第2話

「本日皆様にお集まりいただいたのは他でもありません!! ええ、私には皆様が何を考えているのかは分かりますとも。どうして今になって、この“元”天使長がどうしてここにいるのかと、そう考えているのでしょう」

 奴の声が聞こえる。吐き気すら覚えるほどの醜悪な声が、半円状の議場にこだましていく。大理石の床と壁に囲まれた白亜の議場。真っ赤な幕の前に敷かれた舞台の上には、声高に演説をするスリエルと、そして力なく床に座り込んだウリアが真っ赤な紐で縛られていた。

「この“元”天使長は皆様が御存知の通り、我々の同胞であった天使を殺害した罪で堕天の儀に処されました。ですがですが!! あろうことかこの女は、儀式を途中で逃れ半ば人間へと堕ちながら!! 我々への復讐を目論んでいたのです!!」

 赤く長い紐が真っ白いドレスを纏ったウリアを後ろ手に縛り、その端は床に垂れ下がっている。まるでリボンで飾り付けられた贈り物のようだ。それをどうしようもなく美しいと思うのと同時、俺は果てしなく醜悪だと思ってしまう。

 あれは生贄だ。彼女を見世物にして、悪意を集める誘蛾灯。そしてその悪意を喰らい、自らの糧として更に悪意を広げていくのが、あのスリエルという男なのだ。

 だがそんな彼の演説を俺はただ見ている。舞台の二階にある物置。木箱がうず高く積み上げられたその場所から、俺は声高に演説するスリエルを一人睨みつけていた。

「あの野郎……」

 絶対に許さないと、俺は歯を食いしばる。あの男が、どんな謀略を図っても構わない。出世のために周りを蹴落とそうとも、俺の知ったことではない。だけど誰よりも優しいウリアを、悪意のための道具にするのだけは、絶対に許せない。

「しっかし、本当にこんなところまで忍び込めるとはな……。下手に便利な術があると、門番すら立たせないなんて間抜けな話だ」

 ペネムから示された作戦はこうだ。人間である俺は、スリエルの警戒を唯一すり抜けることが出来る。だからペネムたちの手引きで議場に忍び込み、ペネムたちの陽動と同時にウリアを救出。そして混乱に乗じて、ウリアを連れて脱出してほしいというものだった。

 時間にして、あれから数日。ウリアがこうして今ここにいるのを見ると、奴の目論見がウリアの公開処刑だというペネムの予想は間違っていなかったのだろう。

「……まあ、空に浮かんでるここに来れるのは、本来は天使だけなんだし当たり前か」

 噂には聞いていたけれど、本当に天界が雲の上にあるのを見た時は驚いた。正確には普通の雲ではなく、マナを固めて作った土台の上に立っているらしいが。空の上に白い地面があって、その上に建物が立っていることしか俺には分からなかった。

「ここに来るにも、空飛んでだしな……。ってか、ペネムたちもここに住んでるんだろうけど、爆破とか起こしていいのか?」

 俺は思わず呟く。轟音が聞こえれば合図だと言われたが、いいのだろうか。確かに外で起こした爆発と同時に中でも動くというのは合理的だとは思うけれど。

 だがペネムが言っていたとおり、一番危険な役回りであることは間違いない。議場に居るのは天使たちだけ。ペネムによれば穏健派のスパイも何人か潜り込んでいるらしいが、基本的には周りにいるのは全員敵だ。

 そんな中で俺が一人立ち回ったところでどうなるのかと、そう思いはする。無駄死にするだけだと、そう思う冷静な自分もいる。だけどそれでも、ウリアが助かる可能性が少しでも上がるのなら迷う理由なんて俺にはなかった。

「到底許せることではありません!! かくなる上は、断頭台の使用をご許可いただきたく、皆様にはお集まりいただいたのです!!」

 スリエルの言葉に、議場がにわかに騒がしくなる。断頭台。首を落とす死刑台。天使においてのそれが人間と同じものかは分からないが、議場の反応を見るに物騒なものには違いないのだろう。

