第4話
「なんだ……ここ」
真っ白な世界が、どこまでも広がっている。何も見えないし、何も感じない。自分の手を握りしめてみても、その感触すら伝わっては来ない。だけどそれでも、俺の意識は確かにそこにあった。
『ここは、君の心の中の世界だよ』
そうでなければ、こうして聞こえる女性の声を理解して、そして返事をすることなんて出来るはずがないのだから。
「心の中……? 何言ってんだ。そもそもお前は誰だよ」
『私? 私は……うーん、どうしよっかな。あ、やっぱり分からないなら教えてあげない』
「……は? ふざけてんじゃ……いや、まあいいや。それよりさっさと俺を帰してくれ。俺はやらなきゃいけねぇことがあるんだよ」
ウリアを助けなければならない。些細なことで笑ったり泣いたりする、普通の女の子。それなのに、誰かのためになら自分の命すら投げ出せる強い女の子。俺は何をしてでも、彼女のことを助けなくちゃならない。
散々命を救われたんだ、今度は俺が彼女を救わなくちゃいけない。いや、救いたいんだ。俺が、彼女のことを。
『やらなくちゃいけないこと……。その結果、自分が死ぬことになっても?』
「……当たり前だ。俺の命だ、俺がどう使おうと関係ねぇだろ」
何故だろう。聞こえてくる声に、無性に腹が立つ。聞き覚えがあるはずなのに思い出せないせいか、それとも水を指すようなことを言ってくるせいか。ただそんな姿の見えない声なんかに何を言われても、俺の心が変わることはない。
『……そっか、決意は硬いんだね。そんなに彼女のことが大切なんだ?』
「大切……か。そう……だな。ああ、そうだよ」
カチリと、自分の中で何かがハマるような気がした。そうだ、それだけだ。理由なんてそれだけで十分だったんだ。俺にとって彼女が大切だから、どうしようもなく大切になってしまったから。だから助けたいと、それだけの理由だったのだ。
「いつの間にか……俺にとってあいつは、何よりも大切なものになっちまったんだ」
『それってもしかして、惚気話の類?』
「ちげぇよ、俺とあいつはそんなんじゃねぇ。俺はただ……あいつには笑っていて欲しいんだ。俺が、あいつには生きて……幸せでいて欲しいだけなんだよ」
彼女は、誰よりも幸せになるべきだ。誰よりも優しい彼女が報われないなんて、そんなの俺は認められない。分かってる、これが子供のわがままだって。だけどそれでも、俺は──。
『ふふっ、やっぱり惚気話だ。だけど……そういうのは嫌いじゃないよ。あの子の気持ちを無視しているのはいただけないけど、まあそれも若さ故ってところかな』
「何言ってんだお前。あの子の、気持ち……?」
『もしかして、まだ分からないの? はぁ……誰かさんに似て鈍感なんだから』
どこか超然とした雰囲気だった声が、急に呆れの色で満ちる。その雰囲気の急な変わり様に、俺はもしもあったら眉をひそめながら口を開いた。
「鈍感って、なんのことだ。そもそも誰かって──」
『君の願いはさ、君が生きていないと駄目なんだよ。あの子の気持ちを私が代弁するわけにはいかないから、これ以上は言わないけど。……でもまあ、素直に言えたご褒美に君と……それからあの子の願いを叶えてあげる』
「叶えてあげるって、どうやって」
『あの子と君の契約はまだ残ってる。感じるでしょ? あの子との繋がりを。その繋がりがあれば大丈夫。ふふっ、でもあの子がこんなに強い契約をするなんて思わなかったな。それだけ、あの子も君のことが大切だったんだろうけど。……ちょっとだけ妬けちゃうかも』
白い光が、暗闇に満ちていた世界を照らす。まるで俺を包み込むような温かな光。それはあの真紅の光の中で、俺を守ってくれた光と同じだった。
「もしかして、この光……」
『ふふっ、ようやく気が付いてくれた? でも、これが最後だよ。これが本当に最後の手助けだから。もうこれから、自分一人の力であの子を守らなくちゃならない。……辛い道になるよ。あなたは、人とは違う時間を生きることになる』
