飲ませてっ!

「ぐはぁっ! はぁ……、はぁ……」

 俺は思わず身体を起こした。

 なんだったんだ今のは。

 自分の身体を確かめてみる。おかしなところは何も見つからない。大丈夫、ただの夢だ。ただの、悪い夢を見ていただけなんだ。俺は刷り込むように言い聞かせる。

 やっぱり眠れそうになかった。

 窓の方に寝返りを打つ。カーテンが閉まっていて生憎外の景色を眺めることはできないが、わずかな隙間から月光が差し込んでいた。俺の知らない月だとしても、月光は心が安らぐ。

 それから少し経って俺は落ち着きを取り戻した。また瞳を閉じてリラックスする。

 するとちょうどそのとき、ギィィ、と小さな音を立てながら扉が開いた。

 誰かが入ってきたのだろうか? しかし俺にはそれを確認する勇気がなかった。ついさっき嫌な夢を見たばかりなのだ。もうこれ以上の恐怖は味わいたくない。

 だからそのままじっとしていた。

 もしアリシアかミィリィさんが用あってここに来たのなら、彼女らの雰囲気からしてノックくらいはしてくれるだろう。だからあの二人ではないと予想する。

 その足音は徐々に近づき、ベッドの足元の方で止まった。

 依然じっとしているとその誰かはベッドの上に這い上がってきた。このベッドはキングベッドほどの大きさがあるのだが、その誰かは俺の体に向かってゆっくりと接近してくる。掛かっている布団をめくり、身体との間に入ってきた。なんだこれは、いったい何が目的なんだ……。

 こちからが硬直を続けているのをいいことに、相手はどんどん接近する。

 身体を密着させるように押し付けて、何やら柔らかいものが当たる。指先で、足、太もも、腰をこそばゆくなぞる。その手つきはどこか艶かしく、捕食者に弄ばれる小動物のような気分になった。身体をなぞるこの行為は獲物を焦らしているようだった。

 相手の心音が伝わるまで密着している。その鼓動はとても速い。

 いっそこのまま寝たふりをしていればやり過ごせるのではないか。

 なーんだ寝てるのか、ということで去ってくれるのではないか。

 いかにも浅はかである。俺のワガママにしか過ぎなかった。

 覆いかぶさるように密着している相手はとうとう顔に息がかかるほどまでに接近した。

 その吐息は生温かい風を起こして肌を撫でる。甘くて艶かしい匂いがした。

 心臓は鼓動の間隔を縮め、不思議な気分に陥った。相手の呼吸もだんだん荒くなっている気がする。なんというか、興奮しているような。……興奮? どいうことだ?

 相手の強い力によって、俺は仰向けの状態にされた。

 今のしかかっている相手とは顔が向かい合っている状態だ。こちらを見つめているに違いない。だめだ、絶対に眼を開けてはだめだ。

 自制の意思を固めている吐息が首筋にかかった。相手の体重がかかり、両足は膝で押さえつけられている。胸には柔らかい感触が当たっている。これではやり過ごそうというどころの話ではない。逃げられないように固定されているのだ。

 今度は後頭部に手を回してきた。支えるように、抱きしめるように優しく包み込む。体温が伝わり、気が気でなくなる。他人とこんなに密着したことなんて一度もない。今すぐ助けを求めたいところだった。

 首筋をペロリと舐められた。

「……!」

 声が出るのを堪える。寝たふりでやり過ごさなくては。

 ぺろっ、ぺろっと、と複数回舐められた。

 身体がぞわぞわする。でもなぜだか嫌ではない。

 馬鹿なことを考えていると、その次の瞬間。

「がぶりっ」

 と噛まれた。

 噛まれた。

 二つの牙が首筋に突き刺さる。激痛が走りもう寝たふりに耐え切れなくなった。

 俺は眼を見開く。

「なんだ!?」

 声を荒げる。相手を引き離そうと力を入れるが、押さえられている力の方が強いようで振り払うことが敵わない。

「ふふっ、起きてたんだ。おはよ」

 瞳に映った人物の正体は女の子だった。おはようとはどういう意味なのか。今は真夜中である。入り込むのは月光のみでこの部屋を照らすものは仄暗いホログラフィーくらいなものだ。 