「だ、断頭台を……? しかし同族を手に掛けるなんて……」

「しかも元とは言え天使長をですよ? 確かに私たちとは反目していましたが……」

「それだけで何百年も使われていない断頭台を使うのは、流石にやりすぎだと思うわ」

「……しっ、スリエル様に聞こえますぞ」

 静まり返っていた議場には、ハッキリとは聞こえないが無数の話し声がこだましていた。話しているのは恐らく中立派の天使たちだろう。だがその天使たちも天使たちは隣とコソコソと話をしているだけで、スリエルに面と向かって何かを発言するものは居ない。

 穏健派と急進派、そしてきっとどちらにも属さない中立の天使たち。やはり政治の世界は、俺には分からない。思っていることがあるならハッキリと言えばいいのに、勢力同士のしがらみが彼らの口を重たくしているのだろう。それに思わず苛立ちを覚えて、

「まあ……俺も人のことは言えねぇか」

 そもそも俺も、復讐に目を曇らせて彼女のことを見れていなかったなと、小さく苦笑を零した。もしもこの作戦が上手くいって、そして俺が生きていたなら。その時、俺が最初に彼女にかけるべき言葉はなんだろう。

 謝罪だろうか、それとも感謝だろうか。そのどちらも正しい気がするし、そのどちらも間違っている気がする。彼女に対して謝る権利も、感謝する権利も俺にはないのではないかと。そんな益体もない考えを、俺は頭を強引に振って吹き飛ばした。

「んなことを悩むのは終わってからだ。今は……」

 目の前のことに集中する。終わってからのことを考えるのは、何もかもが上手くいってからで十分だ。

「皆様のご動揺は分かりますとも。このようなこと、私も本当は本意ではないのです。ですが、誰かがやらなければならない。それならば、私は自らの立場を犠牲にしてでも成すべきことを成しましょう!! ですから皆様は、手を上げるだけでいいのです。それだけであなた方は──」

 演説の佳境。恍惚とした声で叫ぶスリエルの声が、初めて途切れた。いや、その醜悪な声を遥かに上回る、轟音にかき消されたのだ。

「なっ、なんだ!?」

「外みたいだぞ!! この音……もしかして、崩落じゃ」

「そんな……。何年も起きていなかったのに……」

 会場が再び騒がしくなり、先程まではコソコソと話していた声が大きくなっていく。不安と焦燥。天使だろうと人間と、身の危険を恐れるのは大して変わらないらしい。そしてその恐怖心にざわつく会場に、勢いよく扉が開け放たれる音が響いた。

「スリエル様、襲撃です!! 穏健派の天使が……その、裏側の区画を崩落させた模様です!!」

 一瞬。ほんの一瞬だけ、議場が静まり返る。ありとあらゆる視線が開け放たれた扉に向かい、そして叫ぶその声を聞いていた。今だ。今だけは、ウリアに向けられた視線の全てが扉に向かっている。ただ一人、俺を除いて。

 一息に階下へと飛び降りただ自分の足で駆ける。マナは使わない。見るのはただウリアだけ。唖然としている天使たちも、扉の方を見ているスリエルの姿も目に入らない。

 俺の足音は、外から響く轟音が消してくれる。誰もが扉を向いていて、俺の姿を見る者はいない。今この瞬間、ただの人間である俺は、彼らにとってあまりに小さな存在である俺だけは、誰にも気が付かれることなく。

「きゃっ。え、イド──」

「しっ、黙ってろ」

 あっさりと、赤い紐で結ばれたままのウリアの元へとたどり着いていた。手足を縛られてはいるが、どこかに繋がれているわけではない。だとしたら、と。俺は両腕でウリアの背中と膝裏を支えるようにしっかりと、まるでおとぎ話でお姫様を抱き上げる騎士のように彼女を抱き上げた。

 腕の中に彼女が居る。その空色の瞳を大きく見開いて、信じられないとばかりに俺を見上げている。その瞳の中に確かな喜びの色が見えるのは、きっと俺の気のせいではないはずだ。

「言いたいことは後だ、さっさと逃げるぞ」

「……うん」

 彼女がしっかりと頷いたのを確かめて、俺は全力で足を踏み込む。彼女がこの腕の中にいる以上、もう何も遠慮することはない。スリエルに発見されるのは承知の上。だからこそ、俺は風のマナを足元に凝縮させて解き放った。

