頭を冷やそう

「……!」

 全身に冷たさが伝わった。突然に突き飛ばされて、俺はプールに飛び込む形となった。背中を力一杯に押したのはミィリィさんだった。

 反射的に目をつぶり、急いで水面に顔を出す。濡れた顔を両手で拭って振り返る。

「何するんですか!」

 抵抗もなく引っ張られた俺は一階まで連れて行かれた。

 今は本棟にある室内プールにいる。市民プール並みの大きさを誇るこの施設は、ミィリィさんが日常的に利用している場所だ。まりしろに案内されて一度だけ来たことがある。

 プールの底は段差になっていて奥に行くほど深い。三メートルより先は一気に深度を増して最深部では三十メートルになる。

 室内プールと言っても今は春、水は非常に冷たかった。深界出身の人魚であるミィリィさんには温いくらいだろうか。

 文句を言おうとして振り返ると、ミィリィさんは服を脱いでいた。

「……!?」

 慌てて目を逸らした。ミィリィさんがいくつかの服を脱ぐと、そこに現れたのは水着だった。彼女もプールへと飛び込んだ。水に入ったミィリィさんは凄い勢いで深くまで泳いでいく。

 遊泳の激しさは波となって俺のいる場所にまで伝わった。ある程度泳ぐとその影は段々と近づいてきて、水面にその姿を晒した。

 濡れた御髪は吸い付くような魅力を放ち、水滴が撫でるように肌を流れていった。透き通るような肌にはエラがあって、呼吸に合わせて揺れ動いている。下半身は見入ってしまうほど煌めく海色の鱗を持つ尾びれがあって、光の当たり方によってその色彩を変化させている。

 ミィリィさんのこの姿を見るのは初めてだった。人魚は陸上では脚を持っているが、水中では尾びれに変化する。その姿は神秘的で、つい見とれてしまった。

 ミィリィさんの虚ろな瞳と目が合う。静かに呼吸する音だけが伝わって水面が揺らいだ。

 一体何がしたくて俺をここに連れてきたのだろう。

 段々と距離を詰めるミィリィさんを見つめながら、そう考えた。

 手が触れられるほどまでに接近した時、端麗な人魚は言った。

「今ここで涙を流しても、私はプールの水なのだとしか思いません」

 ああ。

 そういうことか。

 どうしてそんなにも、心優しくいられる。

 嘘つき呼ばわりをして心の底で懐疑的に見てきた人間のことを、どうしてそうも寛容に受け入れられる。

「己の誇りや矜持といった類のものは、時に言動を妨げます」

 強い意志を持った双眸は慈悲深く。

「ずっととは言いません。少しの間だけでいいので、捨て去ってみてはいかがですか? 恥じらいも誇張も投げ出して、叫んだっていいんです。恥じることではありません」

 凝り固まっていた感情が溶けていくような感覚。

「ケイトさん、あなたはとても心優しい方です。ここに来てからのあなたの姿を見ていれば明瞭に判ります。あなたは優しすぎるくらいだから、何か小さな間違いをしただけでも己を叱り、でも平気なように振る舞う。我慢をし続けて取り繕う」

 身体が熱くなって、今まで隠してきた想いで張り裂けそうになる。

「でもそんなことしなくたっていいんです。たまには、我慢することを止めてはどうですか? ここでケイトさんが零した全ての言葉は、水底に沈んでいきますから」

 許しを得た気がした。こんな言葉をかけられるのは初めてのことだった。

「どうして俺なんでしょう」

 今まで溜め込んでいたものを、何もかも吐き出したくなった。

「俺じゃなくても良かったはずです。妹の羽織でも、母でも、父だって。他の人もですよ。どうしてあんなに沢山の人がいた中から、わざわざ俺なんかが従者に選ばれたんでしょうか」

 俺は真っ当な人間じゃない。人に疑って掛かり、物事から目を背けてばかりいる愚か者だ。

「もっとずっと生きたいと願っていた人がいたはずです。生きるべき人がいて、その人には待っている相手がいて、生きるための重要な理由があったはずなんです。なのに選ばれたのは俺で、生きるべき優先順位の低いつまらない愚か者で。どうせなら俺なんかよりも、もっと相応しい人を救って欲しかった……」

