【三時間目】

 ピアノの音が部屋を満たす。


 綺麗な旋律に合わせて、男子と女子の歌声が載せられる。

 歌詞は希望がどうとか明日がどうとか、そんな明るい調子で寒気がする。合唱曲とは大体そんなものが多い。


 三時間目は音楽の授業だ。

 退屈な話を聞くだけの授業とは違って、こちらは実技が伴う。端的に言えば、歌わなければならないのだ。



「…………」



 最初から歌う気などさらさらないユーシアは、水中で呼吸する魚よろしく口をパクパクと動かすだけだった。


 いわゆる口パクである。

 何故なら、歌うのが面倒くさいからだ。


 正直なところ、音楽の授業だけは仮病を使って保健室にでも駆け込もうかと考えていたのだ。

 だがユーシアも高校三年生――単位が気になるお年頃である。もし卒業できないなどと宣えば、リヴと同じ学年になって授業を受ける羽目になる。


 ユーシアにも一応、先輩としての矜持があるのだ。問題なく卒業して、安心して大学生になりたい。



(――まあ、他の男子も口パクが多いけどね)



 人前で歌声を披露するなど、よほどの自信がなければしたくないのが高校生だ。

 ユーシアと同じように口パクで合唱に参加する生徒もチラホラと見受けられるので、ユーシアも安心して口パクが出来る。仲間がいるといいね。


 あとは適当に授業をこなして、四時間目の授業に備えるだけだ。

 確か四時間目の授業は体育だったはず。身体を動かすのは好きなので、体育だけは真面目に取り組むことにしよう。



「はい、ストップ」



 ピアノを弾いていた厚化粧の女教師が、ピタリと演奏を止めた。


 何があったのか、と生徒たちはざわめく。

 この厚化粧の女教師が演奏の手を止めるなど滅多になく、いつもなら口パクで誤魔化せていたはずなのに。今更になって口パクの多さに気づいたと言うのか!?


 ユーシアは教科書でそっと顔を隠して、見えないようにうんざりとした表情を浮かべる。



(いつもは自分の演奏に酔い痴れるナルシストでしょ。さっさと演奏に戻ってよ……)



 リヴ曰く、彼女は「自分の演奏に酔い痴れるナルシスト」らしい。

 実に彼らしい表現だと笑うと同時に、妙に納得できる一言だった。だって演奏している時、女教師は恍惚とした表情を浮かべているので気味が悪いのだ。


 芸術系の教師とは他人と感性が違うのだろうか、とユーシアは何度か思った。特に、この音楽を担当する女教師については本気で。


 同じクラスにリヴがいたら、間違いなく「ちょっとぶん殴ってきますね」と暴力に走っていたことだろう。

 そう言えば、彼は先程の授業で体育担当のゴリラを沈めていたが、処分的に大丈夫だっただろうか。彼から雨合羽レインコートを取り上げようとしたゴリラは、もう自業自得としか思えないが。



「皆さん、やる気ありますか? そんな合唱じゃあ心に響きません。もっと壮大に、もっと優雅に、もっと感情を込めて!!」



 クラスの全員が「うへぇ」と言いたげな顔をした。


 合唱のCDのように上手に歌えずとも、真面目な生徒はきちんと歌っている。連帯責任にするのはあまりに可哀想だ。

 まあ、ユーシアたち何人かの生徒は口パクなのだが。合唱とか非常に面倒くさいし。


 リヴと同じように暴力で解決してしまおうか。――やはり暴力、暴力はあらゆる物事を解決するのに役立つ全人類必須の交渉方法だ。



(おっと、いけないいけない。こっちは単位がかかってるんだよ)



 まだあと一年は余裕のあるリヴと違って、ユーシアには暴力を振って停学になる余裕などない。退学など以ての外だ。


 厚化粧の女教師は「はい、続けますよ!!」と長々と説教じみたことを垂れ流したあとにピアノの椅子へ腰掛ける。

 あともう少し長ければ単位などかなぐり捨てて暴力に突っ走っているところだったが、どうやら彼女は命拾いをしたようだ。そのままどうぞ自分の演奏に戻ってくれ、そして二度と帰ってくるな。