 すぐ傍にいたスリエルを、俺は追い越すようにして交差する。その刹那、ほんの一瞬の時間だというのに。彼の視線がこちらに向いて、それが見開かれるのが何故だかよく見えたような気がした。

「なっ、人間がどうして──」

「スリエル様、こちらです!!」

 背後から聞こえてきたスリエルの声をかき消すようにペネムが叫ぶ。真正面、扉の向こう側。先程、扉を勢いよく開いて議場に呼びかけた位置のまま、ペネムの手の平から輝く槍が生み出されて、そして打ち出された。

 ほとんど俺の頬を掠めるような位置を、一筋の光と化した槍が通り抜けていく。避けも恐れもしない、そんな余裕はどこにもない。今の俺に出来ることは、ただただ最短距離でこの議場を駆け抜けていくことだけ──。

「このっ、犬如きが私を傷つけようなど!!」

「犬で結構!! イドリス様、手筈通りに」

「分かってる!!」

 扉を抜けて、俺はペネムのすぐ横をそのまま走り抜けていった。その一瞬、ペネムの視線がウリアの方を向いて微かに細められる。そこに込められている彼の気持ちは、俺にはきっと分からない。だが彼は、ウリアに何も言わなかった。

「ペネム……っ!!」

 だからこそ、俺は振り返らずに駆けていく。ウリアの悲痛な呼びかけに、ペネムが浮かべた小さな笑顔も何もかも置き去りにして。

「うわ、さっきの音はこれか……」

 そうして飛び出した議場の外は、中とは比べ物にならないほどの喧騒で満ちていた。それもそのはず、神殿のような作りになっていた議場の入り口。そこにあった、俺が三人腕を広げても手を繋げないほどの太い柱が何本も横倒しになり、そしてそれを取り囲むように野次馬たちが集まっていたからだ。

「これ、ペネムたちが?」

「多分な!!」

 走りながら答える。野次馬を迂回しながら回り込み、俺は議場から出来るだけ早く離れていく。あの野次馬の中の、誰が敵かすら分からないのだ。

 だから俺は、出来るだけ人目に付かないようにと飛び込むように路地に駆け込んでいた。議場の周りに集まっているせいか、それほど細い道ではないのに他の天使の姿はない。そこで俺はようやく息を吐きだして、それから腕の中でまだ目を丸くしたままのウリアの顔をようやくしっかりと見つめて口を開いた。

「とりあえず、こんなところでいいか……。お前は怪我してないか?」

「う、うん。私は……イドリスのおかげで大丈夫」

「ならよかった。ってか、さっきまでそれどころじゃなくて気が付かなかったけど……」

「え、なに? 私の顔、なにかついてる?」

 俺の腕の中で目をまるでビー玉みたいに丸くして、ウリアは目をパチパチと瞬かせている。そんな彼女に俺は、頬が小さく緩んでしまうのを感じながら口を開いた。

「いや、お前ってマジで軽いなって思ってさ。まるで羽を抱えてるみたいだ」

「……そ、そんなに? 重くない?」

「全然重くねぇよ。このままずっと抱えてたって平気なくらいだ」

「そっ、そう……? でもその、私もこうしてくれるのは嫌じゃないけど……。ずっとイドリスに抱っこされてたら、心臓が止まっちゃいそうだから」

 顔を赤くしてはにかむウリアを見て、俺は自分の心臓もそれこそ止まってしまいそうな程に跳ねるのを感じる。それは彼女の表情も言葉も、そして感触も何もかもが今更になって腕の中にあると実感してしまったせいだろうか。

「そ、そりゃ悪いな……ってのも変か。いや、とにかく今下ろす。その趣味の悪いロープも今斬ってやるから」

 俺は自分の心臓のためにもと、抱き上げていたウリアを手早く床に下ろした。それから腰から剣を抜き、ウリアの腕と足を縛っていた縄を切り裂く。

「結構強く縛られてたみたいだな……。大丈夫か?」

「うん、ありがとう。これで縛られてると、マナに干渉できなくなっちゃうから困ってたの。……それに、ちょっと痛かったし」

 腕をさすりながら、ウリアは小さく微笑んでそう言った。その笑みはきっと、ただ純粋に嬉しいだけのものではない。それくらいは、付き合いの短い俺にだって分かる。だからこそ、何を言うべきなのかが俺にはやっぱり分からなくて。

