NS-M7ブレイクスルー”ナナ”
廊下に飛び出すとすぐさま左に向かって走り出した。後ろを振り返ると吸血夢魔が追ってくる。愛しそうな表情で追跡してくる。
階段を使って三階へ逃げる。全力で疾走して、別の階段から二階へ降りる。
体力には自信があった。俺は元陸上部だった。体力はそれなりに身についている。
しかしこのまま持久戦に持ち込むことは得策ではない。
なぜなら吸血鬼は人間よりも遥かに能力に長けているからだ。それは治癒能力や単なる力量に留まらず、体力も人界人では比較対象にならないほどだからだ。
何か策を練らないと。
「くるなぁぁぁぁぁぁぁ!」
必死に逃げるも彼女は「くるぅぅぅぅぅ!」と追いかけてくる。
二階の廊下を走り、階段を下り、地上階に着いた。未だ追跡の波は止まらない。そろそろ疲労してきた。いくら陸上競技部員でも全力疾走の長距離が得意なものは少ない。限界が近づくにつれて彼女は距離を詰めていた。
「おりゃぁっ!」
床に落ちていたルンバを拾って投げつける。意外に円盤は軽かった。フリスビーと同じ要領で投げるが相手は容易にそれを躱した。身のこなしも人間とは違う。
今度は相手が円盤を投げてきた。
走りながら屈んでギリギリ躱す。ヒュンッと耳元で空気の斬れる音がした。投げる力が強すぎる。本気でヤりにかかっている様子が受け取れる。
「やばいやばいやばい!」
距離が徐々に詰まる。もう捕まってしまうかもしれない。
そう思った矢先のことだった。逃走を続けていると正面に人影が見えた。アリシアだろうか、ミィリィさんだろうか、または他の従者の誰かか。とにかくこれはありがたい。鬼の勢いで迫る吸血鬼をどうにかしてもらうには都合が良い。
人影はこちらに気がついている様子で直立している。
「シャウラ、直ちに止まってください」
そう発すると共に、廊下の照明が一斉に灯った。
吸血鬼の彼女は介入してきた人物を見ると嫌そうな顔をして、「げぇっ」と口にした。
「人界人の方は私の後ろへ」
その人物は女性だった。良かった、この人は吸血鬼の暴走を止めてくれそうだ。
「目覚めてから間もない方を襲うなんてどういうつもりですか!」
「だ、だって血が!」
吸血鬼の彼女は走る速度を落として停止した。叱られるのに弱いのかもしれない。
「だってじゃないです」
すると女性の両太ももから計四つの謎の球体が出現した。そして四つのそれは飛行して吸血鬼に接近し、一対ごとに両手両足を拘束するようガチャリとはめ込まれた。吸血鬼は自立できなくなって床に倒れ込んだ。その球体は機械だった。
「こんな夜中に何てこと」
女性は声を荒げるが、夜であることを気にしてひっそりとした声だった。
「うぅぅ」
ハーフの子は縮こまっている。もうなんというか、……惨めだった。
「何もされませんでしたか?」
「あー、ちょっと首筋をひと噛みほど」
すると女性は驚いた様子で床に倒れる吸血鬼に「もうっ!」と怒鳴った。
「シャウラ、あなたは状況をわきまえられないのですか!」
「ひいぃ」
小さな悲鳴を上げるだけで言い訳はしなかった。通用しないことがわかっているのかもしれない。確かにそれが得策だ。
「もしミィリィにばれていたらとんでもないことに……」
「ひいぃ!」
二回目の返事は、一回目と様子が違った。罪悪感というよりも恐怖感のようなものが見える。思えばシャウラと呼ばれた吸血鬼は俺と女性のさらに後ろを怯えた双眸で捉えている。
「どうしたんですシャウラ」女性は尋ねる。
「う、うしろに……」
後ろに何かあるのかと、俺と女性は不思議に振り向いた。
吸血鬼よりも鬼のような形相で仁王立ちしているミィリィさんがいた。
「ひっ」「うわっ」
ミィリィさんは眉間にシワを寄せ両腕を組んでいる。夕刻の服装とは打って変わって素敵な寝間着を纏っていた。寝間着姿でもミィリィさんは端麗な雰囲気を帯ていて美しかった。たとえ怒髪天を突くような表情をしていてもだ。穏やかな白波を立てていた瞳はいずこに、大シケ時の海のように荒々しい波がうねっていた。
「いったい、どういうことなのでしょうか。どなたか説明を」
「こ、この人界人がっ!」