「夜の世界へようこそ」

「なんなんだ! いきなり噛み付いて」

 女の子は不敵な笑みを浮かべる。

「ねえ、ちょっとだけでいいから血飲ませて、ね、いいでしょ?」

「全然良くない! 凄く痛い」

「だーいじょうぶだよ。初めては痛いものだけど、回数を重ねるにつれてだんだん気持ち良く思うようになるから」

 ずいぶんと意味深長な発言をする。おまけに彼女は息を荒げて、愛おしそうにこちらを見つめる。早くちょーだいよぉ、と瞳が訴えていて妖姿媚態に見えた。

「だめだ。それより、なんで人の寝床に勝手に入ってくるんだよ。一体どういうつもりで……」

「もう! そうやって焦らすつもりなの? 意地悪だよ」

「意地悪って……。そもそも人の首に勝手に噛り付いて、痛いじゃないか。血が欲しいって一体どういう意味で……」

 と聞き正そうとしたところで、俺は気づいた。

 彼女のこの容姿。鋭く尖った二つの牙。この言動。血が欲しい。その言葉の意味。

 そしてこの状況。真夜中で暗い状況下。

 これらから得られる答えとは。

「……! 吸血鬼!」

「ふふっ、正解。半分はね」

 種族図鑑で眼にした。

 吸血鬼。魔界固有の生物で夜を軸として活動する。鋭い牙とツノを持ち、背中の羽で空を飛ぶこともできる。吸血鬼特有の欲求『吸血欲』を持ち、それはいわば一般的な生物における性欲のようなもの。定期的に吸血を行い欲求を満たすのが普通とされている。

 吸血鬼に初めて噛まれると強い痛みを伴う。しかし同じ場所を複数回にわたって噛まれると徐々に痛みは薄れていき、次第には快楽を覚えるようなることがある。※ただし個人差あり。

 他の生物と逸脱している特徴はなんといっても傷の自然治癒能力。個体差はあるものの、一般的な吸血鬼は切り傷を数秒で回復させる。それは特有の魔力によるものだ。大きな魔力を持ち、その容量も凄まじい。

 その吸血鬼が今、血を欲しているのだ。吸血鬼の四大欲求の一つである吸血欲。

「お願い、もう五日間も我慢してきたんだよ? これ以上我慢したらあたし、頭がおかしくなっちゃうよ」

「そんなの知るか。噛まれる時の痛みも、貧血で気絶するのも嫌なんだよ!」

 禁欲とはとても大きな苦痛を伴うものだが、彼女に優しくている場合ではない。ちょっとだけだと言って全部飲み干す可能性もある。

「押えつけるのを止めてくれ、これじゃあ動けない」

「だーめ、離さない。離したら逃げちゃうじゃん。そんなに嫌がるんならもういいよ」

 おっと、引いてくれるのだろうか。

「勝手に飲むだけだから」

「おい! だからだめだって」

 彼女はより強い力で俺を押えつける。吸血鬼の力はとても強く、ただの人界人には抗えない。

 彼女の顔が近づき、また吐息がかかる。肌が密着して体温が伝わる。こんな危機的状況なのに、いやらしい感情がよぎる。

 現状を打破しなくては。考えろ、急いで考えろ。

 吸血鬼の弱点は? 弱点は……。必死に記憶を探る。種族図鑑に記載されていたのだ。吸血鬼の弱点は……。そうだ! 思い出した。

 明るい光だ! 吸血鬼は夜に行動する。それは光が苦手だからだ。

 そうと分かったら部屋の照明を点ければいい。俺は唯一固定されていない左腕を使って手を伸ばす。その先にはスタンドの上に浮いたシステムコントローラーがある。

 コントローラーのマニュアルを読んでいた時、俺はある項目を発見した。

 命令を頭の中で念じながら球体を廻すと、その命令通りになる。

 それがこのシステムコントローラーの機能の一つだ。球体をパネルに開かずともできる。モニターがつくように念じて触れればその通りになるし、照明が点くように念じれば同様に働く。

