第3話
「──」
意識が明滅する。何も見えない。何も聞こえない。自分の体の感覚すら、何一つない。自分が何者なのかすら分からなくって。ただ何もかもが終わったのだという感覚だけが、今の俺に分かる世界の全てだった。
「──ア」
なんだ? 何かが聞こえる。遠くから、近くから。まるで世界に滲んだ染みのように、ゆっくりと広がっていく。
「──リア」
それは声だ。聞き覚えのある声が、何かを叫んでいる。もう聞き慣れてしまった言葉。それが何を意味しているのかすら分からないのに、それが何よりも大切なものだということだけは、ハッキリと分かってしまう。
その理由すら分からないままに、俺はその声に必死に手を伸ばしていた。自分の体の感覚すらないままに、しかし意識だけが広がっていく。手放したくないと願ったはずの、そのなにかに向かって。
「──ウリア!!」
それは名前だ。誰の? 誰のだろう。いや決まっている。大切な人の名前だ。今の俺には何よりも大切な名前だ。そしてそれを叫んでいたのは、俺自身の口だった。
それに気が付いた瞬間、視界が弾けるように色付いていく。何にも染まらない純白の世界は、何もかもを塗りつぶす真紅の世界へと変わっていた。
「なん、だこれ……」
スリエルの放った真紅の輝きが世界を覆い尽くしている。それはまるで、かつて見たあの日の光景だ。炎ではない。それは光そのものだ。かつてウリアが俺の街で放ったあの光とどこか似ていて、そして全く違うものだ。
建物も何もかもが、その光になぎ倒されていく。全てをなぎ倒していく光は、まるで紅蓮の炎のようだった。そしてだとして、何故俺はそんな世界で立ち尽くしているだろうか。
その疑問の答えは、目の前にあった。こんな世界の中でただ一つ、真紅に染まらぬ輝きを見た。それは白い光。この真紅の世界で、その光だけが何者にも染まらずに耐えている純白の輝き。そして同時に、自分の体を同じような淡い光が包んでいるということにも。
「ウリア……」
再び、その名前を呼ぶ。その光がどうして彼女の放つものだと分かったのかは、自分でも理解できていない。だけど魂が叫んでいた。あれこそがウリアなのだと。そして彼女は今も、俺を守るためにその身を犠牲にしようとしているのだと。
──また繰り返すのか?
心の奥底から声が聞こえる。それは俺だ。俺自身の声だ。その声はまるで攻め立てるように、折れそうな心を詰ってくる。
──また諦めるのか?
彼女がいたからこそ、俺はここにいる。彼女と出会っていなかったら、俺はきっと今も死んだままだった。何も知らず、彼女のことを恨んで剣を振っていたはずだ。
──また彼女を手放すのか?
「ふざ、けんな……!!」
無理矢理に絞り出したような、みっともない声だった。恐怖に震えたままの、情けない声だった。だけどそれでも、俺は一歩をゆっくりと踏み出していく。
もう諦めない。もう二度と手放しはしない。もうかつての自分に縛られて、目の前の大切なものを見失ったりなんてしない。
「絶対に……お前一人で逝かせたりしねぇ!!」
白い光に向かって、俺はゆっくりと進んでいく。彼女が真紅の光を遮ってくれているその場所へと。
一歩進む度に、重圧が増す。一歩進む度に、体がばらばらになって吹き飛ばされそうになる。本来なら、こんな世界に足を踏み入れられるような力なんて持っていないのだから当然だ。
俺のような凡人がこの真紅の光に触れれば命はないと、本能で分かる。だけど、それでも進む。自分の命を天秤にかけて彼女を救えるのなら構いやしない。幸い俺の体を包む淡い光のおかげか、この体は耐えてくれている。
白い光が近づいてきて、ようやく彼女の背中が見えてくる。光の波紋を何十にも体の周りに纏わせ、ほとんど黒くなってしまった翼を広げ、そして真紅の光に向かって両方の手の平を向けている彼女の姿。その手の先には光の盾が浮かんでいて、真紅の光からウリアを、そして俺を守っている。
その姿を見た途端に、思わず息を呑んだ。あんなに嫌がっていたのに、髪も翼も黒く染まってしまっていて。それでも必死に抗っている彼女の姿に、胸が締め付けられた。心の奥で、燃える感情があった。
その感情の名前は分からない。いや、なんだっていい。ただ今はこの足を動かしてくれる原動力になるのなら、怒りでも愛でもなんでもいい。今の俺に出来ることは、ただそれを燃やし尽くして彼女の隣に立つことだけだ──。
