7「――そんな、泣かないでください陛下……」

 ニールセンがロビンをつれて、お輿に乗って国境の町へたどり着いたときには、既に陽は落ち、あたりは暗くなっていた。

 

 宿場町独特の活気に満ちあふれている。

 人目を忍ぶようにして、二人は上流階級御用達の高級宿屋へと入っていく。

 あくまで皇后ジルもお忍び。人目を憚るようにして物々しい警備は付いていない。

 国境を越えるまでは帝国側の人間だ。警備についているものも宮廷警備隊の隊員である。


 廊下で警護の任についていた青年は、ロビンとニールセンの姿をとらえると、慌てて身を正し、敬礼をした。

 警備隊の青年は驚いていたが、どこかほっとしているようでもあった。

 恐らく、別れの挨拶も交わすことなく半ば無理やり帝国をあとにさせられようとしている皇后ジルの、やり切れぬ思いをくみ取ってのことだろう。

 ニールセンがジルを追ってここに現れたことで、重く沈んだ空気が少しでも浮かび上がるのでは、という期待もあるようだ。


「皇后はどうしておられる?」


「奥の迎賓室でお休みになられております。お食事にも手を付けられておりませんので、ご心配申し上げているのですが……」


「ロビンはここで待っておれ。余が一人で行く」


「は……はい。では、何かありましたらお呼びください」





「余を置いてどこへ参るつもりじゃ? 皇后よ」


 聞き覚えのある声に、少女は振り返った。両目を見開き、言葉を発することなくただひたすら、突然目の前に現れた二度と会うことのないはずの伴侶の姿を見つめていた。


「余のことを嫌いになったか?」


「……」


「すまぬことをした」


「……」


 ニールセンは、椅子に腰掛け口が聞けなくなっているジルの前に進み出た。

 そしてゆっくりと片膝をついて、深く頭を垂れた。


「ヴィンレットに聞いて、その、初めて知ったのじゃ。ただ寄り添うて眠るだけでは駄目なのだと」


 ニールセンは尚もジルに頭を下げたまま。


「余は皇后に退屈な思いをさせてしまったのだな? 初めてそなたに出会ったときも申したが、余は本当に人馴れしておらぬのだ。だから、誰かと共に暮らすときの作法などまったく心得ておらぬ。――余を、許してくれぬか?」


「……陛下。まさかとは思いましたが、やはりそうだったのですか」


 ようやくジルが言葉を発したので、ニールセンは安堵した。

 ニールセンは顔を上げ、どこか物悲しげなジルの顔をしっかりと見つめた。


「余はヴィンレットのようにものごとが達者ではない。退屈させぬとは言っても、余は皇后に何をしてやれるであろうかと、ずっと考えておった」


「……?」


「歌うことも踊ることも政治を語ることも出来ぬが――余がヴィンレットにも負けぬものが一つだけあったのじゃ」


 意気揚々と喋りだすニールセンを見て、ジルは驚いたような表情をしてみせた。どんな話をされるのか全く想像がつかないらしい。

 表情が少し晴れたのを確認して、ニールセンは更に続けた。


「余は幼い時分より体が弱かったゆえ、寝所で過ごすことが多かったのじゃ。そこで余は絵を見ていた。帝国神話の神々の載った画集をな。皇后はいくつ神様を知っておる?」


「帝国神話の神様は全部で31だったと思いますわ」


「もっとおるのじゃその三倍、93もの神々がおるのじゃ。余はその全ての名を言えるし、どんな神かも言えるぞ?」


 皇帝陛下がこんな辺境の宿場町まで来て、帝国神話の話を得意気に説明しだす。

 ニールセンが余りに楽しそうに話すため、ジルもいつの間にか微笑を取り戻していた。


 あと、一押し。

 ニールセンは子供のように無邪気な笑顔を、ジルに向けた。


「皇后が眠りに就くまで、余は神話を語って差し上げようぞ?」


「楽しそうですわね。…………でもそれはもう――叶わぬ夢ですわ」


 それまで楽しそうに話を聞いていたジルの表情が、突然曇りだした。

 現実に自分の置かれている状況を、思い出したのだろう。


「わたくしは、元老院の大臣の方々から、皇后として不適切だと判定が下されましたわ。だから――陛下のお側にいる資格などございませんのよ」


「それは余が何とかいたす」


 ニールセンの言葉に、ジルは首を横に振り、半ば諦め顔で否定した。


「何ともなりませんわ。一度押された烙印は二度と消えることはありませんのよ」


「嫌じゃ。皇后が側におらぬのは嫌じゃ」



 これが今のニールセンの全てだった。

 細工も駆け引きもない、皇帝陛下の心の声である。


 もう、思いは留められない。


「元老院での決定事項は絶対――陛下のお力でも、どうすることも出来ません――そんな、泣かないでください陛下……」


 ジルは心配そうにニールセンを見つめている。

 叫ぶことも暴れることもなく、声を押し殺すようにして、若き皇帝はただひたすら涙を流し続ける。


 ニールセンにも解っているのだ。

 どんなにオツムが弱く政治に無関心であっても、この国における元老院の決定権がどんなに強いものであるのか――。


 だからこそ悲しく、だからこそ悔しい涙。


「余の、皇帝の力をもってしても叶わぬことがあると申すか。余は一体何なのじゃ。余はただ、そなたと共におりたいだけなのじゃ……」


 ニールセンの純粋でまっすぐな想いは、充分ジルに伝わっているはずだった。


 離れなければならないという障害が、逆にお互いの気持ちを確認し深め合い――しかし皮肉にもそれが終止符となる。



「明日ここへ、マイシェル家から迎えの使者が参りますの。陛下、ふた月の間、とても楽しゅうございました」


 目の前の若く美しき皇后は、今までに見せたどんな笑顔よりも、嬉しそうに微笑んでみせている。


「ここまでお見送りに来ていただけて、本当に――嬉しかったですわ」


 そう言って皇后ジルは、ニールセンの首に手を回すようにして抱きつき、涙で濡れるニールセンの頬を拭うようにして、自分の頬を優しく触れ合わせた。

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