第6話 スフレパンケーキを食べる

2020年の初めは怒濤のような慌ただしさだった。突如として現れた疫病が世界中に蔓延し、パニックからデマが起こりいくつかの生活必需品がスーパーから消え失せた。街の空気もピリピリしていて、咳払い1つするだけで周囲から睨まれる有様だった。

この頃、我が家の中においても陰鬱な空気が満ち満ちていた。私はライター業に支障をきたしそうなことと生活必需品のストックが切れそうなことへの不安で、同居人の秋沢圭佑は通勤路のピリピリした空気と感染への不安で、お互いに何か言うことこそ無いもののストレスを溜めていたのだ。




ある週末、目覚めると私は秋沢の手によって布団から引っ張り出されていた。敷布団との衣擦れによって脱げかけたパンツを履き直しながら「何だコノヤロー」と凄むと、秋沢から「はよ着替えろコノヤロー」と凄み返されてしまった。チビで童顔のクセに怖かった。


「駅ビルにパンケーキ食べに行こうよ。多分今の時期なら空いてるよ」


言いながら秋沢が突きつけてきたスマホに映るのは、駅ビルの中にあるパンケーキ専門店のホームページ。この店はダッチベイビーをメインとしてハワイアン、スフレなど数種類のパンケーキを扱っていて、前を通る度に満席状態かつ外で何人かが待っているのを見かけたのでずっと訪れるのを躊躇っていた。そんな店が今、空いているかもしれないという。

私は急いで立ち上がり、光の速さで身支度を済ませた。そして誘った張本人である秋沢を引きずらんばかりの勢いで市街へと向かった。




市街中心部に建つ駅ビルの1階にあるパンケーキ専門店に突撃すると、マスク姿の若い女性従業員が席へと通してくれた。店には私達の他にも友達連れの女性客が数組いたが、疫病対策かそれぞれの間にはいくつもの空席があった。

ああ、やっぱり世界は疫病によるパニックのもとにあるんだねえ。悲しいような切ないような、そんな気分に浸りつつ席につき、何を食べようかとメニューを開くなり秋沢が「僕これ食べたいんだけど良い?」とスフレパンケーキを指した。

いいじゃないか。なら2人でこれをシェアしよう。私はプレーンのスフレパンケーキと2人分のカフェラテを注文した。




注文してから十数分、私と秋沢は先に運ばれてきたカフェラテを飲みながらポツリポツリとお互いの不安について吐露した。仕事を失うかもしれないとか電車通勤だから感染が怖いとか、人のいる場所は空気がギスギスしているようでつらいとか、お互い心に溜めていた不安を少しずつ吐き出していくにつれ、相手の不安が自分にものしかかってくるようで気が重くなった。

そこへスフレパンケーキが運ばれてきた。クリーム色のぽってりしたボディに茶色の丸い焼き目がついた可愛らしいパンケーキが大皿の上に3つ。その上に粉糖と気持ち程度の生クリームが乗せられている。隣にはメープルシロップ。


「よしよしよしよし」


「きたきたきたきた」


さっきまでの不安はどこへ行ったのか、私達は目の前の可愛らしいパンケーキに目を輝かせ、写真を撮ったり「可愛い」「綺麗」と褒め称えたりした。

そうして気が済むまで褒めまくった後、お互い大皿からパンケーキを1つずつすくい取り、メープルシロップをかけてフォークとナイフで1口分を切り取ってみた。プルプルしているので「生焼けだったらどうしよう」と一瞬だけ不安になったが、ナイフで切ってみても液体らしきものは漏れず、こんなプルプルでも中まで火が通っているものなのかとその技術に感心した。

続けて1口大に切ったものを口の中に入れてみて、直後に2人揃って「美味しいー!」と声を上げた。パンケーキが噛む間もなくシュワシュワと溶け出して、口の中に優しい甘味が残される。これは魔の食べ物だ。

中毒的な美味さに喜びつつふと正面を向くと、秋沢がこの上なく幸せそうな笑顔でスフレパンケーキを楽しんでいた。久し振りに見る姿だったので思わず声を上げて笑ってしまった。秋沢は怒るかと思ったが、意外にも「大丈夫?」と心配してきた。


「初郎君、泣いてんじゃん」


笑っているつもりだったが、どうやら泣いているらしかった。私は頬を軽く撫で、その手がうっすらと湿っているのを確認してから「こっそり欠伸したんだよ」と笑った。

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