打って変わったような真剣な声。その声に、俺は一瞬の躊躇いもなく頷く。
「分かってる、構わねぇ」
『後戻りは、もう出来ないよ?』
「最初からそんなもん、するつもりはねぇよ」
『そっか……よかった、そう言ってくれて。……本当に大きくなったね、イドリス』
そっと、俺の頭に何かが触れる。まるで優しく頭を撫でるような、優しい手の平の感触。よく頑張ったと褒めてくれるように、そしてどこか嬉しそうにその手は俺の頭を何度も撫でてくれた。
懐かしい感触。その瞬間に、全てが分かった。その声の正体と、そして今まで俺を守ってくれていた光の正体に。
『あの子をよろしくね。そそっかしくて危なっかしくて、だけど誰よりも純粋で優しい子だから』
「もう、十分知ってるよ」
『そっか。ふふっ、そりゃそうだよね。それじゃ……さようなら』
「ああ、さようなら。それから……ありがとう。母さん」
『うん、どういたしまして。でも気にしないでいいからね。子供のワガママを叶えるためなら、奇跡だって起こせるのが親ってものなんだからさ』
その声と共に、俺の真っ暗だった世界は一気に光に満ちていって。そして最後にほんの一瞬だけ、懐かしい姿を見た。幸せそうに微笑む、あの日と変わらない母親の姿を。
「……イド、リス?」
聞き慣れた、愛おしい声で我に返る。気絶していたわけではない。ただ、白昼夢を見ていただけ。その証拠に、俺の腕はウリアをしっかりと抱いたままで。そして目の前には、吸い込まれそうなほどに透き通った空色の瞳が、真っ直ぐに俺の方を見ていた。
その大きな瞳が愛おしい。その唇が、その頬が愛おしい。そして俺の名前を呼ぶ、その声がたまらなく愛おしい。その何もかもが愛おしくて、だからだろうか。
「ああ。……おかえり、ウリア」
あれだけ何を言うべきか悩んでいた口は、ただそんな一言を口にしていた。そんな俺の一言に、彼女は一瞬驚いたように目を見開いて、それから宝石みたいな涙を目尻に滲ませながらも、幸せそうに目を細めて笑ってくれる。
「うん。ただいま、イドリス」
その温かい笑顔を見たかった。その透き通るような声を聞きたかった。彼女の笑顔に触れて、そして彼女に笑いかけたかった。そんな些細なことが出来るのが、今の俺にとっては何よりも幸せなんだと分かったから。
「体、変なところはないか? ……って、変なところだらけみたいなもんだけど」
「え、そう……かな? あっ、もしかして髪……」
「ああ、全部真っ黒になってる。あと、翼もなくなってるな」
「うそぉ……。翼はともかく、どうして髪も全部真っ黒なんて……」
こんなことで涙目になるウリアに、俺は思わず苦笑する。相変わらず緊張感も雰囲気もなにもない。だから、そんないつもの彼女を見て気が緩んでしまったのだろう。俺は気が付けば緩んだ頬もそのままに、
「別にいいだろ。……俺は、黒いのも似合ってると思うぜ」
そんな、考えていたことをそのまま口にしてしまっていた。しまったと思ったのは、ウリアが顔を真っ赤にして固まってしまってからで。
「えっ、イドリス。それって、その……もしかして」
「いやその、別に黒でもいいんじゃねってだけで、俺は別にどっちでもお前なら似合うんじゃねって……。じゃなくて!! 特に変なところがないなら、そろそろ立てよ」
もう何を言っても墓穴になる気がして、俺は強引に話を逸らす。そもそも彼女の髪のことは、最初から美しいと思っていたのだ。月光を受けて輝く白銀の髪も、夜闇のように艷やかな漆黒の髪も。
「あっ、話逸らした。ねぇねぇイドリス、今のってどういう意味? その、どっちも似合ってるって意味で、いいんだよね?」
「あーもう、うるせぇな。そういうことだよ!! ほら、これでいいか?」
「うっ、うん。……えへへ、そっか。イドリス、どっちでも似合うって思ってくれてたんだ……」
