9「立場をわきまえなさいませ」
「お相手していただけませんこと?」
ジルは白い仮面の男に右手を差し出した。
男は明らかに動揺し、たじろいでいる。
「そ……それは、出来ぬ。余は――あ、いや私は見物に来た通りすがりの者なのじゃ」
ジルは仮面の男の胸飾りを見て、微笑んでみせた。
「胸飾りが良くお似合いですわ。さあ、私の手を取ってくださいませ、通りすがりさん」
「そ、そのようなことを申されても……」
そこへすばやく入り込んで、ジルの手をとったのは――ヴィンレットだ。
「女性からの誘いを受けないのは、舞踏会において最大の無礼で、恥ずべきことですよ? ――通りすがりさんとやら」
仮面の男が自分の正体を明かせぬことを良いことに、ヴィンレットはからかい始めた。
もちろん仮面の男・ニールセンも必死である。
「見物しに来ただけと言うておろう。まことの舞踏なるものをよう知らぬのだ」
「では、お目にかけましょう。まことの舞踏をね。せっかくおいでになられたのだから、あなたもやってみてはいかがです? 手ごろな練習相手ならいくらでも――ああ、エルガー男爵夫人。この方のお相手を務めていただけませんか?」
ヴィンレットが呼び止めたのは、恰幅のいい中年の貴婦人だ。
ドレスのヒダは伸びきって、さらにはじけそうである。化粧も厚く、ニールセンの苦手な香水の匂いがプンプンしている。
何もかもが、強烈だ。
「あら、よろしいのかしら? ヴィンレット坊ちゃんの頼みならもう喜んで。ほれあんた! 私につかまりなさい」
ニールセンは男爵夫人に胸倉を掴まれると、無理やり腰に手を回すように絡ませられ、胸だか腹だか分からない肉の塊の谷間に顔を押し付けられた。
そのまま引きずられるようにして振り回される。
「ひいいぃぃっ! 余、余は踊れぬと言うておろうぅぅぅ! ヴ、ヴィンレットぉぉぉっ 早く、早く止めさせぬかあああぁぁ……」
正体を隠すどころではない。
ニールセンの叫びも、ヴィンレットには愉快なだけらしい。もちろん助けようとはしない。指を差し、腹を抱えて笑っている。
「わはははは。わはははは。巨漢の男爵夫人の贅肉に、ニールセンのやつ、すっかり埋もれてるぞ、わはははは」
――さすがにこれは……マズいかも。
ロビンがヴィンレットの振舞いを諌めようと、口を開きかけたそのとき――。
「公爵様」
ジルは言った。その視線はしっかりとヴィンレットの顔に注がれている。
「立場をわきまえなさいませ」
一瞬、何が起こったのかロビンには分らなかった。
「あわわ……ジ、ジル様?」
ジルは尚も引き下がろうとしない。
「皇位継承権はあくまで『権利』であるだけなのですよ。皇帝はあのお方、そして私は皇帝の后です。もう一度言いますわ。立場を――わきまえなさいませ」
皇帝はこの帝国を統べる者――。
選ばれし者のみが継承する、唯一無二の玉座――。
「そんなことを言われたら、本気で狙いますよ? 次の帝位をね。僕は別に帝位なんか興味ないですが、あなたが皇后なら――それも悪くない」
ヴィンレットの強引なまでの告白にも、ジルはひるむことはなかった。そこに、ためらいなどは存在しない。
「私は確かに、皇帝の后として、お金と引き換えにこの国に参りましたが――公爵様が皇帝になられても、それが有効であるとは限りませんのよ」
「では、どうすればあなたは僕の方へ振り向いてくださるのですか?」
尚も食い下がるヴィンレットに、ジルは首を傾げ、たった一言。
「分かりませんわ」
ロビンはただひたすら、二人の成り行きを見守っていた。
その間もずっと、ニールセンと男爵夫人の「格闘」は続いていた。
しかし、気付いたときには曲の終わり――結局、途中で助けられることはなかった……。
帰りのお輿の中――。
ロビンたちが乗ってきたお輿とニールセンが乗ってきたお輿、二台あったが、一台は空のまま帰してやった。そもそも一台のお輿は四人乗り。二人ずつ向かい合うようにして腰掛けるように座席がついている。
ロビン少年の隣にニールセン、向かい合うようにしてジルが座っていた。
お輿はゆっくりと動き出す。
ニールセンの顔は青白い。血の気が引いている。男爵夫人の贅肉に挟まれて、窒息しそうになっていたらしい。
普段から死ぬ死ぬと言っているニールセンだって、こんな死因は決して本望ではないだろう……。
ジルはゆっくりと動くお輿の速度に合わせるように、穏やかに話し始めた。
「陛下は……公爵様のことがお気に召されないのですか?」
ニールセンは黙ったままだ。
誰よりも何よりも愛しい皇后ジルを前にして――不機嫌そうに口をへの字に曲げたまま、気だるそうに呼吸を繰り返している。
ロビンは見かねて、肘でニールセンを突っついてやった。
沈黙は続く。お輿の下の車輪の振動が、単調に響いている。
ようやく、ニールセンが重い口を開いた。
「嫌いじゃ。大嫌いじゃ。…………皇后も嫌いじゃ」
「あら、私もですの?」
ジルは驚いたように、大きく瞳を瞬かせた。
「余を置いて行ってしまう皇后など……余は独りで……独り城におって」
そこまで必死にこらえていたものが、ぷつりと切れたらしい。ニールセンの透き通った深い青の両目から、涙があふれた。
「寂しかったのじゃ」
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