「と、とりあえず歩きながら話すぞ。お前の仲間と落ち合う場所まで行かなきゃだからな」

「そ、そうだね、うん。分かった」

 そしてそれはきっと、ウリアも同じなのだろう。彼女もまた、どこか気まずそうに腕をさすっていて。俺たちはせっかく再会できたのに言いたいことの一つも言えないまま、お互いに向き合って押し黙ってしまっていた。

 沈黙が気まずい。ウリアと一緒に居て、こんなに沈黙が気まずかったことなんてないのに。頭の中は何を言うべきかとか、そんなことばかりがグルグルと回っている。だけど何か言わなければと、俺は何も思いついてないままに口を開いて、

「「その」」

 そして俺たちは、綺麗に同じタイミングで口を開いてしまっていた。

「あっ、ごめんなさい」

「いや、俺の方こそ悪い。あー……先、言えよ」

 二人揃って慌てて口を開き、それから俺はこれ幸いとウリアに先を譲る。まだこの期に及んで、俺はウリアに何を言うべきかすら決められていなかったから。

「あっ、うん。その……ありがとう、助けに来てくれて。イドリスが来てくれて、本当に嬉しかった……。でも、私はイドリスに助けてもらう資格なんて──」

「悪いけど、そこから先は聞かねぇぞ。お前が自分でどう思ってようが、俺が自分でそうしたいからここに居るんだからな」

「イドリスが……。それって、その……どういう意味なのか、聞いてもいい?」

 ウリアが顔を上げて、空色の瞳が俺を見つめる。その潤んだ瞳と、そして赤く染まった頬。揺れる瞳の奥に見えるのは、期待か不安かそれともその両方か。そのどれかは分からなかったけれど、俺が言うべきことは決まっていた。

「……まあ、要するに俺が……俺自身が、お前を助けたかったんだ。ペネムに頼まれた訳でもねぇし、お前に借りがあるからとかそういうことでもねぇ。これは俺自身がしたかったからしてるだけのこと……ってことだよ」

「それは……その、イドリスはまだ私のことを」

「ちげぇよ。……そういう意味じゃねぇ。俺はもう、お前のことを──」

 殺したいなんて思ってないと、そう言おうとした俺の言葉は、俺達が歩いていた横の建物を吹き飛ばす程の衝撃にかき消されていた。

「くそっ、今度はなんだ!!」

「イドリス、様……ですか?」

 瓦礫が拭き上げた煙が薄くなり、その向こう側から聞き覚えのある声が聞こえてくる。視線をその向こうに送ると、額から血を流したペネムが瓦礫の中に沈むようにして倒れていた。

「ペネム!?」

「ウリア様まで……。お二人共、今すぐお逃げを……。スリエルはもう、形振り構わずお二人を──」

「あっははは!! そうです、そうですとも!! もう形振りなんて構いませんとも!!」

 一人の天使が、俺達の前に舞い降りる。大きく広げた翼を羽ばたかせて、土煙を撒き散らしながら。相変わらず不快な声を、まるで公演台に立っているかのように響かせている男が。

「スリエル……」

 ウリアの震える声がその名を呼ぶ。俺にとっては既に忌々しい響き。だがウリアの声に込められているのは、憐憫とそして微かな恐怖だ。

「またテメェか」

「やは、り……。追ってきました、か……」

「追いますとも、追うに決まっていましょう、地の底までも追いかけますとも!! もう中立派の取り込みも、我が派閥での権力争いもどうでもいい……。あなた方三人を殺して、それから歯向かう奴らを片っ端から潰せばいいだけの話なんですから!!」

 嗤い、叫ぶ。清廉な天使のままに、その男は狂気に満ちた呪いの言葉を吐き出していく。とても話が通じる状況ではない。とても逃げられる状況でもない。だとしたら、この男をここで倒すしかない。

 剣を構えた俺に、まるで合わせるようにウリアもまた一歩前に出てその手をスリエルの方へと向ける。その姿に思わずチラリと視線を向けた俺に、ウリアもまた一瞬だけ目配せをしてから口を開いた。