「ウリア、遅くなった」
「イド、リス……?」
ウリアの隣に立って、その背中を支えながらその名前を呼んだ。俺が近づいてきているのに気が付いていなかったのは、ウリアは目を見開いてゆっくりと振り返ってくる。髪も翼も、なにもかも変わってしまった彼女の中で、唯一変わらない空色の瞳が俺を真っ直ぐに射抜く。
綺麗だと思った。心の底から美しいと思った。そして絶対に守りたいと思った。
「なん、で……。イドリスが、こんなところに……」
「あー、まあなんだ。お前一人じゃ危ういからな。……助けに来た」
「私を、助けに……?」
「……ああ、当たり前だろ。だからまずはそのためにも、この状況をなんとかしねぇとな」
「うん。……イドリス、さっきから思ってたんだけどその光……」
「これか? さぁ、俺も分からねぇ。けど俺が死んでねぇってことが分かれば十分だろ。……それで、何をすればいい?」
この状況を保っているのも、きっともう限界だ。支える彼女の背中にかかる力は、一秒ごとに増していっている。彼女の力がどこまで持つのかも分からない。もう俺たちに残されている時間は、きっとない。
「……分かった。それじゃ私が今から作る剣を、一緒に握って支えてくれる? もう……スリエルを倒すしか、ないから」
「そんなことでいいのか? ああ、お安い御用だ」
俺が頷くと、ウリアは返事の代わりに顔を綻ばせてくれる。それから俺はウリアの隣に立って、彼女の手にそっと自分の手を重ね合わせた。
「それじゃ……いくねっ」
彼女の声に合わせて、マナが渦巻いていくのが分かる。その光そのもののようなマナが寄り集まって、膨大な白銀の輝きが一本の剣の形へと変わっていく。以前にも見た白金の剣。細身ながら美しく、そして羽のように軽いその剣が、ウリアの手の平のなかに現れた。
マナに触れた今だからこそ分かる。それが最早、神の奇跡に等しい所業だと。光そのもののマナなんて、俺には操ることはおろか知覚することすら出来はしない。だが彼女は、それをまるで自分の手足のように操るのだ。
そうして生み出された剣に、彼女が纏っていた光の波紋が吸い込まれていく。その瞬間、ウリアの握る剣が大きく震え始めた。
「くっ、なんだ急に」
「剣の限界を超えてマナを注ぎ込んでるから、制御が難しくて……っ!! お願いイドリス、抑え込むのを……」
「ああ、任せろ!!」
彼女が持つ剣を、俺は横からウリアと体を重ね合わせるようにしながら握りしめる。腕を重ね、肩を重ね、そして手の平を重ねる。その瞬間、俺の体を包んでいた淡い光も剣に吸い込まれていって。まるでそれがキッカケだったみたいに、剣の振動は止まっていた。
「なんだ……? 急に止まったけど」
「この光、もしかして。……そっか、そういうことだったの……。ありがとう、ギャビー」
「ギャビーって、母さんの……」
「ええ、そう。あなたのお母さんの愛称よ。本当は色々と、お話したいんだけど……」
「全部片付けてからだな。……俺からも、色々と言いたいことも聞きたいこともあるんだ。……母さんのこととかさ」
「ふふっ、任せて。あなたのお母さんのことなら、私なんでも知ってるんだから」
目の前の盾も今にも崩れてしまいそうな程にボロボロで、もう時間がないのは明らかだ。だから俺たちは最後に目を見合わせてから、どちらともなく歩き出す。真紅の光の根源へ向かって。
歩き出した途端、俺たちを守っていた盾は崩れ落ちた。だがそれでも、俺達の歩みは止まらない。どうして進めているのかなんて分からない。どうして俺の体が、未だに原型を保てているのかも分からない。
だが進める。ウリアと一緒なら、こんな場所でも歩いていける。体から大切な何かがサラサラとこぼれ落ちていくような感覚も、その事実の前でならどうでもよかった。
「死んでしまえ、死んでしまえ、死んでしまえ!!」
スリエルの声が聞こえる。狂ってしまったように、同じことだけをひたすらに繰り返す声が、確かにこの耳に届き始めた。そこにはもう彼の意思すら感じず、あの背中を舐め回すような不快感すら感じはしない。
