飛びたいキウイ
大河井あき
飛びたいキウイ
僕はキウイと呼ばれている。
色は地味で、足が短く、何より、飛ぶための翼が無い。
それが鳥でいえばキウイで、人間でいえば僕なのだ。
その僕が今、翼を手に入れようとしている。
キウイがどう思っているかは知らないけれど、少なくとも僕は、空を飛びたい。
七月が終わり、高校最後の夏休みに突入した。
いっそのこと太陽も休んでくれないかなと思えてならない暑さの中で、立ち入り禁止のはげ山の頂上までわざわざ自転車で来て、人力飛行機「ラスト号」を作っているのは阿呆としかいいようがない。
だから、ただ見るだけとはいえ、そんな阿呆に付き合おうとする
「まあ、家から近いし」
「でも、熱中症になると危ないし、日差しが強いから肌にも良くない。家でクーラー付けてごろごろしていたほうがいいよ」
これは本心だった。青い筋が薄っすらと見える白い肌が焼けてしまうのは忍びなかったし、彼女が倒れたらと思うだけでもぞっとする。自転車で下るにしても、この野球も申し分なくできそうな広さの平坦な作業場所かつ発射地点から麓まで五分はかかってしまう。
「こっちのほうが面白いじゃん。毎年どころか、一生に何回見られるか分からないし」
本当に人力飛行機に興味があるのだろうか。あったとして、一体どんな面白さを見出しているというのだろうか。
加藤さんの思考はまったく読めない。いや、あの日話しかけられた時からずっと、彼女の考えていることは分からない。
加藤さんが越してきたのは高三になった今年の春。受験を控える中で環境が変わってしまうのを防ぐためにクラス替えは行われないから、目新しい変化は無いだろうと思っていた。
クラス名簿には、僕の一つ前に知らない名前があった。
出席番号十二番、加藤瑞希。
学年最初の席順は出席番号に則るため、彼女は僕の前の席になった。
単純接触効果というのを聞いたことがある。相手と接しているうちに好感度が高まり、親近感や愛情を抱くことがあるのだという。見るだけでも十分に効果があるようで、僕の理想のタイプは一週間も経たないうちに黒い髪のさらさらのロングから栗色で癖のあるセミロングに上書きされた。前から回されたプリントを受け取ったり、ちょっとした挨拶を交わしたりするうちに、目はくりっとした円形から目尻がつり上がった爪の形に変わり、主張しすぎない程度にふっくらとした唇は口角が少し上向きになった。一ヵ月も経たないうちに、理想像は紛うことなく加藤さんの形を取り、加藤さんの話し方で、加藤さんの仕草をするようになった。その効果に「単純」なんて言葉を入れた人に見透かされているようで、気恥ずかしい限りだ。
六月末。朝、ホームルーム前の小休止。月の初めに席替えがあって、僕は窓際の一番後ろ、加藤さんは僕の前の席になっていた。
鞄から筆記用具や教科書を机にしまっていると、一人身じろぎもせずに座っていた彼女が唐突に振り向いてきた。
「ねえ、何でキウイってあだ名なの?」
心臓がドクンと跳ねた。彼女に話しかけられて気分が少し舞い上がったというのもあるけれど、あまり触れてほしくなかった話題だったからだ。でも、口ぶりから悪意が無いのは分かったし、嘘はつきたくない。だからと言って、黙っているのは印象が悪いだろう。
「……苗字が「紀伊」だから。あと、地味だし、足短いし、飛べない飛行機を作っているっていうのも」
「飛べない飛行機ねえ。模型?」
「人力だよ」
「じゃあ、飛べるじゃん」
「それなら飛べない飛行機なんて言わないし言われないよ」
「ふーん。いつ作ってるの?」
「ほとんど毎日。今日も暗くなるまでは作業かな」
「そっか」