「……あなたは昔からそうね。頭はいいのに、なにか上手く行かないことがあると癇癪を起こす。……我慢強さが足りないのよ、あなたは」

「ウリア様、何を……」

 まるで……と言うよりも、思い切り相手を挑発するような物言い。彼女らしくもないそんな言葉を、ペネムは慌てて止めようとしたのだろう。だけどその言葉を、ウリアは一切無視してスリエルを睨みつけながら言葉を紡いでいく。

 その姿は、俺の知っているどのウリアの姿とも違う。まるで、いや確かに天使の長に相応しいと、そう思ってしまうほどの堂々としていて、凛々しい姿だった。

「あなたは優秀だった。そうじゃなきゃ、私の一番弟子なんて務まらないもの。だけど……自分以外をいつも下に見て、信じる勇気を持つことが最期まで出来なかった。だから私は、あなたを……」

「だから後継に指名しなかったと!? この期に及んで、まだそんなことを!! いつもいつもいつも、そうやって上から偉そうに説教して……。あなたの自分だけ善人ぶってるそんなところが、私は一番嫌いだったんですよ!!」

 燃えるような怒りをその目に浮かべ、スリエルは叫んでいた。ペネムとの戦いで負ったのだろうか。額から流れ落ちてきた血が、その瞳の白かった部分すら赤く染めていく。まるで怒りに染まっているその心を表しているかのように。その姿が天使たりえないと、そう示しているかのように。

「そん、な理由で……。あなたは、私達を……ウリア様を裏切ったの、です……か」

「……そんな理由ですって? あなたに、あなた如きに何が分かりましょうか!! ご主人さまの下で大切にされてきたあなたには!!」

「ハッ、何かと思えば子供のワガママかよ。……くだらねぇ」

 三人の言葉の応酬に、俺は思わずこぼれてしまった笑いを隠しもせずにそう言った。ウリアがどうして挑発するようなことを言っているのかは、察しはついている。それが上手くいくかは分からないが、ウリアの賭けたのなら俺も信じて乗るしか出来ないから。

 そんな俺の言葉に、スリエルは大きく目を見開いて固まっていて。そして声を恐らくは怒りに震わせながら、ゆっくりと口を開いた。

「……今、なんと?」

「テメェがやってることは、ガキの癇癪だって言ってんだよ。ああ、ウリアの判断は正しかったんだろうぜ。テメェに人……じゃねぇ、天使か。いやどっちでもいい。とにかく、テメェは誰かの上に立てる器じゃねぇ」

 挑発のため、というよりも心から思っていることだ。この男に、人の上に立つ資格はない。それは堂々としたさっきのウリアの姿や、気怠げにしていながらも配下のことをしっかりと見ていた団長の姿を、この目で見てきたからこそ思うことなのかもしれないけれど。

「おのれおのれ……人間如きが偉そうにっ!! 何も知りもしないで勝手なことばかり!!」

「ああ、何も知りやしねぇさ。でも少なくとも、お前がクズだってことは分かるぜ。それに、弱いってこともな」

「私が、弱い……?」

 唖然。その一言が相応しい声とそして表情だった。スリエルの目が大きく見開かれその赤い瞳が俺を射抜く。分かっていた、この男がこういう侮辱を受け流せないことは。それを全て分かった上で、俺はそう言ったのだ。

「ああ。これでもそれなりに剣を齧ってるからな、立ち振舞いを見れば剣の腕くらいは分かるんだよ。だから言わせてもらうが……まるで素人だぜ? それじゃ、剣を握りたての新兵と変わらねぇな」

「この……この……ふざけるなああああああ!!」

 今度こそ、我慢の限界を超えたのだろう。スリエルはほとんど獣のような叫び声を上げて、目にも止まらない速さで一直線に俺の方へと突っ込んできた。

 速さはまさしく神速。そもそも天使の全速、俺如きが走る速度は遥かに超えている。右手に生み出した剣をそのまま振り抜く動作も、無駄がなく俺の額へと一直線だ。だが、その動きは団長のものに比べれば、あまりに直線的過ぎる──。

