6「まだ、足りませんか?」

 その頃、渦中の皇帝陛下・ニールセンは――。


「見えぬ。何も見えぬぞ」


 ロビン少年から無理やり剥ぎ取った宮廷御用人の淡い灰色の服を身につけ、日除けの帽子を二つ重ね、ニールセンは重い足取りで石畳の上を歩いていた。


 宮殿へと続く街道は、もはや人で溢れかえっていた。

 一人で城下に出るなど、初めてのことだった。このような人ごみの中など、経験したことはない。

 ニールセンは袖で口元を押さえ裏通りへ抜ける小路へいったん退避した。


「なんと淀んだこの空気……目眩がするわ」


 ぜいぜいと、呼吸するのもままならない。

 奇妙なにおいがする。

 道端にずらり軒を並べる屋台やら露天商やらが、その場で作る食べ物のにおいだ。


 一人の子供が、屋台に走りよっていく。

 ニールセンはじっとその様子を物珍しげに眺めていた。


 薄くのばした生地を鉄板で焼き、それを紙に載せ、果物を包み込んで、出来上がり。

 銅貨一枚と交換。

 子供は紙を上手く剥ぎ取り、器用にその食べ物にかぶりついた。そしてそのまま歩き去っていく。


「歩きながらものを食べるなど……信じられぬわ。しかも毒見もせずにいきなりガブリとな? どうなっておるのだ」


 ニールセンはもう我慢ができなかった。

 気がつくと、ふらふらと引き寄せられるようにして屋台の前に立っていた。


「いらっしゃい。おや、お役人様。いかがなさいましょう?」


 店主はニールセンの身なりを見て、宮廷御用人であるとすぐに分かったらしい。まさか皇帝陛下であるとは、もちろん気付いていない。


「今しがたの子供と同じものをくれぬか」


 そう告げると、店主はあっという間に生地を焼き上げ、果物を挟み込み、簡単に紙に包んでくれる。


「1キュールになります」


「今は持っておらぬ」


 店主はニールセンの言葉に驚いた。


「それではこれはお売りできねえです。申し訳ありやせんなあ」


 いくら役人であっても、特別扱いすることは出来ない。この帝国は厳正なる法治国家だ。物と貨幣が引き換えされなければならないのは法律で定められている。

 しかし、皇帝のニールセンには、そのような一般常識は通用しない。


「そんな……どうしても食べてみたいのじゃ。お金とやらが必要であれば後で持ってこさせるゆえ」


「困りますなあ。あんまりしつこくされると衛兵に通報しますぜ」


 店主は半ば困り顔。面倒は起こしたくないのだろう。衛兵という言葉を出して、ニールセンが引き下がるのを期待しているようだ。


 皇帝、理解不能――。


「そんな。どうしてなのじゃ? そこにものがあるというのに。ないものをねだっている訳ではないのだぞ?」


 それはまるで幼い子供の疑問のように。しかし、店主からの答えは、ない。




 そのとき、突然。

 ニールセンの目の前に金貨が降ってきた。カウンターの上を緩やかに転がり、やがて止まった。


「まだ、足りませんか?」


 女の声だった。

 頭からすっぽりとローブに身を包んでいる。顔は半分以上隠れていたが、立ち居振る舞いは、随分と若さを感じさせた。

 店主はおどおどしながら答えた。


「い、いや……金貨一枚で、一万個は買えますぜ。あいにく釣りが……せめて銀貨でしたら」


「釣りなどいりません。ではこれにて」


 颯爽と現れ、悠然と去っていくローブの女性を、ニールセンはただ呆然と見送っていた。

 手には果物の巻き菓子を握り締めたまま――。



 表通りから流れてくる歓声が次第に大きくなる。

 もうすぐ、皇后の乗ったお輿の行列が、ニールセンの側を通過しようとしていた。

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