8「分かりませんわ」

「それで? のこのこ戻ってきたというわけですか?」


 ヴィンレットの目の前には、魂の抜けたような情けない顔の若者が鎮座していた。


「その通りじゃ」


 皇后ジルを引き止め、迎えに行ったはずが、単身で出戻ってきた挙句に――。


「……というかなぜお城へ戻られないのです? わざわざ僕の顔を見に来たなどということは絶対ありえないでしょうし」


 そう。ここはヴィンレット・アイゼン公爵邸の客間である。

 ニールセンはジルと別れたあと、何を血迷ったか――天敵の叔父ヴィンレットの屋敷を訪れたのだった。

 普段の皇帝なら、側に寄るのもよしとしないはずなのに、今日は何かが違う。

 頼りなげながらも、真剣な面持ちでじっと天敵ヴィンレットの顔を見つめている。


「余の頼みをきいてはくれまいか」


 前代未聞のニールセンの『お願い』に、ヴィンレットは面食らったような顔をした。

 半信半疑――。


「陛下が? この僕に? はははは。……いいでしょう。しかし、高くつきますよ?」


 ヴィンレットは意地悪く笑ってみせた。恩を売る絶好のチャンスとばかりに、やたらと食いつきがいい。ソファの背もたれに身を預け、ふんぞり返るようにして、ニールセンの言葉を待った。


 皇帝の頼みは、たったの一言。


「充分釣りが来るわ。――おぬしに、皇帝の座をくれてやる」


 二人は視線を合わせたまま、微動だにしない。

 それからそのまま、二人の間にはいっさい言葉がなかった。






 十日後――。


 ヴィンレットは一人帝国を離れ、見慣れぬ土地の風景を楽しんでいた。

 隣国とはいえ、移動に要する時間は丸二日。

 旅の疲れを癒す間も無く、ヴィンレットが向かった先は、敷地だけは無駄に広い、どことなく古びた感のある大きな屋敷だった。


 キーキーと、どこからかラスビーの鳴き声が聞こえてくる。野良が隙間から入り込んでいるらしい。

 ヴィンレットは呆れたようにため息をついてみせた。

 屋敷の中をラスビーが走り回るようでは、国家の財政が傾いているという話も充分頷ける。


「大公殿にお目にかかりたいのですが――」


 門番らしき男に颯爽と近づき、ヴィンレットは用件を言う。しかし、門番は決められた台詞を吐くだけだ。


「お約束でしょうか?」


「いいや。何か不都合でも? 帝国より使者が参上仕ったと、あなたのご主人にお伝えなさい――早く」


 ヴィンレットが急かすと、門番の顔色が変わった。


「て、帝国――の方ですか?」


「僕の顔を知らない? 君も大公様に仕える身分なら、近隣諸国の王族貴族のことは学んでおくべきでしょうね――」


 きー、と野良のラスビーがタイミングよく相槌を打った。




「帝国より、使者が参られました」


 ジルの父・マイシェル大公は側近の若者の報告に眉をひそめた。

 謁見の間の造りのよい椅子に腰掛け、傍らに寄り添う美貌の娘の表情を確認するように見る。

 帝国の使者、という言葉に特に動揺しているような素振りは見せていない。

 ただ、物憂げに窓の外を眺めているだけだ。


「使者だと? 適当にお相手して差し上げろ」


 こまごまとした事後処理のためにやってきたのだろうと、勝手に決め付ける。

 帝国とは極力関わりを持ちたくないというのが、マイシェル大公の考えのようだ。

 しかし、側近の若者は困ったような表情のまま。


「それが……私どもでは立場的に釣り合いませんので――大公様がお会いになられたらよろしいかと」


「誰じゃ? ピンガ・バックス殿か?」


「いえ、もっと上……ヴィンレット・アイゼン公爵殿、隣国の皇帝の叔父君です」


 そこでようやくジルが、側近の若者に顔を向けた。


「あら、公爵様がおいでですの?」




 謁見の許しも待たずに、ヴィンレットは部屋の中へと入った。

 そして、飛び切りの愛想を振りまいて、礼儀正しくお辞儀をしてみせる。


「ご機嫌麗しゅう、マイシェル公殿」


 一方のマイシェル大公は、表情を緩めず、儀礼的な挨拶を交わすことさえしない。


「貴殿の地位に免じて、私がお相手させていただく。此度の姫の扱いについて申したきこと多かれど、我が国も金銭的支援を受けるために、承知で姫を出したのもまた事実。多くは申しますまい。借り入れましたお金は私がすべてお返しします。しっかりと利子をつけてね。それで文句はないはずだが?」


 私が返す? どの道それはお前の金じゃないだろう、とヴィンレットは心の中で毒づいた。


「お金などお返しにならなくてもよいのです。ジル殿はお金を引き換えるための道具ではありませんから。あの程度の端金……」


 返そうが返すまいが、ヴィンレットにとってはどうでもいいこと。自分の懐は一切痛まない。

 それよりなにより、お金の貸し借りのことでここまで出向いてきたのだと勘違いしていることに、ヴィンレットは憤りを覚えていた。



「ジル殿」


「はい、公爵様?」


「あなたは本当にそれでよろしいのですか?」


 マイシェル大公の側に寄り添うようにしてたたずむジルに、ヴィンレットは試すように聞いた。

 もちろん聞かれたジルは、訝しげな表情になる。


「どういう意味ですの?」


「そのままですよ。あなたが『このままでいい』とおっしゃるなら、僕はこのまま何も言わず戻りましょう」


「わたくしに――どうしろとおっしゃるのです。前にも申し上げたはずですわ。お金のためとはいえ、公爵様の申し出は受けられません、と」


 きっぱりはっきり言い切った。

 ヴィンレットは可笑しくなさそうに、フン、と鼻であしらった。


「ニールセンと僕なら、ニールセンの方がいいんだろう? じゃあ、ユアン国のバカ王子と僕となら、どっちがいい?」


「分かりませんわ」


「はははは、分かりません、ね。それでいいんですよ、ジル殿」


 ヴィンレットは、今度は満足そうに微笑んでみせた。

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