 厚化粧の女教師が口パクの生徒に気づくことなく、合唱曲を弾き始めた。

 優雅に、壮大に歌う作業は他の生徒に任せて、ユーシアは口パクで手を抜くことにした。



 ☆



 解剖である。


 もう一度言おう、解剖である。

 具体的に言えば、蛙の解剖である。理科の授業ではよくあることだ。


 しかし、今この時だけは「何故、解剖という授業を受けなければならないのか」と思わずにはいられなかった。



「あー……ツヤツヤで綺麗な筋肉ですね……もう少しだけバラしたらどうなるんですかねぇ……えへへ……あはは……」



 ――他の生徒が、である。


 机の上に乗せられた蛙にメスを突き立て、リヴは鮮やかに解剖の腕前を披露していた。それはもう、どんな難病でも高額の治療費と引き換えに手術をする外科医の如く、素晴らしい手際だった。

 問題はそのあとだ。開かれた蛙の腹の中を見て、彼は「うへへ」と笑い出したのだ。


 伊達に日頃から「殺しましょう」とか「殺すべきです」とか言っているが、これでは本当に誰かが殺されかねない。彼に歯向かえば、明日には魚の餌となる――そんな噂がまた出回るところだ。



「おお、オーリオ君はやはり手際がいいね。この前の鶏の頭もそうだったけど」


「お褒めに預かり光栄です」



 涎を垂らさない勢いで開きになった蛙を観察していたリヴは、実験担当の教師からの褒め言葉をしっかりと受け止める。


 この前も鶏の頭を解剖した時に、同じように褒められたのだ。

 他のクラスメイトは何故か顔を真っ青にして、リヴから距離を取ったが。一体何がそんなに恐ろしかったのだろう。



「リヴさんって、理数系の成績はとてもいいですよね」


「ええ、どこかの馬鹿とは違いますから」


「馬鹿って何ですか、馬鹿って!!」



 同じ班のスノウリリィが金切り声を上げ、リヴは耳を塞いでそっぽを向いた。


 いやいや、おバカな彼女と言い合いをしている暇はないのだ。

 この哀れな開きになってしまった蛙をよく観察して、絵にまとめて提出しないといけないのだ。


 あらかじめ配布された用紙にシャーペンを走らせて、リヴは蛙の解剖図を描く。


 順調に蛙の解剖図を描いているリヴだったが、スノウリリィが横から覗き込んできてポツリと呟く。



「……猫さんでも描いてらっしゃるんですか?」


「馬鹿は目も悪いようですね。その眼球も解剖しますか?」


「ちょ、メスをこちらに向けるのは止めてください!!」



 慌ててリヴから離れるスノウリリィは、



「だって、だってそうじゃないですか!! リヴさん、成績はいいですけど絵は壊滅的に下手くそじゃないですか!!」


「確かに美術の成績はそこそこ悪いですが、僕が描いているのは解剖図ですよ。今は美術の授業ではありません」


「リヴさん、手元をよく見てください。紙には何が描かれていますか?」



 スノウリリィに指摘され、リヴは自分の手元に視線を落とす。


 真っ白な紙面を埋め尽くす、意味不明な落書き。

 目の前にある蛙の開きを描いていたはずなのに、どうしてこうなったのか。もう修正は不可能だ、やべえ。


 この訳分からん絵を目の前にして、リヴは心の底からの想いを呟く。



「シア先輩、僕を助けてください……」



 画力ならユーシアの方が格段に上だ。彼は警察官の養父を持ち、前々から人相書きなどを手伝っていた影響で絵が上手いのだ。


 解剖の腕前は立派なものだが、絵だけはどうにもならないリヴは天井を仰ぐしかなかった。お願い神様、今だけはユーシアと同じような画力をください。



「…………もういいです。このまま提出します」


「再提出の場合はどうするんですか」


「教科書の絵を見せて、シア先輩に頼みます」


「狡いですよ」


「単位が取れれば僕はどんな手段でも使いますよ」



 キリッとキメ顔で汚いことを言ってのけるリヴは、再提出を食らっても開き直るのだった。

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