耳の後ろ側の髪を指でくるくるといじりながら、加藤さんは窓の外に目を向けた。話しかけるべきか待つべきか悩んだけど、「あの」と言いかけたところでちょうどチャイムが鳴ってしまった。
受験生としての自覚が芽生えていないのは飛行機製作に現を抜かしている時点で疑いようもないのだけれど、午前の授業は加藤さんが気になってろくに集中できなかった。
気まぐれで、マイペースで、猫みたいな奴。それが加藤さんに対する僕の、ひいては周囲の評価だった。だから、僕に話しかけたのも、昼休みになっておもむろに鞄を探り、ラップに包まれたおにぎりを僕の机にポンと置いたのもふとした思い付きだったに違いない。
「これは今日の見学料。私、塩おにぎりが好きだから、具が無いのは勘弁して」
午後の授業は、なおさら集中できなかった。
あの日からもう一ヵ月が経つけれど、加藤さんだって受験生のはずなのに、ほとんど毎日付き合ってくれている。それどころか、休みの日は昼食用に具無しのおにぎりを作ってきてくれる。
「受験は大丈夫なの?」
「私、指定校推薦だから。他に第一志望校に挙げている人はいないらしいし」
「そうなんだ」
「紀伊くんも目指してみる? 女子大だけど」
「それなら目指さない」
「もしかして、第一志望校、まだ決まっていないとか」
「……何で分かったの?」
「「それなら目指さない」ってまだ目指す先が決まっていない人のセリフじゃん。決まっていたら「どっちにしても今更変更しない」みたいに答えるはずだし」
加藤さんはアイスから出てきた木の棒の先端を見て、食べるのを再開した。当たったかどうかは表情からは読み取れない。
「工学部で自分にあったところ選べばいいんじゃないの。飛行機好きなんでしょ?」
「どうなんだろう。ラスト号には愛着があるけれど、飛行機が好きだから作り始めたわけじゃないし」
「ふーん」
この一ヵ月で分かったことの一つ。どうやら彼女が黙り込んで後ろ髪をいじるのは、返事を待っているときとか、続きを聞かせてほしいときとか、そういう待機中の癖らしい。
たいした話ではないんだけど、と前置きして、もうずいぶんと昔のように感じる三年前のことを思い返した。
「中学では野球部に所属していたんだ。友人に誘われてさ。きつかったけど、真面目に取り組んだ。でも、合ってなかったんだろうね。実力は全くつかなくて、レギュラーどころかベンチにも入れなくて、試合中にやることは応援か雑用。一回だけ引退間近に他校との練習試合に出させてもらえたことはあったけど、それですら八回裏の守備だけだったし、ボールは来なかった。
中学生活すべて注ぐくらいの気持ちで頑張ったのに大して活躍できなかったっていうのが心残りでさ。野球は十分頑張ってダメだったから、高校では別の何か大きなことをやり遂げてやろうって。そのときにたまたまテレビで見たのが人力飛行機の特集だった。長い距離じゃなくてもいい。ちょっと浮くくらいでもいい。飛行機を作って飛んでみたいって思ったんだよ」
「ふーん。何かいいね。そういうの」
加藤さんはいつの間にか食べ終えていたアイスの棒を口から外して、たばこを吹くようにため息をついた。
「それにしても、ずいぶんと冷たいね、みんな。「キウイ」だなんて」
「いや、実は、最初はみんなも興味持ってくれたし、それどころか製作の手伝いもしてくれたんだ。僕一人じゃ絶対に機体の骨組みすらまともに作れなかった」
「じゃあ、どうして今は誰も来ないの。受験シーズンだから?」
「今は、まあ、そうだろうね」
掘り返すと爪が痛くなる思い出は、言葉にするのに時間がかかる。その間、加藤さんは黙って癖毛をいじっていた。夕日が沈むくらいまでなら待ってあげると微笑まれたように思えた。おかげで、深呼吸を一つする余裕も生まれた。