「くっ、どうして私の剣が」

 スリエルが、驚きに目を見開く。それは自分の剣があっさりと防がれたことへの衝撃なのだろう。あり得ないことが起きたと、そう考えているのが手にとるように分かる。

 だけどそれも無理はないのだろう。俺の額へと振り降ろされたスリエルの剣は、俺が合わせるように振り上げた剣にあっさりと止められていたのだから。

「やっぱり大したことねぇな。神聖術でねじ伏せられなきゃこんなもんか?」

「何故、何故です!! 力も速さも、私の方が圧倒的に上のはずなのに……!!」

「だから腕だよ。悪いが、もっと疾い奴にボコボコにされたばっかなんでな。止まって見えるぜ、天使様よ!!」

 受け止めていたスリエルの剣を、俺は自分の剣の上を滑らせるようにして受け流した。スリエルの体制が崩れ、そのがら空きの首へと俺は剣を走らせる。

「なっ!? こっ……の!!」

 その俺の一撃を、スリエルはどういう理屈か無理矢理に空中で体を回して辛く躱した。微かに掠った剣先が、その額を切り裂いて血を微かに滲ませるのが関の山。だが、俺にとってはこの剣がやつに届くと分かっただけで十分だった。

「な、なぜ私の肌を貴様の剣如きが……」

「ああ、悪いな。実はこれ借り物の神聖武器なんだよ」

「もしかして、イドリス。その剣って……」

「ああ、あいつのだ」

 それはかつて俺が何度も打ち合った、団長の剣そのものだ。俺とウリアを見つけた時に、近くに落ちていたという剣。これをペネムが偶然でも回収してくれていたのは、本当に僥倖だった。

 その本来の持ち主がどうなったのかは気にならないわけではないが。近くに死体もなく、そしてあの団長の性格だ。ボロボロになっていたとしても、こんなものを忘れるとは俺には思えない。だとしたら何故。まさか俺に拾われることを予想して?

 ──いや、今はそんなことはどうでもいい。この手の中に、敵を打倒し得る武器があるという事実だけが重要なのだから。

「借り主には……まあ、黙って借りてるようなもんだけどな」

「神聖武器……だと……? そんな穢らわしいものを、よくもよくも私に……」

 怒りに目を曇らせているのか、それともプライドが許さないのか。スリエルは神聖術を放つのではなく、滑り込むように俺の後ろに回り込んで今度は横薙ぎのその剣を切り払ってきた。

「やっぱり遅いよ、お前」

 その一撃を、今度は俺は受け止めずに一歩だけ後ろに下がってあっさりと躱す。そしてお返しとばかりに、同じように横薙ぎの一撃を思い切り打ち込んでいく。それをスリエルは咄嗟に引き戻した剣で受けて、そして力任せに俺の剣を押し返してきた。

「邪魔をするな!! これは私の正当な復讐なんだ!! 私の、私だけの!!」

「復讐に正当なものなんてねぇんだよ!! テメェのやってることは、ただの子供のワガママだ!!」

「貴様がそれを──!!」

「俺だから言うんだよ!! 復讐に目を曇らせてた俺だから!!」

 剣撃の応酬。だが、かつて団長と交わしたものとはまるで違う。手を抜いているわけではない。だが身を焦がすような焦燥感も、そして燃え上がるような高揚感もない。ウリアが手を出してこないのも、きっとそれを分かっているからなのだろう。

 神聖術を使われたら、こんな戦いは一瞬で終わる。だから、奴が怒りに我を忘れている今が勝負なのだ。俺と剣で戦うと、その選択肢しか思い浮かべられない今が唯一の勝機なのだ。そして剣の勝負なら、俺がこんな男に負けるなんてことは絶対にあり得ない。

「くそっ、くそっ、くそっ!! これならどうだ……っ!!」

「はっ、それは最悪の選択だな」

 大ぶりの、大上段からの一撃。その一撃を俺はわざと受け止めて、そして鍔競り合いの体制に持っていく。必死に込めてくるその力は、決して弱くなどはない。だが、ただ真っ直ぐに込められてくるだけの力など、いくらでも利用できる。