スリエルの姿が、光の中に見え始める。それはもう、天使の姿などではなかった。真っ白だった翼も、そしてウリアと同じ白銀に輝いていた髪も、その全てが真紅に染まっている。まるでおとぎ話に語られる悪魔のような姿。俺たちの目の前にいるのは、最早ただの天使などではなかった。
「もう、スリエルは……」
「ああ。俺たちで、トドメを刺そう。気張れよ、ウリア」
「……うん、分かってる」
剣を構える。微かにウリアの手が震えていることには気が付いたけれど、彼女が何も言わなかったから俺も何も言わなかった。彼女の胸に満ちている感情は、彼女だけのものだと思ったから。
「これで……っ」
「終わりだ!!」
俺とウリアの握った剣が、スリエルの胸を深々と貫く。その瞬間、彼が繰り返していた呪いの言葉は止んでいた。
さっきまで狂乱に満ちていたスリエルの目が、唖然と胸に突き刺さった剣を見る。そしてほんの微かな時間それを眺めて、ゆっくりと彼の顔がこちらを向いた。
「……これ、は……。ああ、そうか……俺は、負けた……のか……」
「ごめんなさい、スリエル。許してくれなんて言わないわ。せめて、安らかに……」
「そう、ですね……。少しばかり、疲れました……。ウリア様……私が居ない間も、ガブリエル様と一緒に無茶な、こと……は」
さっきまでの狂気が嘘のような、心から安らいでいるような穏やかな声と表情だった。そんな声でスリエルは、一度だけウリアの方を見て頬を緩めてから、ゆっくりと瞳を閉じていった。
彼がその穏やかな瞳でウリアの姿を見て、何を思ったのかは分からない。だが確かにそこにはもう憎しみの色はなく、ただの親愛の色だけが見えた。……そう感じてしまうのは、俺がそう思いたいからだろうか。
だがその答えを語る者はもういない。彼の瞳が閉じると同時、真紅の光はまるで最初からそんなものはなかったかのように消え去っていた。
目の前には、吸い込まれそうなほどに深い青空が広がってる。見渡せば周囲の建物は瓦礫の山と化していて、あの整った町並みは見る影もない。しかしそれでも、その瓦礫から何人もの天使たちが立ち上がるのが目に入る。そしてその誰もが、ただ唖然と空を見上げていることも。
「終わった……のか?」
「……うん。もう、全部終わったの」
「はは、そりゃよかった。……お前のおかげだ
「ううん、私なんて全然。全部イドリスの、おか……げ、だか──」
カラン、と乾いた音が響く。それが俺たちが握っていた剣が地面に落ちた音だということに気が付いたのは、隣に立っていた彼女が膝から崩れ落ちた瞬間を目にしてからだった。
彼女の黒くなってしまった髪が流れていくのが、やたらとゆっくりに見える。助けなくちゃ。そう思い、彼女の体に手を伸ばす。だが俺の体も限界だったのか、膝が言うことを聞いてくれなくて。
「ウリア!!」
俺はウリアと地面の間に無理やり自分の体を挟み込むようにして、とっさにウリアを受け止めていた。ただウリアと一緒に地面に倒れただけのはず。それなのに、全身がバラバラになってしまいそうなほどの痛みが走る。
「っ……てぇ……。おい、ウリア、大丈夫か? おかげで死ぬかと……」
腕の中のウリアに声を掛けて、だけどその言葉は最後まで続きはしなかった。それは腕の中の彼女が、俺の掛けた声に身じろぎ一つしなかったせいだ。それは腕の中の彼女の髪に、一つとしてかつての銀色の輝きを見ることが出来なかったからだ。そしてそれは、腕の中の彼女が息をしていなかったからだ。
「ウリ、ア……?」
彼女を腕の中に抱きながら、俺はゆっくりと体を起こす。体の痛みなんて、もう一切気になりはしない。彼女の背中を支える手に、翼の感触がないことすら分からない。ただ目の前の彼女の顔を、俺はひたすらに見つめていた。
「おい、どうしたんだよウリア。起きろよ、いつまで寝てんだよ。……起きて、くれよ……」
何度声を掛けても、彼女はまぶた一つ動かしてはくれない。それでも俺はまるで現実を受け入れられない子供みたいに、何度もウリアに声を掛けていた。何度呼んでも、その空色の瞳を俺に向けてくれはしないのに。もう二度と、彼女の瞳が空を写すことはないのに。
「な……んで」
分かっていた、こうなることは。彼女がこうして力を使いすぎれば、命を落としかねないことも。そして彼女が、自分の命を投げ出せば救えるものがあるのなら、それを躊躇いはしないということも。