「入学して初めてできた友人が
「うん。向かいのマンションに住んでる」
「寛太に人力飛行機を作りたいって相談したらクラスの男子を誘ってくれてさ、しかもほとんど全員が協力してくれたんだ。ロマンがあるって、それだけの理由で。
そうして、次の年の、確かお盆の前くらいだったかな。初めて機体が完成したんだ。圧巻だったよ。横幅がプールくらいあるわけだし。どこへでも行けそうな気がした。でも――」
「飛べなかったのね」
「まあ、そういうことなんだ。
せめて派手にすっころんで、機体もボロボロになっていたら、同情してくれる人はいたかもしれないし僕も諦めがついていたと思う。だけど、結果でいえば、飛行機は飛ぶどころか浮きもしなかったし、かといって壊れることもなかった。ただ坂道を下って、ブレーキをかけて、おしまい。何回やり直しても、何にも起きなかった。みんなが拍子抜けしたのは無理も無いし、冷めたのも当然だと思っている。だけど、僕だけが不完全燃焼のままだった。僕一人でできることなんてたかが知れているけど、それでもこの山に足繁く通うようになった。みんなが部活や塾に励む中、放課後も休日も削って、何なら休み時間も設計図と向き合ってばかりで、そうしたら、いつの間にか孤立していた」
「それでキウイって呼ばれるようになったの?」
「ああ。いつだったか忘れたけど、寛太に「地味で、足が短くて、飛べないなんて、お前は紀伊じゃなくてキウイだ」って言われたんだ。まあ、当時は結構ショックだったけど、今なら軽い冗談っていうのが半分、発散する先がないままくすぶっていた失望感からの衝動が半分だったんじゃないかなって思えるよ。寛太だって、まさかあだ名として定着するほど広まるとは思っていなかっただろうし。
とにかく、そういうわけで、今は一人なんだ」
「私がいるじゃん」
「そうだった。今は二人だ」
涼風が吹いていた。火照った肌に当たるのが気持ちよくて、風の吹く方向に顔を向けた。
「完成、するかな」
「させてよ。アイスおごってあげるから」
多分、アイスの棒は当たりだったのだろう。声色から、わずかに目を細めてちょこっと口角を上げた表情をしているのが想像できた。
作業は順調に進むはずだった。
八月二十五日、午前九時。
パーツの素材を変えてみたり余分な部品を取ったりしていく中で、ようやく完成形が見えてきたところだった。夏休み終了まで残り一週間も無い今、ラストスパートをかけて組み立てていく予定だった。本来であれば、とうに山までのサイクリングを終えて飛行機の製作に取り掛かっている時間だった。
なのに。
何かの間違いであってほしくて体温をもう一度計ってみたが、無情にも三十八度きっかりを示した。体温計をしまってベッドに寝転がると、替え立ての氷枕の冷たさが後頭部から首筋にかけてじわりと浸透した。
夏風邪なのか疲れのせいなのかは分からないけど、一日の遅れでも致命的だった。出来ることはイメージトレーニングくらいなのに、それすらもズキズキとする頭痛に邪魔される。
窓に目を向けると、航空機が青空につけた白いひっかき傷があった。僕は高校生活に爪痕を一つでも残すことができたのだろうか。そう自問してしまうほどに鮮やかな軌跡だった。
そもそも、完成するだろうか。
完成したとして、前と同じようなつまらない結果になってしまうんじゃないか。
空を飛ぶなんて、夢のまた夢じゃないのか。
病は気からというけれど、気は病からでもあるらしい。弱気な考えがぐるぐるとして、何も考えたくなくなって、目を閉じた。