脊髄反射かと思われるほどの素早さで、両手足を拘束されている吸血鬼が言い放った。
「は、違うだろっ! お前が人の首筋をいきなり噛むから!」
「ナ、ナナがっ!」
「私はロボットクリーナーが異常な振動を報告したので見に来たまでです」
「で、結局この騒動の原因は」
「シャウラです」
今度は女性が脊髄反射かと思われるほどの素早さで言った。
「ちょっと! 仲間を売るの!?」
「仲間と言われましても……、ここにいるのは全員アリシアの従者ではありませんか」
そうだ、仲間も何もない。家族に対して家族を売ると言っているようなものだ。意味不明だ。
「シャウラ」
ミィリィさんが重々しい口を開く。吸血夢魔は息を呑む。それを見ている俺は固唾を呑む。
するとそこに危ない空気を読んでのことか、俺を助けてくれた女性が割り込んだ。
「あー、待ってくださいミィリィ、この件は私がしっかりと叱っておきますので、どうか穏便に」
ミィリィさんは少し考えて、
「……そうですか。だったらナナに任せるとしましょうか。ですがシャウラ」
眼光炯々としてミィリィさんは言う。吸血少女は戦々恐々としている。まるで犯罪者が判決を言い渡されるときの緊張感だ。首を噛んだだけで犯罪者とはさすがに言い過ぎだが。
「アリシア様は最近お疲れなのです。ですから休んでいるときくらい静かにしてください。疲れを増やすようなことは、決してしないでください」
アリシアは疲れているのか。会話した時は全くそんな気配はなかったはずだが。
「はい」
この騒動を人のせいにしようとしていたくせに随分と素直だった。この屋敷においてミィリィさんは結構な地位にいるのだろう。あの眼光で炯炯と睨まれたら口答えする気分にはなれない。蛇に睨まれたようだった。
「それではナナ、あとは任せましたよ」
「はい」
ミィリィさんは廊下を歩いて去っていった。任せましたよと言いつつも、立腹している様子は最後まで変わらなかった。
「どこか落ち着ける場所に移動しましょうか」
女性が提案した。賛成だ。夜中に廊下で話していても落ち着けるはずがないし、どこかの部屋に移動するべきだ。まだ相手の名前も聞いていない。後日にでも顔合わせの機会はあるのだろうが、このままスヤスヤと眠れる自信が湧かない。吸血夢魔の襲撃によってすっかり覚醒してしまったので、どうせなら朝になるまでこの女性と話し潰したいところだ。
「そうですね、それがいいです」
吸血鬼サキュバスは口を噤んだまま悔しそうな顔をしている。拘束されているので身動きが取れずにいる様はどこか犯罪的な香りを漂わせていた。少女監禁事件、みたいな。
ミィリィさんの威圧にやられたのも相まっているのだろう。静黙を保ちつつも横眉怒目の表情を見せるミィリィさんの姿には人を超えた恐ろしい気迫を感じた。
かくして吸血されることを逃れた俺とその犯人、それから助けてくれた女性の三人は落ち着ける部屋に移動することになった。
女性の太ももから出てきたように見えた謎の機械球体は飛行機能があったようで、拘束を解かずに吸血鬼の身体を浮かし、そのまま部屋まで運んでいた。
尋ねたいことは山ほどあるが、両手足を縛られたままふわふわと連行される吸血鬼の姿勢が鉄棒の技の一種「豚の丸焼き」に見えてならなかった。可哀想というか惨めだ。
「ふっ、滑稽だな」
「うっさい!」
思いっきり怒鳴られた。少しくらいの冷やかしは許容範囲だろう。こちらは首筋に激痛を喰らったのだから。未だに痛むし、跡になったらどうするんだ。
「シャウラ、まだ騒ぐつもりなのですか? やはりミィリィ直々にお叱りをしてもらったほうが……」
「まって、どうかそれだけは……。黙る、黙るから!」
アリシアが眠っていることを気遣って、吸血鬼は掠れるほどの小声で言った。
「ところであの……、ナナさん、でしたっけ」
「なんですか?」
「あの吸血鬼を拘束してる球体って一体何なんですか? あなたの体の中から飛び出してきたように見えたので」
「ああ、あれはドローンですよ」
「ドローン?」
「はい、機体に標準装備してるんです。私は機人ですから」
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