「あなたは、自分が生き延びたことを罪悪だと思っているのですか?」

 罪悪。後ろめたさ、後悔。

「その通りかもしれません。重いんです、耐えられないんですよ。他の人たちのことを考えたら、もっとまともに生きなきゃいけないだとか、一秒たりとも無駄にしては駄目なような気がしてならないんです」

 だから自分を蔑む。虐げる。

「生きているからには、救われたからには、何かを成さなければならない。そうやって考えると犠牲となった人たちが目に浮かぶ。足元に大量の死体が見えて、自分はそれを踏んでいる。死体は呻き声や羨望の声を上げて、頭が軋むように痛む。きっと彼らは俺のことを恨んでいる」

 思い出して、また頭痛がして頭を押さえた。

「家族もそうだ。羽織はあの日すごく楽しそうにしてた。学校へ生活の方も順調で、新学期にも期待に胸を膨らませていた。部活にも全力で、どんどん上達していってた。友達も多くて、誰からも好かれていて人付き合いも良かった。今もしも間に合うのであれば、あいつと立場を入れ替わってやりたいくらいです」

 だけど知っている。そんなことは叶わない。くだらない妄想でしかないのだと。

 いくら過去に目を向けても現在は変わらない。

 そんな無慈悲な現実を前にして、なおさら俺は思う。

「俺のような、怠慢で、愚劣で、非力で、卑劣で、傲慢で、姑息で、卑怯で、醜悪で、臆病で強情で虚弱で薄弱で惰弱で無益で無意味で無価値で虚無的で不甲斐なくて意地汚くて最低で最悪な人間は、救われるべきではなかったんです」

 パシンッ! と室内に音が響いた。

 頬が痛む。

「私はそんなことが聞きたくてあなたをここに連れてきたんじゃない」

「…………」

「いい加減気づいてくださいよ。あなた自身を卑下すること自体が、それこそが犠牲となった人々に対する冒涜です。アリシア様や、他の従者たちに対しても」

 ミィリィさんは凄い剣幕だった。声が震えている。

「アリシア様は、あなたに苦しんでほしくて黙っていたわけじゃない。むしろ逆なんです。あの子は凄く弱い子で、だからあなたの境遇を知った時に言ったんです。どうにかして彼の悲痛を拭いたい。心の支えとなって、彼を従者として迎え入れたい、と」

 身体が震える。水が冷たいからではない。

 頬に何かが伝った気がする。これはプールの水だ。

「だから私が提案したんです。ゆっくりと環境に慣れさせて、時が来たら真実を告げましょうと。あなたをなるべく外に出さないようにして、心を落ち着かさてからにしようと。この屋敷はそれを実行するには最適の場所でした」

 だからフリルに行こうとした時も、ルーナと長く話していた。

「あの子はあなたが苦痛を受けることを望んではいません。ケイトさんことを第一に思って、ここ最近を過ごしてきたんです。だからどうか、自身のことを蔑まないでください。あなたにはもっと、他に言うべき言葉があるはずです」

 そんな風に言われたら。もう。

 眼から止まらなく溢れ出て。

 隠すことさえできない。

 俺はミィリィさんに感情のありったけをぶつけた。

 ずっと溜め込んできた想いを。

 深層心理に閉じ込めてきた苦痛を。

 これ以上ないくらいに吐き出した。

 その内容は水底に沈んでいったまま、もう浮き出てくることはない。

 ここで話したことを知っているのは、ミィリィさんだけだ。

 水となって溶け出した感情も、見分けがつかないくらいに同化している。

 俺が言ったのはごくごく単純な言葉だ。感情を変換しないままに、止め処なく溢れ出る思いの丈を吐き出しただけ。それをミィリィさんは、静かに聞き入れてくれただけ。

 ただ少し言えるのは、それが俺の思う素直な気持ちだったということ。

 突如中心界に呼び出されて困惑したこと。

 そこには心優しい人たちがいたこと。

 かつて大切な家族がいたこと。

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