結局、熱は五日間続いた。平熱に戻った八月三十日も、朝から昼までは頭痛のせいで布団の中でうずくまっていた。そして夕方になってようやく、自転車に乗った。ペダルを漕ぐ勢いも重たく、山へ向かった。
麓に着いた時には、もう日が暮れようとしていた。
熱だ。僕はまだ熱を出している。壊れた体温計にうっかり騙されたに違いない。あるいは日射病か。治ったばかりの体に容赦ない日光は耐え難かったのかもしれない。
いつもの作業場所。そこには、本来今日まで進めるはずだった作業がすべて終わっているラスト号がいた。
いや、それだけじゃない。
あの日の夏から、中途半端な失敗をしたあのときから、比喩的だけではない夢で何度も何度も繰り返し見た光景。
矢部、権藤、井頭、茂木、和田、牧田、……、そして、寛太。
みんながそこにいた。いや、それどころか、加藤さんまでいる。夢にしたって贅沢極まりない。
頬をつねると確かに痛かった。それでも信じられなくて、うるんできた目をごまかしたくて、自転車のホルダーからペットボトルを取って水を頭から全部かぶった。火照った顔がひんやりと気持ちよくて、服の中に入り込む水が気持ち悪かった。
夢じゃ、ない。
「どうして?」
もう少し気の利いた言葉が言えたらよかったけど、精いっぱいだった。
主翼をしげしげと見つめていた寛太が振り返った。彼は一瞬驚いた表情をして、目を逸らした。
「サッカー部は夏で引退だからな」
寛太はばつが悪そうに頭を掻いた。その横に加藤さんがひょこっと出てきた。
「私が誘ったときぐずってたんだよ。今更合わせる顔が無いとか、あいつが嫌がるかもしれねえとか言って」
「おい、加藤。それ以上は言うんじゃねえ」
「でもね、紀伊くんが来なくて夏休みまでに完成しないかもってこと話したらすぐにOKしてくれてね」
「言うんじゃねえって」
「それどころか全員集めてくれたんだから」
「言うなってば」
そうだ。寛太は言葉が不器用なだけで根は優しいんだ。「キウイ」が広まってしまったことに対して、僕の知らないところで罪悪感にさいなまれてきたのかもしれない。
「その、悪かった。紀伊。いろいろと」
「いいよ。むしろ手伝ってもらっているのはこっちなんだから。ありがとう」
言葉はすんなり出た。
心の突っかかりが一つ、すっと取れた。
夜は主に調整を行った。両親には何も言わず家を出てしまったけど、寛太たちがうまく口裏合わせをしてくれて、みんなで茂木の家にて泊まりがけの勉強会をすることになったという連絡を入れてくれたらしい。受験生の茂木以外は家族全員帰省中で戻ってくるのが明日の昼以降である上に、彼が勤勉で成績優秀なのは知られているから信憑性は高いだろうと、牧田がありがたい悪知恵をはたらかせてくれた。
作業は和田が持ってきてくれたキャンプ用のランタンのおかげで難なく進んでいた。この調子なら明日の夜明けには完成しそうだ。
「紀伊」
ボルトの締まりを確認していると、寛太にスパナを奪い取られた。
「お前はそろそろ寝ろ」
「え、でもまだ作業が残ってるし」
「病み上がりがナマ言ってんじゃねえ。残りはもう俺たちだけで十分だ。お前パイロットだろうが」
確かに寛太の言うとおりだった。僕は明日、万全な状態でないといけない。疲れがあったらいけないし、寝不足なんてもってのほかだ。むんむんとする熱気にもっと浸りたかったけど、寛太に「ありがとう」とだけ返して、権藤と井頭を中心に運んできてくれていたタオルケットの一つを取って、離れた場所で寝転がった。
明日ですべてが終わる。高校生活で大きなことを成し遂げたかったから始めた挑戦が。たとえどんな結果になっても、それこそ今回もまた滑るだけだったとしても、本当に。
本当に?
