9「余の皇后は、余が選ぶのじゃ」
その時である。
屋敷内のどこかで、何やら物々しい声が飛び交っている。
「賊が! 賊が侵入したーっ!」
「衛兵はどうした!? 何をやっておるのじゃ」
マイシェル公は側近の若者を怒鳴りつけた。
状況を確認するために、側近はそそくさと部屋を出ていく。
「何やら騒がしいですわねえ、父上様?」
「物騒ですね……お金をかけるべきところにはきちんとかけた方がいいと思いますよ、余計な心配かもしれませんが。屋敷の中に野良のラスビーが走り回っているくらいですからね、賊だって入るでしょうに。もっとも盗めるものがあるかどうかは不明ですが?」
ヴィンレットの嫌味を込めた発言に、マイシェル公は片眉をひきつらせた。
ざわめきがどんどん近づいてくる。
その『賊』の正体は……。
「ジ、ジル様ぁっ!」
「あら、ロビンさん?」
「ちょっと……何やってるんだい、ロビンちゃん?」
ジルもヴィンレットも、よく知る少年が突然目の前に現れて、ただただ驚くばかり。
「あ、アイゼン公! 言っておきますけど、僕は止めようと思ってここまで来てしまったんですから!」
ロビンは両脇を衛兵に押さえ込まれ、もがきながら必死の形相で顔見知りの男に救いの眼差しを向けた。
ヴィンレットはあくまで淡々と、軽くあしらう。
「止めようって――この僕をかい?」
「いいえ、そうじゃなくて――」
マイシェル大公はあごで『賊の少年』を指した。
「公爵殿、お知り合いか?」
「いえ。まったくの他人です」
切り返しの速さは神業に近い。
「あ……ヒドイ、アイゼン公……」
ジルはヴィンレットの無慈悲なあしらいを見かねて、父であるマイシェル公へ説明をした。
「陛下の影武者さんで、ピンガ大臣様のお孫さんですのよ」
身なりは地味な宮廷御用人だが、その氏素性がはっきりとしていたことが幸いした。
ピンガの名前を出すと明らかにマイシェル公の態度が変わった。捕らえていた腕を離すように、警備兵に命ずる。
「ピンガ殿の? ……賊とは、こやつのことか?」
「もうお一方、こちらの謁見の間へ近づいております」
側近の若者は、必死に弁解を試みた。
しかし、マイシェル大公の怒りが収まるわけもない。
「何をやっているのだ! はよう取り押さえぬか!」
「い、いや、実は我々では到底、手が出せませんので……」
言いにくそうに説明する側近の言葉を聞き、ヴィンレットの頭の中にはひとつの結論が浮かび上がってきた。
「まさか……ロビンちゃん? ここまで来ちゃってたりして?」
「そのまさかですよ!」
警備兵の波を押しのけるようにして広間に姿を現したのは、濃い青の豪奢な衣装に身を包んだ若い男だった。
一目見て特別な身分であることが分かる。皇帝の第一礼装だ。
特別な儀式のときのみ着用を許される、天上人の証。
ニールセン・アリエス、その人である。
「皇后よ」
ニールセンは辺りに構うことなく、ただジルだけを見つめていた。
「ど……うなさった……のです?」
「余はそなたを迎えに来たのじゃ。我らの住まいへ帰るぞ」
二人の距離は言葉を交わせるギリギリだ。
ニールセンは白手袋を脱ぎ、揃えて左手に持つと、空いた右手を前方へ差し出した。
そのまま一歩、また一歩。ジルへ近づいていく。
やがて差し出した右手の指先がジルへ触れるところまで来ると、若き皇帝はゆっくりと立ち止まった。
「余の、皇帝としての最後の仕事じゃ。そなたを余の皇后として迎え入れる」
ニールセンの凛とした声が広間に響き渡った。
周囲の人々は驚きのあまり、言葉を発するどころか動くことも、呼吸することさえも忘れている。
ニールセンとジル、若き二人のやり取りに、視線が集中する。
舞台上には二人しかいない。
周りはもう、見えない。
ジルはわずかに身を引いた。
「帰れませんの。わたくしは皇后不適格の烙印を押されたのです。ですから、もう陛下のお側にはいられませんのよ。私の代わりに新しい御后様が――」
ジルは動揺している。忘れようと努めていたところへ突然現れ、しかも今までのヘタレっぷりがまるで嘘のように――。
およそ日の当たらぬ白い顔。絹糸のような金の髪に深い青の瞳。
たった十日間のことなのに、こんなにも懐かしくこんなにも愛しいとは。
激しく揺れる乙女心に、皇帝陛下は果てして気付いているのか――。
ニールセンはジルの言葉を遮るようにして言った。
「そのようなことは気にせずともよい。余の皇后は、余が選ぶのじゃ。初めはそうでなかったかも知れぬ。だが今は、余がそなたを選んだのじゃ」
誰一人、微動だにせず、じっと成り行きを見守っている。
「無論、元老院の決定が絶対であるのは余も承知しておる。しかし、皇后不適格などとそのような不名誉をそなたに背負わせとうない。余が半分背負う」
ニールセンの発する言葉の意味が解らないのか、ジルは呆然と目の前に立つ皇帝の顔を見つめた。
立場上、元老院の決定には逆らえぬと言っていた男が、ありえない台詞をはく。
「陛下――何をおっしゃられますの……? 半分などと――」
これがニールセンの言う、「皇帝最後の仕事」。
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