 必死に手を伸ばす。もうちょっとで届きそうだ。その間彼女は顔を埋めようと密着してくる。歯の先っちょが首に触れたちょうどその時、俺はコントローラーを廻した。

 パッと部屋に明かりが灯った。

「……、ってあれ?」

 様子がおかしい。なぜか照明の色が桃色になっている。真っピンクだ! 光は薄暗く、まるで間接照明だ。これでは余計に吸血するための演出をしてしまったではないか!

 灯りが付いたことには彼女も気づき、動きを止めて天井を見上げた。

「あれー? ふふっ、そういうことか……、言葉では嫌がってるくせに、心は正直なんだね。いいよ、思いっきり噛んであげる」

「違う違う、そうじゃない! そういう意味じゃない!」

「ふふっ、恥ずかしがり屋さん」

 違うんだヨォォ!

 どうやらこのコントローラーの感情伝達機能は、よこしまな考えが邪魔をしているとそちらの意思を読み取るようだ。ハイテク過ぎて逆に不便になるという例である。つまるところ俺は彼女の密着する肌や艶かしい瞳にけしからぬ感情を抱いてしまったのである。俺は馬鹿だ。

 ええい次こそ! ともう一度触れる。すると今度は成功した。

「うわあっ!」

 吸血鬼は声を上げて俺の横に倒れた。シーツに顔を埋め丸くなっている。のしかかっていた力が解かれたので、早急に距離を取ろうとベッドから出て壁際に避難した。

「ううぅ、電気緩めて。お願いだから……」

 吸血鬼は懇願する。効果は抜群のようだ。

「いいやだめだ。電気を緩めたらまた襲ってくるだろう。噛まれる側は堪ったもんじゃない」

「こっちにとっては溜まったものなんだよー。五日も飲まなかったら吸血鬼死んじゃうんだよ!」

 彼女は訴えるが、それが虚言だということはお見通しだ。本には吸血欲とはあくまで性欲に近いものであり、吸血しなければ何かがあるという訳ではないと記載されていた。ストレスが溜まるのかもしれないが、彼女の欲望を満たすために犠牲になるなんてごめんだった。

「ふふっ、ふふっ……」

「おい、どうしたんだ」

 不意に奇妙な笑いをこぼす。

「ふふっ、……なーんてねっ! あたしは吸血鬼だけどそれは半分だけ。もう半分は別の血が流れている。普通の明るさなんて効かないっ!」

「な、なにぃ!」

 これは想定外であった。まさか彼女が吸血鬼と他種族のハーフだったなんて! だから弱点は半減されるのだ。

「あたしは吸血鬼とサキュバスのハーフ!」

 サキュバス!

 吸血鬼と同じく魔界の固有生物。夢魔とも呼ばれ人の精を奪っていく存在。特有の魔法を数多く使い熟し、相手に理想の夢を見せたり相手を惑わすことを得意とする。幻惑魔法のプロフェッショナル。

 そのハーフということは、両者の能力を受け継ぎ弱点は半減しているという意味。こんな相手に敵うはずがない。

 彼女がとても妖姿媚態に思えたのもうなずける。あれは彼女の能力だったのだ。

「もう逃げられないよ。おとなしくあたしに血を……」

「……さらばだっ!」

 俺は扉を開け、廊下に飛び出した。逃走劇を繰り広げるのだ。逃げねばならぬ逃げねばならぬ、ミイラになどなりとうない。

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