満ちそうで満ちていない月に、心の内を見透かされているような気がした。
日が出たばかりで幾分かほの暗い朝に目が覚めた。雲一つない天候に、まずは一安心だ。
斜面では、いろんな寝息やいびきがタオルケットを放り出して横になっている。加藤さんの姿は無かった。もう起きたのだろう。
頂上に着くと、翼を広げたラスト号が朝日を見つめて待っていた。完成しているように見えたけど、点検してみるとボルトが一つだけあからさまに締められていなかった。
「それね、「完成はリーダー様がさせないとダメだろ」ってことらしいよ。熊谷くんもなかなかに粋だよね」
いつの間にか隣に来ていた加藤さんはあくびを交えて言った。一回家に帰ったのだろう。服装は赤リボンの麦わら帽子に白いワンピースと、だいぶ涼しそうなものに変わっている。
彼女は肩に下げたバスケットから、ラップに包まれた例のものを取り出した。これも、今日で最後だ。正直、すごく惜しい。
米粒一つ余さずに味わおうと決めた朝食は、甘いような酸いような、苦いようなしょっぱいような、そんな味がした。
みんなが起きてから朝食を済ませるまでストレッチをしながら待って、最終点検をしたあと、例のボルトをしっかり締めて完成を告げた。わあっと拍手が起こった。朝特有のじっとりと生ぬるい空気が、からっと乾いた熱気に変わろうとしていた。初めて機体を完成させたあの夏が、ちょっと大人になって帰ってきたみたいだった。
「じゃあ、乗るよ」
念のため、タイヤが心強い膨らみを持っているのを確かめて、サドルに座る。出発を待つ翼を一瞥してハンドルを握った。両翼には権藤と井頭が、尾翼には寛太が滑り出しの補助として入っている。風の強さも向きも、僕らを味方してくれていた。
足に込めた力に呼応して、機体がゆっくりと動き出した。ごったまぜの声援が背中を押してくれている。ペダルを漕ぐ上で不利になる短い脚を、それでも、毎回この山まで自転車を進めてきた短い脚を、僕は懸命に回した。
平地から緩やかな斜面へ。傾斜は徐々に大きくなっていく。みんなの声が遠のいていく。漕いで、漕いで、さらに漕いで、僕が漕いでいるのか漕がされているのか分からなくなるくらい高速でペダルが円を描いていく。緊張と興奮も相まって肺が苦しい。汗が滝のように溢れている。
スピードが、ついに僕が感じたことのない域に達したときだった。
ガツン、と前輪から拳大くらいの石に当たったような衝撃が来た。心臓や腹の下部がキュッと縮こまり呼吸が止まった。情けない呻き声が漏れた。手がハンドルに溶接しそうなほど握る力が強くなった。
それでも目は閉じなかった。閉じられるわけなかった。閉じてしまえるはずがなかった。
前輪が、浮いていた。
「浮いた、浮いた!」
言葉に出して湧いた実感が背中をどくどくと沸騰させた。背後からワァッと歓声が聞こえた。前輪だけ、だけど本当に浮いている。服がぐっしょりと重い。空気抵抗が熱くて重くて痛い。脚の筋肉がぷつぷつと破裂している。それでも、本当に浮いている。
あとは、後輪だけ、後輪だけ、後輪だけ……!
