第2話【香水など効かぬ】

「ふふん、ふん、ふーん♪」



 女は出かける準備をしていた。


 やや散らかった自室は、デートの為の洋服を選んでいたからだ。

 可愛らしいデザインの洋服が床に散乱していて、女はそれらを気にも留めず鏡の前で化粧をしていた。洋服などあとで片付ければいいだけの話で、今はデートの方が大切なのだ。


 赤い口紅を塗り、耳にしたピアスが部屋の明かりを反射して煌めく。出かける準備は万端だ。



「あ、そうだ。忘れてた」



 女は思い出したように、洗面台の脇に置かれた小瓶を手に取る。


 香水の瓶だ。何度か使用した影響で、中身はやや減ってきている。それでも追加を買い足すほど心配する量ではない。

 手首に香水を吹き付けると、爽やかな柑橘類の香りが鼻孔をくすぐる。それを首筋や衣服にも振りかければ安心だ。


 この香水は、あの指名手配中の悪党どもから身を守る為の防犯グッズとして発売されたものだ。眉唾物だが、今はなりふり構っていられない。

 何せ、あの悪党どもは誰を狙うか分からないのだ。あの有名な舞台女優であるテレサ・マーレイすら殺してしまうのだから、規則性がまるでない。


 無差別に、理不尽に、誰でも構わず。

 大量殺人鬼である悪党二人に、女は少なからず恐怖心を抱いていた。



「これだけで狙われないなら安いものよね」



 香水単体でもいい香りなので、デートにも最適だ。


 鏡の前に立って身嗜みの最終チェックをする女は、髪型や衣服に変な部分がないか丁寧に確認する。

 動くたびに柑橘類の香りがして、少し香水をつけ過ぎただろうかと反省。だがデートの相手も、きっとこの香水をつけているに違いない。今まさに、悪党から逃れる為に住人も必死なのだ。


 しかし、その香水は意味を成さなかった。



「――――」



 鏡の向こう側――正確には、自分のすぐ後ろ。

 真っ黒な雨合羽レインコートを着た青年が、いつのまにか立っていた。



「おはようございます。まだ一〇時なので、おはようございますの時間帯ですね」



 鏡越しに笑いかけてくる青年は、ぶかぶかの雨合羽の袖からナイフを取り出した。


 鏡を向いたまま硬直する女に、対抗手段などない。

 叫ぶ余裕すらない。何故なら、彼は本当につい数秒前まで自分の後ろにいなかったのだ。それが唐突に幽霊の如く出現すれば、自分の命の終わりを悟るより前に何が起きたのか分からないと混乱する。