俺の言葉の何が嬉しいのか、ウリアはニコニコと微笑みながらゆっくりと立ち上がる。足取りはまだ危うく、膝も震えている。だけどそれでも、俺の腕に寄り添うようにしながらも、ウリアはしっかりと自分の足で立ち上がっていた。
「とりあえずは立てる程度には大丈夫みてぇだな。とは言え今の状態で放置するのも不安だし、まずはペネムでも探して……」
「い、イドリス!?」
突然ウリアの叫び声が聞こえてきて、俺は慌てて顔を隣に向ける。俺の腕に半ば抱きつくみたいに寄り添っているウリアは、目を見開いて俺の背中とそして顔……というよりも頭に視線を送ってきていた。
「なんだよ、急にデカイ声出して」
「えっとその、自分で気が付いてないの……? 私も逆光で気が付かなかったけど……」
「だから、なにがだよ。なんか付いてんのか? 俺の頭とせな……か、に」
体を軽く捻って、俺は自分の背中に視線を送り。そしてそこにあったものに、思わず言葉を失っていた。
翼。真っ白い大きな翼が、そこにはあった。なんでそんなものがそこについているのか、何一つとして分からない。しかし確かに俺の背中には、確かに天使と同じ翼が生えていた。
「……は?」
ただ、そんな言葉しか出てこない。なんとなく動かしてみると、その翼はあっさりと俺の意思に従って広がったり縮こまったりしている。どうして今まで気が付かなかったのだろう。いや、この目で見て自覚した途端に、なんとなく動かし方が分かったのだ。
まるで最初から自分の体の一部だったみたいに。
「えっとその、見えないと思うけど……。実は、髪も」
「あー、もしかして。白く、なってるのか?」
「……うん。えっとその、私は白い髪のイドリスも似合うと思うよ?」
「いやそんなフォロー要らねぇから。……でもまあ、ありがとな」
問題はそこではない。そもそも自分の髪の色なんかに執着はないのだ。だが翼が生えて、そして髪が白くなって。それではまるで、俺が天使に成ってしまったみたいだ、と。俺はそこまで考えて。
「あ、そう言えば夢の中で、母さんが言ってたような……」
「夢? それにお母さんって……もしかして、ギャビーのこと?」
ウリアを助けようとした直前に見た、あの笑顔のことを思い出していた。俺の言葉にウリアは首を傾げ、目で先を促してくる。
「ああ、お前を助けようとした時に見たんだよ。母さんが手助けしてあげるって。あと……人と違う時間を生きるようになる、とか……」
確か、そんなことを言っていたはずだ。会話の詳しい内容までは覚えていない。ハッキリと覚えているのは、最後見た笑顔だけだ。だけど確かに、夢の中で母さんはそんな話をしていたはず。
「人と違う時間を……。それって」
「まるっきり、天使のことだよな」
「うん。……そっか、もしかしてギャビーは何かあった時のために備えてたのかも。イドリスに何かあった時に、自分の力で守れるようにって。だからあの時も、私達のことを守ってくれたのよ、きっと」
あの真紅の輝きから俺を守ってくれた淡い光。あれが母さんのものだったのは、なんとなく分かる。そしてそう考えれば、確かに全て合点がいくのだ。俺に神聖術が使えたことも、そしてウリアと一緒に居てオドが回復するくらいに相性がよかったことも。
「……だとしても、なんでこうなるんだ?」
「イドリスは、元天使と人間のハーフだから。人間の部分が多くて天使の部分をずっと抑え込んでたんだと思う。だけど人としての生命力……オドを使い切って、本当なら死んじゃうところを……」
「天使の素質とやらに救われたって訳か。まぁ、あれだな……死ぬよりはマシか」
「私は嬉しいけどな、イドリスが生きててくれるだけで。まあ確かに、ちょっとイドリスからしたら複雑かもしれないけど……」
俺を見上げるウリアは、ほんの少しだけ申し訳無さそうに、だけどそれ以上に幸せそうに微笑んでくれていた。そんな彼女の笑顔に、俺は小さくため息を吐き出してから笑いかける。
