契約の日

 コンコンコンコン、とドアを四回ノックした。

「七海敬斗です」

「どうぞ」

 彼女の澄んだ声がした。少し小さくて、けれどそれでいて明瞭なトーンの声だ。幼げが少し混じっているが凛々しくて威厳のある声。

 ドアを開くと彼女の後ろ姿があった。その背中は小さくて尊い。今まで五人の従者からの誓約を背負ってきた彼女は普通の人とは格別で、偉大な尊厳が見えた。その瞳は混じり気のない星空を捉え、机に腰掛けていた。

 窓からは夜風が吹いていて、こちらへ振り向く召喚士の美しい銀髪を揺らした。微笑むその表情に俺は澱みない御心を感じる。

「どうしたのケイト」

 アリシアは平然という。罵倒したことなんて気にもしていない様子で。

「すごく悲しそうな顔をしてる」

 アリシアの表情が歪んだ。まるで鏡写しのように、俺の感情が表れている。こんな情けない俺を、彼女はさも自分のことであるように想ってくれている。

「俺は、アリシアに言わなきゃいけないことがある」

 初めて出会った時も、こんな宵だったことを思い出す。アリシアは机を迂回して俺に近づく。そして両足でしっかりと立ち言った。

「なに?」

 感情のダムが決壊しそうになるのを必死で堪える。

 告白するのだ、七海敬斗が今まで思ってきたことを。

 そして今、アリシアに対して考えていることを。


「初めてアリシアたちと話したときから、俺はずっと心の中で思ってた。必ず家に帰るんだ。家族の元へ戻って、また普通の生活に戻るんだって。召喚士だとか従者だとか、そんなことは関係ない。連中の言ってることなんて信じる必要はない」

 アリシアは真剣な眼差しで俺を見る。

 俺の瞳を見つめて、その視線を一度も逸らさない。

「ここで生活を送るようになってからもそうだ。段々と慣れていくような振りをして、帰ることばかりを考えていた。たまに楽しいことがあってこのままみんなと暮らすのも良いかもなって思うことがあっても、すぐに自分に言い聞かせた。仲間に迎え入れてくれようとするみんなの好意を無視して、見下すことで望郷の念を確かめて、その度に安心していた」

「うん」

「だけど、そんな中で薄々気付いていってたんだと思う。心の奥底で、真実を知り始めていたんだと思う。夢で見る光景や、海を見たとき、心配する言葉をかけられたときに違和感を覚えていた。そんな中俺は記憶に重たい蓋をして、そのことから目を背けた。逃げるわけでもなく、対峙するわけでもなく、誰かの所為にすることで自分を保っていた」

「うん」

「でもずっと見ないままにいることは出来なかった」

 物事は常に流動を続ける。その動きが停止することはない。ただの一秒たりとも。

「隠し事はいつかバレる。俺は全てを思い出した。全てを思い知った。ここに来る直前に何が起こったか。召喚された俺がどんな状態にあったのか。目覚めるまでの五日間に受けたこと。みんなが俺に向けていた好意に、俺が今まで向けていた敵意」

「うん」

 彼女はゆっくりと瞬きをした。

「命の恩人に非礼な感情を向けたことを後悔した。どうにかしてこの無礼を詫びなきゃいけないと思った。俺がいま息をしているのは紛れもなくアリシアのお陰で、この心臓が動いているのはミィリィさんのお陰で、この場に立っていられるのはナナのお陰で、この目が開いているのはルーナのお陰で、普通に喋っていられるのはシャウラのお陰で、笑顔でいられたのはまりしろのお陰だ」

 アリシアは首を振った。うつむいて、首を横に振った。

 前髪で隠れて表情が見えない。

 部屋にあるのは月明かりだけだった。暗がりの中、彼女の姿は朧げにしか見えない。

「そんなアリシアたちに向けてきた不躾な思いはもう取り返しがつかない。だから、だからこそ言わせてください」

 アリシアは無反応だ。

「ごめんなさい」

 嘘吐きだと罵ったこと。想いを蔑ろにしたこと。

 いままでの無礼全てについてをアリシアたちに。

「ごめんなさい」

 両足を揃えて、頭を下げる。

 ゆっくりと、深く。

 心の底から、全身全霊に。

「――う」

「そして、ありがとう。命を救ってくれて、ありがとう。この恩は死んでも忘れない。俺はみんなに受けた恩恵を絶対に忘れない。謝ったところで、感謝したところで、許してもらおうだなんて軽い気持ちは持ってない。これから俺は恩返しをしたいんだ。みんなから受けてきた全ての想いを、今度は俺が贈りたい」