 ナイフを片手に握りしめた青年が、ゆっくりと女の背後に歩み寄る。



「ああ、やっぱりその香水を購入されたんですね。情報通りです」



 小さなナイフの刃を女の首筋に押し当てて、



「あと、ゲームルバークに住むなら戸締りはしっかりするべきですよ。窓が開いてましたので、侵入は容易でした」



 彼女自身の愚かさを指摘して、青年は女の首を掻き切った。


 ぱっくりと裂けた首から、大量の鮮血が溢れ出す。

 一瞬で死体と化した女から香る柑橘類の匂いは、鉄錆の臭いに掻き消されてしまった。





 崩れ落ちた女の死体を見下ろし、リヴは雨合羽の下から携帯電話を取り出す。


 慣れた手つきで液晶画面に触れていき、それから耳元に当てる。

 三度の呼び出し音のあと、通話相手はすぐに応じた。やや風の音があって聞き取りづらいが、そこはそれ、彼は狙撃手だから仕方がない。



「終わりました。どうです?」


『こっちはまだかなぁ。デートの相手、どうやら遅刻してるようだね』



 通話相手は緊張感のない声で続ける。



『デートに遅刻ってどういうこと? ますます許せないんだけど』


「僕も同じ気分ですね。デートに遅刻した相手は絶対に殺すと決めていますので」


『リヴ君さ、デートしたことあるの?』


「ある訳ないじゃないですか。そんなものする余裕なんてなかったですし」



 通話相手は「だよね」と苦笑し、



『あ、来たよ。じゃあちょっと殺してくるね』


「ええ、僕もすぐにそちらへ向かいます。出来る限り裏手に誘い込んでくださいね」


『うーん、こういうの得意じゃないんだけどなぁ。誘い込むのはお前さんの役目でしょ……』



 ブツブツと文句を言いながらも通話は切れたが、おそらく相手は行動してくれていることだろう。意外と優秀な人なのだ、狙撃手だけど。


 リヴは携帯電話を雨合羽の下にしまい込み、床で血を流して倒れ込む女を一瞥する。

 綺麗に化粧もして、アクセサリーも身につけて、デートの為の服まで着て、準備万端だったのに最後の最後でダメだった。あの香水さえつけなければ、リヴは見逃したのに。



「非常に残念ですね。まあ好みでも何でもないので、同情もしませんが」



 リヴは死んだ女に背を向け、窓から部屋を脱出する。


 さあ、早く相棒の元へ急がないと。

 きっと面白いことになっているだろうから。



 ☆



 ユーシア・レゾナントールは高いビルの屋上から、純白の対物狙撃銃に備え付けられた照準器スコープを使って、広場の時計台を観察していた。


 ここは待ち合わせに打って付けの場所で、今もたくさんのカップルがデートの待ち合わせ場所に利用している。

 その中でユーシアが注目しているのは、ちょっと背伸びをした格好の男性だった。爽やかな印象を受けるシャツとジャケット、磨き抜かれた革靴も今回のデートに対する気合が窺える。髪型もバッチリ決まっているので、もう遠目からニヤけるしかない。


 何だか悪いことをしている気分になるが、先に地雷を踏んできたのは向こうの方だ。


 ユーシアは照準器から目を外し、手元にある紙束へ視線を落とした。



「うん、間違いないね」



 そこに記載されていたのは、照準器で観察していた男の情報だ。


 顔写真も一致するし、間違いない。香水の購入者記録にも残っている。

 これは予想だが、このデートにもあの柑橘類の匂いがする香水をつけていることだろう。


 この紙束は、リヴが香水のホームページをハッキングして取り出した個人情報だ。どうやらあの香水はネットショッピング限定での販売のようで、本人にしか渡さない為に顔写真の提供も義務付けられていた。

 まあどうして顔写真も提出する義務があるのか疑問だが、こちらとしては好都合だ。簡単に顔と名前が一致する。


 紙束をしまい、ユーシアは腹這いになってビルの屋上から男に狙いを定める。



「まあ、俺なりの誘い方をするだけだけどね」



 いつもならヘッドショットを決めるところだが、今回ばかりは裏手に誘い込むことが目的だ。


 ユーシアは狙いを男の顔面から足元へ移動させ、引き金を引く。

 タァン、と抑えられた銃声。射出された弾丸は、寸分の狂いもなく男の足元を穿つ。



「うわぁ!?」


「きゃあああッ!!」


「撃ってきた、撃ってきた!!」



 時計台で待ち合わせしていたカップルは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、狙っていた男も慌てたように駆け出す。



「うん、いい調子。そのまま逃げてくれよ」



 ユーシアは薬室へ弾丸を送り込み、さらに発砲。


 男が逃げ込もうとした建物の入り口を弾丸が抉り、男はヨタヨタと足を縺れさせながら建物から離れて路地裏へ進んでいく。

 おおむね予想通りの逃げ道だ。ここまでは順調である。


 起き上がったユーシアは、逃げる男を追いかけてビルの屋上から立ち去る。階段を駆け下りながら携帯を取り出し、相棒の青年へ電話をかける。



「もしもし、リヴ君?」


『はぁい、何ですかシア先輩』


「さっきの男、裏手に誘導したよ。もう見えてる?」


『バッチリ見えてますよ』



 じゃり、と硬い地面を踏みしめる音が聞こえてきて、ユーシアは「優秀だなぁ」と笑う。



『殺してもいいですよね?』


「俺もすぐに現場へ行くから、先に殺しておいて」


『了解です。お任せください』



 すぐに通話が切れ、ユーシアは携帯をしまう。


 リヴは有言実行をする男だ。きちんとあの男を殺してくれるだろう。

 全く、あの柑橘類の香水が持つ効果を信じて購入していなければ、彼も殺されることはなかったはずなのに。なんと不運な男なのだろう。


 どうせリヴがあの男を殺しているので、ユーシアは階段を降りる足を緩める。対物狙撃銃をライフルケースにしまい込み、ずっしりと重たい箱を背負う。



「うーん、FTファミリーには舐められたものだよね」



 香水の購入者リストを眺めながら、ユーシアはゲームルバークの裏社会を牛耳る女王陛下を思い浮かべる。


 今頃、彼女は焦っているだろうか。御伽話を二人も潰されて、さらに三人目もまさに屠られようとしている。

 順調に御伽話を全て潰して、最終的にあの女王陛下の綺麗な面に銃弾を叩き込んでやるのだ。それはきっと、爽快な気分になるだろう。


 きっとゲームルバークの裏社会は大混乱に陥るだろうが、構うものか。このままトンズラしてしまえば誰も追ってこれない。



「さーて、リヴ君はどうなったかなぁ」



 先程逃げた男を追いかける相棒が、一体どんな方法で彼を殺しているのだろうか。


 ユーシアは呑気に鼻歌を歌いながら、軽快な足取りで階段を降りるのだった。

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