くにいるのは誰か? ウエイトレスだ。
コール音が続き、留守かな、とがっかりしたところで、ハローと、聞き覚えのある明るい声が出た。
「咲枝さん。ヒロです。先日は失礼しました」
「ああ、ヒロ君。おはよう。こちらこそお構いもしませんで。良かった、今、ちょうど子供を日本語学校に落として帰ってきたところなの」
「聞き忘れたことがあるんですが、あの、今、いいですか?」
「いいわよ、何でも聞いて」
「二週間ほど前に、実さんの知り合いのコジロという男が、ランチに来ませんでしたか?」
「コジロ?」
勢いこんで電話した俺の期待をはぐらかすような、なんとも頼りない咲枝さんの声が返ってきた。
「どんな字を書くの?」
「字はちょっとわからないんです」
字どころか、男か女かも曖昧なのだ。
「二週間ほど前に、実さんの知り合いが『やまと』にランチを食べに来て、その後、二人でどこかへ出かけたはずなんですが、気がつきませんでしたか?」
たまたま入ってきた客と寿司シェフが意気投合して出かけた、という筋書きは、実さんの場合は有り得ない。絶対に以前からの知り合いだったはずだ。
「二週間ほど前、ねえ。……そういえば、誰か来てたわね」
やった、と俺は叫びたかった。
「どんな人でした?」
「派手な人だったわよ。年頃は実さんと同じくらいだと思うけど、がっちりした身体つきで、ごつい感じだった。よく日に焼けてて――あれは絶対、日焼けサロンだわね――口髭なんかはやしちゃって。紫のシルクのシャツ着て、前のボタンを三つぐらい開けて、そこからゴールドのネックチェーンがちらちらするの。ロレックスなんかこれ見よがしにしちゃってさ。日本で見たら、ヤーさんまちがいなしって格好だけど、ここだから、『派手な男』で済んでるのね」
「日本人?」
「だと思う。日本語しゃべってた」
「実さんとはどんな話してました?」
「どんな話ってもねえ。あんまりよく聞こえなかった。実さんはあの通り、下向いてぼそぼそとしかしゃべらないし、相手の客の方はビール飲んでよく食べてた。でもまあ、普通の話だったと思うわよ。景気がどうとか言ってたから」
「実さんはその男と、昼の休憩の時に出かけたはずなんですが、どこへ行ったか知りませんか?」
「さあ。わたしは仕事終わったらさっさと帰ったから。その男の人がどうかしたの?」
「いや、ちょっと。実さんの知り合いが『やまと』を訪ねてくるなんて珍しいと思って」
「それはそうだわ。実さんの知り合いが来るなんて、初めてじゃなかったかしら。でも、あの人、コジロなんて名前じゃないわよ」
「え?」
「実さん、コジロなんて呼んでなかった。なんて言ってたかなあ」
咲枝さんの記憶は今いち、信用できないところがある。昨夜、幡野さんは実さんの出身地は岡山県だと言ったのだ。岡山市内の高校を卒業してすぐ、東京に出て寿司職人の修業を始めたのだと。だが、今は、咲枝さんの記憶に頼るよりない。
咲枝さんは電話の向こうでしきりに思い出そうとしているようだった。
「一度だけ、実さんが名前を呼んだのよね。わりと平凡な名前だった。ああ、ここまで出てるんだけど……」
俺は黙って待った。これは思い出してもらいたい。ぜひとも。
ああ、とため息のような声が聞こえた。思い出したか?
「こういうのって、老化の始まりなのかしら。イヤねえ。これだから、うちの娘たちに馬鹿にされるんだ。マミー、もう忘れちゃったのって最近、生意気でしょうがないの。反抗期かしら」
「ゆっくり考えて下さい」
俺は咲枝さんの思考を娘達から名前に引き戻した。
「平凡な名前なんですよね。すずき、とか、なかむら、とか、たなか、ですか?」
「そこまで平凡じゃなかったように思う」
「さいとう、とか、さとう、とか、かとう、とか、とうのつく名前?」
「違う。もっとこう……」
受話器からは、咲枝さんが低くつぶやく声が蜂の羽音のように聞こえてくる。
「派手な客が入って来て、寿司カウンターにすわったのよね。わたし、お茶を持ってってやって……実さんが突き出しを出したとこで、客が、久しぶりだなって言ったんだ。実さんびっくりした声で……思い出した! ナガイ! ナガイじゃないかって言ったんだ」
「ナガイですか」
「そう。コジロなんて名前じゃなかった。ナガイよ」
「ありがとうございます。その男について、また何か思い出したら教えてください」
俺は携帯の番号を教えて、電話を切った。
ナガイ。
長井か、永居か、名貝かもしれない。実さんの知り合いの中で、ナガイという名前の日本人を探せば、何かわかるかもしれない。ナガイという男の様子は、いかにもうさんくさい感じがする。想像をたくましくしてみれば、色んな可能性があるじゃないか。実さんが、ナガイという男に弱みを握られて、脅されていた、とか。何か無理な要求をされて、それを拒んだために殺された、とか。
ただ、ロレックスの時計をして、ベンツを乗り回す男が、貧乏な寿司シェフを脅すのは理屈に合わないような気もする。普通、逆だろう。
俺は妄想を打ち切って、幡野さんの携帯にナガイという名前に心当たりはないか、とテキストしてから、仕事に出かけた。
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