行方不明者
三月九日。卒業式の翌日。
あの日は多分浮かれていた。
第一志望の大学に無事合格し、約束だった旅行へ出発する日だったからだ。
俺が陸上部を引退してから受験生で勉強真っ盛りの時に、父親が「第一志望に合格したら敬斗が好きなところへ旅行に行こう」と言った。その約束は勉強の意欲を向上させる一因となって、努力を重ねた。他にも親友と目指す場所が同じでお互い頑張ろうと励ましあったことや、幼馴染に励まされたことなどが背中を押し、俺は合格した。
行き先はオーストラリアだった。
両親は旅行好きで、比較的俺も多くの場所を訪れた。オーストラリアは時差もほとんどないしチップがないという理由で、親が好んで数回一緒に行ったことがある。だからそこにした。
成田空港の国際線からシドニー行きの便に乗り、滞りなく物事は進んでいた。飛行機は慣れているので離陸の時に拍手をする修学旅行生のような真似はしない。隣には思春期真っ盛りでツンツンしている羽織が窓の外を眺めていた。
離陸して太平洋上をフライトしている中、適当に時間を潰した。
音楽を聴いたり読書をしたり。機内食はチキンを選んだ。普段あまり会話をしない兄妹だったけれど、旅行の時は家にいるよりも多くを話せる。そんな理由で俺も旅行が好きだった。けれど羽織はヘッドフォンで耳を塞ぎ洋楽を聴いている様子で、結局あまり話せなかった。
いびきのうるさいおじさんや、弾む会話に声の大きさを間違える新婚夫婦。
観光帰りの熟年夫婦に、海外出張のビジネスマン。
母親に抱かれて穏やかに眠る赤ん坊。
そんなよくある機内だった。
何気なく、いつも通りの世界で、突如平穏が崩壊した。
突然機体に凄まじい衝撃が走り、その後急激に降下が始まった。悲鳴が上がり、赤ん坊が泣き出した。毛布をかけて寝ていた人も目を覚まして辺りを見渡す。羽織もヘッドフォンを外して、俺の顔を見る。不安そうな顔だった。俺はどんな根拠があってか知らないが、平気だとか、気流が不安定なだけだとか理由をつけて落ち着かせようとしていた。
揺れも降下感もすぐに治ると思っていたけれど、そうはならなかった。
座席の天井から酸素マスクが垂れ下がり、客室乗務員が付けるよつに指示を始める。これで乗客の不安は爆発した。
泣き叫ぶ者。怒鳴り散らす者。神に祈る者。ただ目を閉じる者。
全員が墜落することを悟った。
酷い顔をして恐怖心を露わにする羽織の手を握って離さなかった。父も、母もだ。
窓からは海が見えた。青く青く雄大な海。それが、徐々に近づいていくのだ。
全員が、死を座して待つほかになかった。抗うことは不可能で、もう全てが終わりなのだとほとんどの人間が諦めた。希望を捨てなかった人間も、結局は同じだった。
迫り来る溟海。
止まらない恐怖心。
心に抱く後悔。
吸い込まれそうな黒に。
衝撃。
呼吸ができない。身体が動かない。凍えるように軋んでいく。朦朧とする意識。
そして……。
目が覚めたら異世界にいた。
知らないベッドで。知らない香りで。知らない夕暮れで。知らない人がいた。
俺の心臓が鼓動を続けているのは、ひとえに彼女たちに助けられたからである。
アリシアが人界の従者となる存在を召喚するために儀式を行い、七海敬斗は死の直前に中心界へ呼び出された。通常の召喚と異なり従者候補の召喚では、特定の存在を呼び出すことは不可能だ。だから俺が召喚されたのは、単なる偶然だった。
召喚された直後の俺は死の淵にいて意識がなかった。全身ずぶ濡れで、所々に損傷があって、ほとんど死にかけだった。
ミィリィさんは海の世界である深界出身なので、俺が「溺れている」状態であることに瞬時に気がついた。だから適正かつ迅速な対応をしたことによって、生命が保たれた。
その後の治療をしたのは機人であるナナと一片氷心たる魔女ルーナだ。機人が持つ最新鋭の科学技術と魔女が培った秀麗な魔法によって峠を越した。