 俺はひとりじゃなかったんだ。

 彼女たちに思い遣られて、見守られて過ごしていたんだ。

 この感謝を、どうにかして返していきたい。全力で尽くしていきたい。

 だから。

「召喚士アリシア。どうかこの僕を、あなたの従者にしてください」

 これから俺は前を見て生きていく。

 彼女たちに、返しきれない恩を返しながら。

 しかし。

「違う……、違うよ」

 アリシアはこの誓いを拒んだ。

 ああ、俺は考えが甘かったんだ。従者にしてもらうおうだなんて甚だしい。そうか、そういうことか。俺が瞬時にそう思うも。

 彼女が考えていることは全く違った。

「わたしは、わたしたちは……」

 アリシアは俺と目を合わした。

 その双眸は濡れていた。

 表情は歪んでいて、目元は赤くなっていて、アリシアは泣いていた。

「…………え、アリシア」

「わたしたちは、ケイトに謝って欲しくて優しくしたんじゃない。感謝して欲しくて真実を告げたんじゃない。見返りが欲しくて手を差し伸べたんじゃない!」

 柔らかな頬を伝う大粒の涙は、月の光に輝きを見せる。

「遠慮しあって、顔を伺いあっていくなんて、そんなのは、本当の主従関係なんかじゃない! ……違うんだよ」

 苦しそうな顔をしてある彼女を見るのが、とても辛かった。

「六人目の従者を呼び出したとき現れたのは瀕死の君で、身元を調べるうちにいったい何があったのかが分かった。家族を亡くした苦しみはわたしも知ってる。だからわたしは、どうにかして、少しでも多くの苦しみを取り除いてあげたい、そう思ったの。それからみんなで話し合って、ゆっくりと状態を整えてから真実を伝えようと決めた」

 アリシアは、思いの丈を迷うことなく零していく。

「接していくうちに、ケイトにはとても立派な思い遣りと力強い勇気があるんだって分かった」

 シャウラを庇おうとしたこと。

 フリルでまみずちゃんを守ったこと。

「ケイトは、従者に相応しい気高さを持ってる。……でも」

 わたしが求めているのはそんな言葉じゃない、と。

「今の告白を聞いていて、わたしにはケイトが何かを我慢しているように見えたよ」

「……」

「『召喚士と従者は仲間』、一番初めにそう言ったの覚えてる?」

 覚えている。あの時は懐疑的に掛かっていてまともに理解しようともしなかったが、確かにアリシアは言った。そしてミィリィさんは、『召喚士と従者は家族』と言った。

「仲間だからこそ、その人が苦しんでいるのを見ると、自分まで苦しくなるの」

 その気持ちはよく分かる。

 両親が喧嘩したとき。妹が不機嫌なとき。大切な誰かがマイナスの感情を持っていると、それに掛けられてこちらまでマイナスに変わってしまう。感情の浸透は、仲の良い人間であればあるほど起こり得る。

 だから本当は、ずっと笑顔でいられたらそれが一番楽なのだ。でも、世の中はそんな生温い設計にはなっていない。

 喜怒哀楽。感情の起伏。幸福の緩急。

 色んな要素があるからこそ、世界はこんなに多様だ。

「辛苦も感傷も避けては通れない。だからせめて、その苦痛をそれぞれがそれぞれに味わうんじゃなくて、一緒に共有したい。その方が孤独であるよりも遥かに良い」

 だから、と。頬を濡らしてアリシアは言う。

 突っ立った俺に歩み寄り、距離を詰めて両肩に手を置く。俺は彼女の顔と同じ高さまで低くなり、床に膝をついた。

 そしてそのまま腕を回して小さな体躯で抱き締める。

「ケイト」

 耳元で彼女の声がする。穏やかで優しくて、凛々しい召喚士の声音に耳が反応した。

「苦しかったら叫べばいい。悲しかったら泣けばいい。一番良くないのは、ひとりで溜め込むことだから」

 許された気がした。

 救われた気がした。

 その言葉だけで、今まで思ってきた罪悪、孤独、悲痛が、一瞬にして報われたように思えた。

「我慢ばっかりじゃ辛いだけだ」

 身体には、アリシアの体温が伝わっている。七海敬斗は、孤独じゃない。

 だから、もう我慢しなくて良い。

「アリシア……っ!」

 堰を切ったように、涙が止め処なく溢れ出る。

 鼻をすすりながら、アリシアの体躯を抱き締め返す。

「もう大丈夫だよ。誰もケイトのことを嫌ったりしない。迷惑だなんて思ったりしないから、沢山頼ってもいいんだよ」

 アリシア。

 ミィリィ・アクアマリン。

 シャウラ・ブラッドファング・リリンリリス・アッシュ・ミッドナイトメア。

 NS-M7《ブレイクスルー》。

 まりしろ。

 ルー二ヴィア・フレアローブ。

 彼女たちと過ごしていけば苦労が多そうだ。

 けれどそれらきっと、時が経つに連れて良い思い出となっていく。

 賑やかで、楽しくて、きっと退屈しないだろう。

 枯れ果てるまで涙を流したのは、いつ以来だっただろうか。ずっと昔の事なので良く覚えていないけれど、今日ほど誰かに泣きついたのは十年以上振りだ。

 大人になるにつれて、弱音を吐けなくなった。男が人前で涙を流す事は見っともないものだと思い込んできた。けれど本当に大切な存在に涙を見せるのは、きっと素晴らしいことなのだと思う。後から思い返したら恥ずかしくなってしまいそうなので、そう考えることにする。

