8「そなたが、余の皇后とな?」

 女はニールセンの言葉に面食らったようだった。

 宮廷御用人のなりをしている青白い顔の若い男に、盗賊呼ばわりされるなど――いや、それより何より服装に合わぬ言葉遣いに、女は疑問を持ったようだ。


 すでに疑問は確信に変わっているに違いなかった。女は訝しげにニールセンの顔を見つめてくる。


「……あなたはいったい、ここで何をしておられるのです?」


 女の言葉遣いが幾分丁寧になったことに、ニールセンは気付いていなかった。


「皇后の顔を、そばで見たかったのじゃ」


 素直にそう告げた。皇帝は、世渡りや駆け引きなどとは無縁の人間である。

 その純真爛漫な言葉を、ローブの女は黙ったまま聞いていた。


「まさか偽者を送ってくるとは思わなかったゆえ……しかし、余はその気持ち分かるぞ」


「どうしてですの?」


「このような異国の地に一人で参られるは心細きこと。何をされるか分かったものではないではないか。影武者を仕立てたくなるのも当然であろう?」


 そう言って、ニールセンは自虐的なため息をついた。



 へこむ。へこまずにはいられない。

 知らず知らずのうちに、皇后に対する期待があまりに大きく膨らんでしまっていたのだ。

 借金のかたに結婚をする――そんなことをバカ叔父ヴィンレットが言っていた。

 そんな境遇の人間が、ニールセンのことを気に入るかどうかなど、重要なことではないのだ。

 一人勝手に舞い上がっていた自分自身を、ニールセンは恥じた。

 まさか、向こうも影武者などと。それほどまでに。

 はああ。




 何度目かのため息をついたときだ。

 突然ローブの女が、こらえきれないといったように笑い出した。


「では、どうして陛下はここにおられるのです? ここはあなたにとって異国の地でもない、居城なのでしょう? それなのに影武者を?」


 女はまだ笑い続けたままだ。

 ニールセンは訳が分からない。なぜこの女が自分のことを笑っているのか。


「余の命を狙うものは大勢おるのだ。…………お、おぬし、いま『陛下』とな!?」


 気付くのが遅すぎである。

 当のニールセンは自分の素性がばれていたことにあたふたし、目が左右に泳いでいる。

 自分が皇帝だと分かれば、共の者もおらぬこの状況で、暗殺の危険度は最大値だ。

 ひいいと、声にならない悲鳴をひとしきり上げ、ニールセンは四つん這いになって這い逃げようとした。

 あまりに情けない姿だ。

 女はようやく笑うのを止め、顔を覆っていたローブのフードを取った。そして、気品あふれる声を辺りに響かせる。


「まだお分かりになりませんか? ジル・マイシェルと申します、陛下。――初めまして」


 なんともはや。

 ニールセンは初めて、あのいけ好かぬ叔父ヴィンレットの言い分に納得した。

 絶世の美女と誉れ高き――これは納得せざるを得ない。


「おぬし……いや、そなたが!? そなたが、余の皇后とな?」


 ニールセンは女の呼称をとっさに変えた。

 まさかこれほどまで美しいとは、ニールセンは予想していなかった。

 まだ、少女だ。決して幼いわけではなく、しかし成熟した美しさでもない。


 ――皇帝、完全に心を奪われた。あっけなく、陥落。


 もちろん、見目麗しきこともさることながら、その浮世離れした価値観が似ていることが、ニールセンの心を捉えたのだった。

 しかし。

 持ち前のとことん後ろ向きな性格は、決して変わることはない。


「……信じられぬぞよ、そんな戯言は。甘い話に取り付くなと、いつもピンガが言うておる」


 口うるさいジイの渋い顔が、ニールセンの頭の片隅をよぎっていく。

 きっといまごろ、逃げたことがバレて、大騒ぎをしているだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る