 だから俺は、いつか団長にそして騎士団にやってみせたように、わざと鍔競り合いの力を抜いてから、手首を絡めるようにしてスリエルの持っていた剣を跳ね上げた。

「……は?」

 スリエルの持っていた白金の剣が宙に舞い、そして奴の視線がそのまま上を向く。完全に貰ったと思った。だから俺はただ真っ直ぐに、スリエルの首へと剣を走らせて。しかし跳ね上げられた剣を追うように、まるで飛び立つように空中へ飛び上がったスリエルの足を切り裂くことしか出来なかった。

「チッ、そんなのありかよ。ウリア!!」

「分かってる!!」

 一言だけで全てが伝わった。ウリアの放った風の刃が、スリエルの飛び上がった先を読んでいたかのように、一斉に襲いかかる。

「このっ、こんな程度の神聖術で!! こうなればお前らまとめて、私の神聖術で……」

 だが、万全でないウリアの神聖術が通じる相手ではない。手に掴んだ剣のひと払いで、スリエルは殺到した風の刃の全てを吹き飛ばしてしまう。そう、よりによって唯一の武器を握った右腕を思い切り振り払って。

「イドリス、跳んで!!」

「ああっ!!」

 ウリアの叫び声に、俺はほとんど反射的に空中へと飛び上がった。浮かんでいるスリエルは、到底俺の刃が届くような高さではない。だがそれは、俺が地面に足をつけていればの話だ。

 飛び上がった俺の足元には、突然吹いた風がまるで足場を形作るかのように渦巻いていた。それはウリアが操る風のマナだ。その即席の足場は、まるで俺がどこに跳ぶかを分かっていたかのようで。俺はその足場を、しっかりと両の足で踏みしめる。

「終わりだ!!」

「まっ、待て!! 二人がかりなんて卑怯じゃ──」

「テメェにだけは言われたくねぇんだよ!!」

 足元を形つくっていた風のマナと、そして俺が自分で足に纏わせた風のマナ。その二つは、合図なんてするまでもなくピッタリと、同時に俺の体を押し上げるように暴風へと変わり吹き荒れる。

 そして次の瞬間に、俺の体はスリエルの遥か上方にあって。そして振り切った俺の剣は、スリエルの右腕を肩口から斬り飛ばしていた。

「があああああああ!! わた、私の腕が!! 私の神聖な右腕が!!」

 血飛沫が迸り、叫び声が木霊する。手応えは十分。想像以上の加速で首を狙えこそしなかったが、それこそ団長のような魔術の持ち主でもなければこれで終わりだろう。

 その証拠に、空を飛ぶ術を持たない俺に続くようにスリエルもまた地面へと落ちていくのが見える。既に飛ぶことすら出来ず、肩を左手で抑えながら墜ちるだけ。歴戦の戦士でも、片腕を失った直後に立ち上がって戦うことが出来る者は稀だという。

 あの天使のことを侮っているつもりはないが、正直に言って彼が今の状態から立ち上がれるような気力を持っているようには見えなかった。

「……まあ、勝った気はしねぇけどな。あいつの言うことも、まあ尤もだ」

 そもそもが騙し討ちの領域を出ない戦いだ。団長の神聖武器を持ち出して、更に挑発した上で得意な剣の土俵に引きずり込む。もしも相手が冷静になって、神聖術を使われたらそこで終わり。俺がスリエルに勝つには、それこそ卑怯で綱渡りな手段しかなかった。

「よっ……と。ふぅ、死ぬかと思った」

 随分と長い滞空時間を経て地面に着地した俺は、思わずため息を吐き出してから剣を鞘にしまう。それとほとんど同時、ウリアがほとんど飛んでくるような勢いで飛び込んできて、俺は思わずたたらを踏みそうになるのをなんとかこらえる。

「イドリス!! よかった……怪我はない?」

「ねぇよ。……お前のおかげでな」

 彼女の頭を撫でながら言う。本当に何もかもがウリアのおかげだ。彼女が足場を作ってくれたのは勿論だが、ウリアの挑発がなければ到底彼を近接戦に誘い込むことは出来なかった。だからこの勝利は、俺のものなんかじゃ決してない。

「よかった……。もし怪我をしてたらって……」

「平気だよ。それよりお前は?」

「うん、私は平気。えっと……ふふっ、イドリスのおかげで」

「なんだよそれ、俺の真似か?」

 たった数日ぶりだと言うのに、ウリアの無邪気な笑顔が妙に懐かしい。その笑顔に釣られるように頬が緩んで、そして胸の中に温かいものが満ちていくのが分かってしまう。本当なら、ずっとこうしていたいくらいなのだが。