 母親に泣き付く子どものようにしている間、アリシアはずっと慰めていてくれた。

 そこに言葉は無用で、夜の風に乗って静けさが漂うばかりだった。

 涙も止まって大分落ち着きを取り戻した頃、もう一度彼女に言わなくてはならない。今度は偽りのない心で。正真正銘の、七海敬斗が持つ覚悟を。

「アリシア」

 抱き締めた腕を緩めて、顔を向き合わせる。

「なぁに?」

「俺を君の従者にしてくれ。俺はみんなと一緒にいたい」

「うん……、よろこんで」 

 召喚士は微笑んだ。

「じゃあケイト」アリシアは正座に直る。「手を出して。……片手ね。」

 左手を開いた状態でアリシアに向ける。それぞれの指を交差させて、しっかりと握りしめる。小さな手だ。でもかよわい手であっても、六人の従者の確かな敬意を握っている。

「眼を閉じて」アリシアが耳元で囁いた。

 言われた通りにすると視覚は遮断され、手の温もりを大きく感じた。手を繋ぎ、瞳を閉じ、身を委ねる。それが召喚士に対する忠誠心の証明だ。

「見止めよ」

 途端に、周囲が仄かな光に包まれた。

 作法はもう知っている。ミィリィさんから渡された本に記述してあった。

「召喚士吾アリシア、人界の汝七海敬斗に赤誠を尽くし主人となることを誓約する」

「人界の吾七海敬斗、召喚士君アリシアに忠誠を尽くし従者となることを誓約する」

 しばらくそのまま目を閉じていると時間を忘れるようだった。

 光は段々と明るさを失い、やがて消えた。部屋に残るのは月明かりのみだ。

「はい、眼を開けて」

 恐る恐るまぶたを開く。

「儀式しゅーりょー」

「え、こんだけ?」

「うん。儀式って言われると身構えちゃうけど、これは宣誓みたいなもんだから」

「意表を突かれた感じだ」

「どんなもの期待してたの?」

「いや、魔法陣とか張っちゃってさ、どーん! みたいな?」

「あはは、なにそれ」

 これで俺は、晴れて召喚士アリシアの人界従者となったのだ。

「けど、あまり実感が湧かないんだけど」

「身体のどこか見てみ。証明が出来てるから」

 両手や腕を調べたり、裾をまくって脚を確認するけれど、どこにも見当たらない。

「ないんだけど」

「よく探して見て」

 上着を脱いで上半身を見る。後ろを向いて背中を見る。

「あ、ほらそこ、右の……じゃなくて左肩」

 そこには印が出来ていた。アリシアの従者である証拠の紋章。まりしろを風呂に入れたとき彼女の背中に同じマークがあったことを思い出す。プールでミィリィさんを見たときにも、同じものがあった。

「へぇこれか」

 俺は、アリシアの従者で、彼女たちの仲間。

「ところでケイト……、そろそろ服着て」

 目の遣り場を困らせてしまったようだった。俺は早々に服を着なおした。少女の前で突如服を脱ぎだして紋章を見せつける。後から思い出してみると、ただの変態じゃないか。

 ピロン、と音がしてアリシアのワークデスクに連絡が入った。

「ミィからだ。もうすぐご飯できるって」

「そう言えばそんな頃合いか」

 腹の虫が食事を求める声を上げているのに今更気がついた。

「それじゃあ行こうか」

「あ、ちょっと待って」

 扉に向かおうとした俺をアリシアは呼び止めた。

 両手を頬に当て、俺の瞳をじっと覗き込む。

「うん、大丈夫そう」

「……?」

「みんなのところに行くからさ、眼が腫れてたらなんか照れ臭いかなって」

 声が嗄れるほど、涙が枯れるほどの気持ちをこぼした後だ。アリシアの言う通り、俺もちょっと恥じらいがあった。彼女たちが泣いた姿を見てからかわないことは知っている。けれどそこはかとなく、ばつが悪く思ったのだ。今はもう、彼女たちに弱みを見せないように、なんて馬鹿な考えはない。互いに弱い所を補い合って、歩んでいきたい。

「わたしは?」

 そう言われてアリシアの瞳を見つめる。

 そのつぶらな双眸は光に反射して秀美な輝きを放つ。鷹揚で寛大な印象を持つ眼だが、その中には確かな意志と、凛々しさ、責任感の表れがあった。小柄で、子どもっぽくもあるアリシアだけれど、その心持ちは誰にも負けない強固な決意を含んでいて偉大に見えた。こんな立派な召喚士の従者になれたことが喜ばしい。全身全霊で、俺は敬意を向ける。

「あー、少し赤いかもな。でも、気付かれないと思うよ」

「うそー」

 手鏡で自分の双眸を確認する。

「本当だ。じゃあケイト、……ご飯が出るまでもう少しあるし、もうちょっとだけここで待たない?」

 こんな立派な召喚士にも、恥じらいくらいはある。

「そうだな。だったらなんか話そうぜ」

 アリシアは微笑む。

「じゃあ、えーと。ここに来て驚いたことがあるんだけどさ」

「なに?」

 今まで敵意を向けていて、純粋に物事を話せなかった。

 開いた穴を埋めていくようにひっそりと、俺たち二人は談笑した。

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