瞬間。
バキッと、後方で何かが折れた音を耳が捉えた。
心臓が飛び跳ねた。時間が一瞬だけ止まった。振り向く間もない。重心が大きくずれる予兆を体で感じ取った。前輪が浮いて後ろに傾きすぎたせいで尾翼が地面にぶつかったのだと分かった。
バランスがハンドルのコントロールを振り切って崩れる。視界が九十度近く曲がって、左腕に大きな衝撃が響いた。乗り手を失ったラスト号は斜面を横滑りしながら、部品が次々とガラクタになる金属音を撒き散らして離れていった。ド派手な騒音が収まると、ついに車輪の空回り以外には何も聞こえなくなってしまった。
呼吸が荒い。体中が熱い。左腕がしびれてくすぐったい。アドレナリンが切れたあとの苦痛を想像するだけで背中がつりそうになる。もとより覚悟はしていたけど、こうなると、先生や両親にこっぴどく怒られるのは間違いない。
せめて楽な姿勢を取ろうと大の字になると、右手を伸ばすことも憚られるほど遠くに透き通った空があった。斜面の上から駆け降りてくる音がしたので顔をだらりと真横に倒した。足音は僕の顔の前で止まった。蝶結びが丁寧な茶色の紐靴がこっちを向いていた。
「大丈夫?」
彼女の声は震えていた。
「ちょっと左腕を打っただけだよ」
僕の声も震えていた。
「結局、ダメだった。ごめん。最後まで付き合ってもらったのに」
「最後?」
「そう。これで終わり」
ザッと音がして、紐靴の隣に汚れが目立つスニーカーが現れた。
「諦めんのかよ」
僕がきょとんとしていたせいか、寛太は語気を荒げた。
「キウイのままでいいのかよ」
見上げると、寛太は痛みをこらえるような渋い顔をしていた。彼に「キウイ」とまた言わせてしまったのが申し訳ない。だけど、前と違って前輪は浮いたし、同情には事足りるほどに大破した。十分な結果といえるだろう。諦めるも何も、これ以上求めることなんてあるのだろうか。
「何で、最後なの?」
加藤さんが言った。
「何でって、えっと、そもそも僕は高校で大きなことをやりたかったから――」
頭上で包装をはがす音がしたと思うと急に僕の口へ何かが突っ込まれて言葉が途切れた。塩の味がピリッと沁みた。にわかに空腹をどうにかしたくなり、彼女の手から離れた三角の底面を右の手のひらで押さえて、全部口の中へ押し込んだ。
「「ラスト」って、「続く」って意味もあるのよ」
おにぎりを口いっぱいに入れてしまったせいで、噛んでもちょっとずつしか飲み込めない。彼女が言ったことも同じくらいうまく飲み込めなかった。
彼女はしゃがんで僕の顔を覗き込んだ。真上にある両目がまっすぐに僕を見ている。心の中にまで到達しそうな熱を持っている。
「私は見ていただけだけどさ、いつも思い浮かべていたのは飛行機が飛んでいる姿だったよ。キウイは違うの?」
咀嚼が止まった。まるで時までもが止まってしまったように、首を縦にも横にも動かせなかった。
「また気が向いたら挑戦すればいいじゃん。大学行ってからでも、大人になってからでも。今度は鮭おにぎりくらいなら作ってきてあげるから」
そう言うと、彼女は両ひざに鼻を埋(うず)めて、帽子のつばを目元まで下げて、後ろ髪をクルクルといじくった。
僕は気づいた。何も成し遂げたことが無かったんじゃない。成し遂げる前に諦めてきたんだ。ダメだったのならしょうがない。それなりに出来ればいい。そうやって妥協してきたんだ。
前輪が浮いたら成功か? 大破したから満足か? 本当に成し遂げたいと思っていたことは? 成し遂げたいと今まさに思っていることは?
頬を膨らましていた米の固まりを、ゆっくり噛んで飲み下す。頭の中が水面のようにクリアになり、真っ青になった。
一面の青。仰向けの目が捉える眩しい憧れの色。――空の色。
「加藤さん」
髪をいじっていた人差し指が止まった。やおらに帽子を上げた彼女の目を見て、言った。
「具は、梅がいいな」
僕はキウイと呼ばれている。
紀伊という苗字から取ったのも確かだけど、爽やかで程よい酸っぱさがあって瑞々しいあの果実とは――たとえ、外皮がその鳥に似ているとしても――似つかないキウイが由来。
色は地味で、足が短く、何より、飛ぶための翼が無い。
それが鳥でいえばキウイで、人間でいえば僕なのだ。
その僕が今、翼を手に入れようとしている。
キウイがどう思っているかは知らないけれど、少なくとも僕は、僕は。
――空を飛びたい。
飛びたいキウイ 大河井あき @Sabikabuto
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