「腕……俺の右腕……。どうして人間如きにこの俺が……。許さない、許さないぞ!!」

 俺は自らの血でその真っ白だった翼を赤く染めながら、ゆっくりと立ち上がるスリエルの方へと視線を向ける。明らかに致命傷。傷口溢れ出した鮮血は、綺麗に敷き詰められた石畳の隙間を満たすようにどこまでも広がっていく。

「スリエル、もう止めて。決着は付いたでしょう? その傷で無茶をしたら、いくらあなただって……」

「うるさい!! もう何もかもどうでもいいって言っただろ!! 殺す……殺してやる。絶対に、お前らだけは俺が殺してやる……」

 血を吐き出しながら、スリエルは呪いの言葉を吐き出す。その姿に、俺はいつか見たかつての自分の姿を見た気がした。

 世界を呪い、憎しみをその瞳に満たして、殺意を胸に燃やしている男。かつての俺は、こんな有様だったのかと思ってしまう。そしてそれはきっと、あり得たかもしれない俺の可能性だ。

「……恨んでくれて構わねぇよ。だけど、それで自棄になっても……後で辛いだけだぜ」

「まだ間に合うわ。今ならまだ、後戻りはできる。だから……」

「ふっ……ははっ、あっははは!! 今更、そんな言葉を吐くな!! この状態では、派閥のなかでの立場だってもう終わりだ。俺にはもう後なんて残ってないんだよ!!」

 叫ぶスリエルの体が輝き始める。天使神聖術の発動に伴う輝き。しかしかつて見たウリアのものとはまるで違う、禍々しい真紅の輝きがあの時見たものよりも遥かに強く俺の視界に広がっていく。まるで流した血潮そのものが輝いていくような。

「この命だって要るものか……。お前らを殺すためになら、全部燃やし尽くしても構わない」

「スリエル、何を……」

「お綺麗な術しか使わないお前らは知らないだろうな!! これは俺の命そのものを喰らって全てを破壊する禁術。お前ら全員道連れにしてやるんだよ!!」

 その禍々しい輝きに、俺はただ立ち尽くしていた。曲がりなりにも神聖術を使えるようになったからこそ分かる絶望。もうこれは、どうしようもない。少なくとも人間の俺は、この術から生きて逃れる術などないと、ハッキリと確信してしまう。

「チッ、こんなあっさりと道連れかよ……。これだから天使は嫌いなんだ」

「そこまで、するのですか……。お二人共、今すぐお逃げください!! 私がなんとか勢いを弱めます。それならば……」

 ペネムが悲痛な叫びを上げる。だが俺はただ立ち尽くしていて、そしてウリアはその言葉と正反対にスリエルの方へと歩き始めていた。

「いいえ、逃げるのは二人よ。……私が、二人を守るから」

「なに、言ってんだよ……。お前一人ならどうとでも」

「……そんなこと、出来るわけないじゃない」

 彼女の体が輝き、そしてかつて見た白い光の波紋が彼女を纏うように重なっていく。気が付けば小さく灰色に縮こまっていたはずの翼を大きく広げ、そしてその翼がどんどんと黒くなっていくことに俺は気が付いてしまった。

「おい、なにしてんだよ!! そんなことしたらお前は……。俺はなんのためにここまで」

「……ごめんね。でも、こうなったのは私のせいだから。私が責任を取らなくっちゃ。それに……」

 二色の眩い光の中で、もう彼女の姿すら見えはしない。だけどそれでも、俺は目を見開いて彼女のことを見つめていた。見えるはずのない、彼女の少しだけ困ったような、それでいて嬉しそうな笑顔が見える。そして、

「私、イドリスのことが好きだから。だから……イドリスには生きててほしいの。イドリスの居ない世界で、私だけ生きてたって仕方ないもの」

 最後に聞いた彼女のそんな言葉はきっと、頬を赤く染めながら言っているのだと分かる。分かってしまった。そしてその言葉と同時に、世界の何もかもが真っ白に染まった。

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