あの瞬間、きっともうウリアは限界だったんだろう。だけどきっと、俺のために最後の力を振り絞ってくれた。俺なんかのために、自分一人なら守れたはずの命を使い潰してしまった。
「ふざ、けんなよ……」
手が、声が震える。息の仕方すら分からなくなって、鼓動は今にも止まりそうになる。
「なんでお前が……俺なんかのために……。まだ、俺は何も返せてやいないのに。まだ俺は、お前に何も言えてねぇのに……」
彼女の、もう真っ黒になってしまった髪に触れる。かつてやったように、そっと彼女の髪を撫で付ける。たったそれだけのことで、幸せそうに笑ってくれた彼女。だけどどれだけ彼女の頭を撫でても、彼女が笑ってくれることはない。
その実感が、胸をどうしようもなく締め付ける。何を言うべきなのかと悩んでいた。自分は彼女に何を言いたいのかと悩んでいた。だけど、そんな悩みは彼女が居てくれないのなら意味がない。
「ふざけんな……っ!! 自分だけ言いたいことを一方的に言って、俺の気持ちなんて考えもしないで!! ……母さんの話をしてくれるって、約束したじゃねぇか……」
視界が滲んで、涙が頬を伝う。まるで俺の心からこぼれ落ちたような雫が、彼女の頬に落ちて流れていく。まるであの日の裏返し。俺が団長と戦って、死にかけたあの日。
微かに覚えている。彼女が俺のために、大粒の涙を流してくれたことを。しかしあの時の俺は彼女のおかげで生き延びて、そして俺の腕の中の彼女は目を閉じたまま動かない。
「……まて、よ。もし本当に、あの時と真逆なら……」
そこまで考えて、俺は一つの可能性に思い至った。体内の生命力、オド。確かウリアは言っていた、天使はマナで生きているようなものだと。だが今の彼女は、まるで人間のようで。
それがもしも、彼女が人間そのものになっているのだとしたら。そして体内の生命力を使い尽くしてしまった結果が、今のこの状態なのだとしたら。
「俺のオドを注ぎ込めば……まだ、もしかして」
彼女を抱き上げたまま、俺はゆっくりと目を閉じた。体ごと触れる彼女の体温と、そしてその自分だけが世界の全てになる。
感じるのは、ただ自分の奥底にある熱。オドの詳しいことなんて俺には分からない。魔術の使い方だってさっぱりだ。ここで彼女を救う魔術に目覚めさせてくれるほど、世界は都合よく出来てはいない。
だけどマナと似たような感覚を、俺は自分の奥底に微かに感じていた。それが俺の生命力そのものだと、俺は何の根拠もない直感で分かる。このオドを動かすだけならきっと出来る。マナと同じなら出来るはず。だから俺は、ウリアに教わったみたいに見えない手の平を伸ばすような感覚で意識を伸ばし、それをそっと手の平に載せた。
それはまるで命の泉だ。自分自身の命の水を、俺は今見えない手の平で汲み上げている。だけどそれはもう、両の手の平の上に乗るくらいの量しかない。この手の平にあるもので全て。
それが普通なのか、それとも何もかもを出し尽くした後だからなのかは分からなかったけれど。それが失われてしまうことは、欠片も怖くはなかった。
「これで、あいつが助かるなら……」
俺がどうなっても構いやしない。ああ、きっとウリアは悲しんでくれるのだろう。そしてさっきの俺のように、今度は彼女が俺のことを怒るのだろう。だけど構いやしない。彼女が生きていける未来があるのなら、彼女が笑ってくれているのなら俺はそれでいいのだ。
それに、ウリアだって自分だけ俺のことを無視して自分を犠牲にしようとしたのだ。俺だって最期に少しくらい、自分勝手な自己犠牲をする権利くらいはあるだろう。
「……悪い、こんな方法しか思い付かなくて。嫌だったら、ごめんな」
一度だけ目を開いて、俺は目を閉じたままの彼女にそう言って。それからそっと、ウリアの唇に自分の唇を重ね合わせた。重ね合わせた唇から、俺の命が彼女に注ぎ込まれていく。
本当なら、もっといい方法があったのかもしれない。だけど今になって思い出した微かな記憶が、自分もウリアにこうされたことを覚えていたから。だから俺は自分の生命力の全てを彼女に注ぎ込んでいって、
『そんなことしたら、死んじゃうよ?』
どこかで聞いたことのあるような、懐かしい女性の声が聞こえてきた途端。俺の意思は、暗転していた。
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