中心界で初めて目を覚ました時、直前までとても幸せな夢を見ていたような感覚がした。孤独ではなく、安らいで、心地の良い夢だった。その夢はシャウラが見せたものだ。
吸血鬼とサキュバスのハーフであるシャウラは両種の特性を受け継いでいる。吸血鬼には高潔さ、サキュバスには独自の精巧な幻惑魔法がある。シャウラは幻惑魔法を用いて、俺がうなされないように幸福な夢を見させたのだ。だから俺は精神を保っていられた。
目覚めた時ベッドには猫の毛が散らばっていた。
それはまりしろがそばで俺の様子を見ていてくれたからだ。他の誰よりも長い時間、まりしろは側にいて看病をしてくれた。俺の身を案じて、あの子猫なりにも想っていたことがあったのだろう。あの子は確かに子どもだが、子どもでありながらもとてもしっかりしている。獣人は感覚に敏感だから、ひとの思いを読み取ることが得意なのかもしれない。天真爛漫なように見える彼女だが、決してそれだけではないのだ。
その五日後、俺は目覚めた。
そして、彼女たちと初めて会話をした。
人界に帰ることはできないのだと嘘をついたのは俺を保護するための対策だった。俺が知らない場所で、彼女たちは俺のために行動していた。
シャウラと初めて出会った夜、騒動を起こしてミィリィさんに叱られた。「アリシア様は疲れているのです」と。
それはアリシアが多忙な時期だったからだ。
召喚士が新たな従者を呼び出す際には、行政との複雑なやり取りがある。書類の提出、申請、許可。ただでさえ面倒な事務が、今回の場合はさらに特殊な状態となったのだ。
死にかけの状態で召喚されるという非常に稀なケースであったからだ。その影響でアリシアは様々な場所に書類を提出しなければならなかった。東奔西走し、体に負担をかけていた。だからあの時アリシアは疲れていたのだ。
何もかもを秘匿にされたまま、中心界での生活は始まった。
毎晩悪夢にうなされたのは、あの事故のことを心の奥底で知っていたから。
記憶を忘れることによって精神が保たれていたのだろう。
フリルに向かう最中に上空から海を見て発狂したのも、あの事故を連想させたから。
それらの記憶を思い出すことから俺はずっと目を背けていた。
どうしようもないくらいに支えられていたというのに。
そして人界に帰る方法があると鴨長から聞いた直後、何も知らない風な俺はアリシアに説明を求め、真実を告げられてもそれは嘘だと罵った。
家族の名前を挙げられても、頑なに現実を受け入れよとしなかった。
俺が目覚めて間もない時期にアリシアが疲れていた理由は行政とのやり取りが忙しかったからだけではない。同時進行で七海敬斗の身元を調査していたからだ。
他の従者を伝って知り合いの人界人に協力を要請して、俺の身分を割り出した。
溺れていた状態だったこと、そしてその水が海水であったことが手がかりとなり、膨大な情報の中から俺が召喚される直前に一体何が起こったのかを協力者は調べた。
そして調査をしているうちに、ひとつの事故に行き着いた。
それは大々的に報道されていて、ニュースでは連日大騒ぎの事件だった。
ボーイング×××。
成田発シドニー行き。
×××便。
太平洋へ墜落。
搭乗者のリストに。
日本人で少年。
その事故は俺が召喚された時期とぴったり重なっていた。
そのことから召喚した人界人はこの飛行機に乗っていたのであろうことが予測された。その後俺が目を覚まし、名乗ったことによって身元が確定された。
乗員乗客217名。
死者216名。
行方不明者1名(認定死亡)。
これが事故の最終報告。
行方不明であったただひとりが、紛れもない七海敬斗である。
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