「もう天使のことを憎んでるわけじゃねぇよ。ただ、その……。お前が人間になっちまったんなら、俺だけ天使ってのはちょっと嫌だなって、そう思っただけだ」
俺一人だけ生きていたって仕方ない。それは嘘偽りのない、俺の心からの本音だ。その気持ちはウリアを目の前にしたって変わらない。いや、むしろずっと強く、確かなものになっている。
だからこそ、目の前の彼女が幸せそうに笑ってくれたことも、そしてその美しい瞳で俺の目を見つめてくれることも。その全てが今の俺にとっては、温かい幸せそのものだ。
「そっ、そっか……。その、嬉しいよ。私も、イドリスと一緒がいいもん」
「今のままだと、お前だけおばあちゃんになっちまうしなぁ」
「あっ、それ思ってても言わなかったのに……」
「まあそれが違う時間を生きる……ってことなんだろうなぁ。ったく、俺の道が辛く険しいものって、そういう意味かよ」
思わず苦笑する。ああ、確かに辛くて険しい道なのだろう。きっと俺には永遠に等しい時間があって、そして彼女には限られた時間しか無い。真逆だった立場がこうしてひっくり返った途端、それを辛いと感じてしまうのはきっと、俺が一人残される立場になってしまったからなのだろう。
「……なぁウリア。一応聞くけどよ。お前が天使に戻る方法ってのは、あるのか?」
「それは……」
言葉に迷い、ウリアは言い淀む。その目線と、そして表情で分かってしまった。そんな方法は、この天界にもないのだと。
「ない、んだな。そっか……まあそうだよなぁ」
「ごめんなさい。長い天界の歴史でも、完全に人間まで堕ちた天使の例はあまりなくて……」
「でも、ないことはないんだろ? 例えば……俺の母さんとか」
「……ええ、そうね。ギャビーは完全に人間になって、そしてあなたを産んだはず……だったんだけど、あなたには天使の力が宿ってた。……もしかして、イドリス」
ウリアが驚きに目を見開いて、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。ウリアが驚くのも無理はない。そもそも俺自身、よくこんなことを思いついたと思うくらいだ。だが思いついてしまったのなら、何もしないわけにはいかない。
「ああ、多分そのまさかだよ。……可能性があるなら、試して見る価値はある……だろ?」
「それは、そうだけど。でも私、きっとまたイドリスに迷惑を……」
「それこそ今更だろ。散々迷惑をかけられてんだ、少し追加するくらい変わりゃしねぇよ。それに、俺が聞きたいのはお前がどうしたいかだ」
彼女の望みが自分の望みだ、なんて歯が浮くようなことを言うつもりはない。俺は俺がしたいことしかしないつもりだ。だけど、ウリアがしたくないことをするつもりも毛頭ない。
だからこそ聞くのは彼女の意思だ。ウリアがどうしたいか。今の俺に大事なのは、ただそれだけ。
「私は……私、はイドリスと……もっと一緒に居たい。ずっと一緒に……。だから、イドリスさえよければ」
──私と、一緒にいてくれますか?
だから彼女のその言葉を聞いて、俺が返す言葉は最初から決まりきっていた。だって彼女が望んでいることは、俺も望んでいることだったのだから。それなら迷うはずなんてない。
だから俺は、彼女の空色の瞳を見つめながら口を開く。透き通った、天界から見る空よりも美しい瞳を見つめて。
この一言で、これから先の全てが変わってしまうと分かっていながら。母さんの言っていたとおり、辛く険しい道が待っていると分かっていながらも。
「……ああ、いいぜ。もう離してくれって言っても、離さないからな」
俺は彼女の手をしっかりと握りしめながら、きっと初めての心からの笑みを彼女に向けたのだった。
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