10「皇帝陛下とはいえ、容赦せんぞ!」
ニールセンは大きく一歩分前へと進み出ると、立ちすくんで動けないでいるジルの右腕をしっかりと掴んだ。
強引だが、扱いはとても優しい。
もう、逃げられない。
もう、逃がさない。
もう、離れない。離さない。――どんなことがあっても。
「そなたを正式に迎え入れたのち、皇帝位と皇后位を共に捨てようぞ。そなたが共におれば、余は何も要らぬのだ」
ニールセンがジルに子供のように無邪気に笑いかけている。
持って生まれた皇帝位を。
そなたと共におるために――捨てよう、と。
「皇帝でなくなれば、元老院にあれやこれやと言われることもなくなる。そしたら余は皇后とずっと――そうなれば皇后ではなくて、呼び方を変えねばならぬな。……ええと、その、なんだ」
ジルの腕を掴むニールセンの手の力は、決して緩むことがない。
すべてが越えていく――。
ジルの両目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
今まで多くの感情を表さなかったジルが、ニールセンの前で初めて、泣き顔を見せた。
「ジル、と。お呼び捨てくださいませ」
そう言って、美しき姫君は自ら皇帝陛下の胸の中へと飛び込んだ。
ニールセンはジルの華奢な背中に手を回し、そっと包み込みこむように抱きしめた。
「――ジルよ。案ずることはないぞ」
ジルのさらさらとくせのない髪が、ニールセンの頬に触れる。
「ヴィンレットには既に申した。次期皇帝を譲ると――」
マイシェル公を始め、ヴィンレットやロビン、側近や衛兵たちは、まるで芝居見物をしている観客の如く、美しき舞台役者と化した二人に見惚れていた。
「なんと……いい話だ。そうは思わないかい、ロビンちゃん?」
ヴィンレットは上着の胸ポケットから白いハンカチを取り出し、出てもいない涙をぬぐう真似をしている。
ロビンは、そんな三文芝居に興ずるヴィンレットと、抱き締め合う二人を交互に見て、素っ頓狂な叫び声を上げた。
「次期皇帝を譲るって――ほ、ほ、ほっ、ホントなんですか!? アイゼン公??」
きー、とまたもや野良のラスビーがどこか遠くで相槌を打った。
きー。きー。
思いも寄らなかった衝撃的な事実に、影武者少年は面食らい、ふらりよろめいた。
当の本人はさしたる興味もなさそうに、相槌を打ってみせる。
「まあね。でも、あいつ本気だったんだ……。僕、適当に聞き流してたんだけど」
「そんな、国をも揺るがす重要事項を、二人で適当に決めないでくださいよ!! ジイサンが知ったら卒倒しますよ!?」
「いいんだよ。元老院は最近図にのってるからな。この僕だってれっきとしたアリエス家の末裔だ。僕はジジイたちの人形じゃないんでね。こうやって自らここまでやってきたのだけど――」
ヴィンレットは、広間の中央でジルを抱きしめているニールセンの方へ顔を向けた。
どこか諦めにも似た、哀愁を帯びたため息をひとつ、ついてみせる。
「あいつもジル殿が来てから随分と変わった。人形が勝手に動き出した――愉快だと思わないかい、ロビンちゃん?」
「こんな状況を目の前にして、よく愉快だなんて言ってられますよね」
「あせってもしょうがないしね。はははは」
二人の言うとおりである。
現状を冷静に判断し始めたマイシェル公配下の衛兵が、次第にニールセンとジルを取り囲むようにして近づいていく。
ジルが一緒なので手荒な真似は出来ないようだ。様子を見ながらじりじりと、確実に退路を断っていく。
ニールセンはひるむ様子を見せない。ジルをしっかりと抱き締めたまま、マイシェル公に向かって言い切った。
「皇后は貰っていくぞ。よいな?」
「良いわけがなかろうが! ええい、姫はユアン国へ嫁がせる約束なのだ。いまさら帝国などにやるわけにはいかん! 皇帝陛下とはいえ、容赦せんぞ!」
烈火のごとく怒り出すマイシェル公の前に、ジルはニールセンをかばうようにして立ちはだかった。
「お許しくださいませ、父上様。どうか、陛下に乱暴だけは」
真っ直ぐだ。
ジルの懇願の眼差しに心打たれたのか――語調を少しだけ和らげた。
「父はお前のためを思ってやっているのだ。乱暴などと……お前が帝国の人間にどんな仕打ちを受けたと思っているんだ? 都合が悪くなればすぐに手のひら返したように冷たくあしらわれるだけ。このような若造を追い帰す事くらい訳ない。大軍を率いてきたわけでもなく、よくもまあ大きな顔をして乗り込んでこられたものだ。その無鉄砲で無分別な勇気だけは買いましょう――この者どもを捕らえ、丁重に帝国へお帰しもうせ」
マイシェル公が命令を下すと。
衛兵たちが抱き合うニールセンとジルを引き離そうと周囲をぐるりと取り囲み始めた。
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