5章 命の使い道
第1話
あれから、どれくらいの距離を歩いたのだろう。外套を被せられて、整然と石畳が並べられた道をただただ歩いた。ようやく腰を落ち着けたここがどこなのかも、周りで慌ただしく駆け回る人たちが何を話しているのかも、今の俺には何もかもどうでもいい。
どうでもいいことなのに、周りから見知った名前が聞こえる度に、俺の心は何度も頭をもたげようとして。そしてその度、冷静な自分が今更なにをと囁きかけてくる。起き上がったとして、何を果たそうというのかと。
「イドリス様、お水をお持ちしました」
そんな状態の俺でも気遣ってくれる人が居る。いや、人ではなく天使か。でも、もうどっちだっていい。人でも天使でも、俺はもう誰とも話したくなんてない。
「喉なんて……乾いてねぇよ」
「そういうわけにはいきません。長く歩いて、水分が足りていないはずです」
「……放っておいてくれ」
目の前に差し出された水も無視して、俺は視線を下げて俯いた。こうしていれば、いつか誰もが俺に話しかけてこなくなるはず。そうすれば、俺の無意味だった命を誰に迷惑をかけることもなく終わらせられるはずだから。
「……申し訳ありませんが、私がイドリス様を放っておくなどあり得ません。イドリス様自身がどれだけ望まれても、私はあなたを助けなければならない」
それなのに、引っ込められた水の代わりに差し出されたのは、今の俺にとっては絶望に等しい言葉だった。
それは聞きようによっては救いの言葉なのかもしれない。今の俺でなければ、その言葉に勇気をもらえることが出来たのかもしれない。だけど、駄目だった。彼の言葉が本気だと分かれば分かるほど、その言葉は俺の胸に深く突き刺さる。
「……申し訳ないなら、やめてくれよ」
「申し訳ないとは思いますが、私はあなたのことを諦めない。諦めるわけには、いかないのです」
痛みを堪えているような、張り詰めた声だった。
「なん、で……お前がそこまで言うんだよ……。俺なんて、放っておけばいいだろ」
「出来ません、絶対に」
後悔を噛み締めているような、震えた声だった。
「頼むから、放っておいてくれ……。俺は一人になりたいんだ。俺は一人で死にたいんだよ。……そもそもお前には、俺なんて──」
「関係ないことなどありません!!」
まるで無理矢理に絞り出したような、そんな叫び声だった。
俺の言葉を遮ったその声に、俺は思わず顔を上げる。そこにあったのは、俺を真っ直ぐに見つめる深緑色の瞳だ。その瞳は不安と後悔に揺れながらも、覚悟を示すかのように俺を真っ直ぐ見つめるのだけは止めなかった。
「関係ないはずが……ないでしょう。……それがウリア様の、願いなのですから。きっとウリア様は、あなたに生きていてほしいと願ってその身を犠牲にしようとしているのですから……」
「ウリアの、願い……? 俺が生きていることが……ウリアの?」
「そうです。……イドリス様が目を覚ます前に、ウリア様が言っていました。今の私の願いは、イドリスが生きていることだけだと。そしてそのためなら、どんな犠牲だって払ってみせる……と」
「なんで、そんなこと……言うんだよ……。俺なんかのために、なんで……。俺はあいつに、なにも返せてやしないのに……」
呟きとともに、心に微かな、しかし確かな波紋が胸を広がっていく。彼女の望み、彼女の願い。何もないのだと思っていた。彼女には、自分の望みなどないのだと。それなのに、ウリアが望んでいたのがそんなことだったなんて。
「そんなことはありませんよ。……これを」
「……これって」
ペネムが出してきたのは、一冊の本だった。見覚えのある一冊の本を俺は受け取る。煤で汚れたその表紙をそっと撫でると、出てきたのは日記帳だった。
「ウリア様のお部屋から見つかったのです。本当であれば、読むべきではないとは思ったのですが……」
やはり、見間違いなどではない。いや、見間違えるはずがないのだ。俺がシトニーの街で彼女に買ったもの。旅の途中でも、彼女が何度も開いているのを俺は見た。一度、その手元を見ようとして酷く拒絶されたのを今も覚えている。
「これを、俺に読めって?」
「はい。……あなただけは、それを読む権利があります」
ペネムの言葉に従って、俺はそっとその本を開いた。最初に目に入ったのは、綺麗な筆跡で書かれた文字。そして最初に書かれていたのは、
──あの人の子供に、やっと会えた。
そんな、言葉だった。
『ギャビーの子供、あの時の子供が生きててくれた。名前はイドリス。私のことを仇だと思って、私のことを憎んでいるけれど。それでも無事に生きて育ってくれていた』
綴られている文字を、俺は静かに辿っていく。一文字一文字を決して見逃さないようにしっかりと、早鐘を打つ心臓も無視して。
『イドリスは口調こそ荒っぽいけど、実はとても優しい人なの。この日記も、それからとっても可愛いお洋服も買ってくれて。今の私は、イドリスにもらってばっかり……。早くイドリスに、ちゃんとお返しがしたいな』
まるで彼女がすぐ近くで日記を読み上げてくれるみたいに、彼女の声がハッキリと聞こえてくる。このページは、きっと買ったその日に書かれたものなのだろう。あの宿屋のテーブルで、月明かりの下で何かを書いていた後ろ姿を思い出す。
『……イドリスが私のことを憎んでいるのは少しだけ辛いけれど、きっと仕方がないこと。私はギャビーのことを守れなかった。それから、イドリスが本当は手に入れるはずだった幸せも。だから私は、憎まれることでイドリスの生きる理由になるなら、仇として憎まれていても構わない』
あの日、銀色の髪に月光を受けながら机に向かっていた彼女。その後ろ姿を見て、呑気なものだと呆れていた自分を思い出して俺は歯を食いしばった。彼女の文字に込められている想いを、よくも呑気だと吐き捨てたなと叫びたくなる。
『イドリスが神聖術を使えるようになった!! ギャビーと同じ風の神聖術が得意みたい。やっぱり親子なのね。これで私が死んでもきっと大丈夫。でも、本当ならずっとイドリスと一緒に居たいな。こんなことを願うこと自体が許されないって、分かってるけど』
ページを捲る手が震えて、視界はすっかり涙で歪んでいた。だけどそれでも、彼女の言葉を追うのだけは止まらない。
『イドリスが目を覚まさない……。あの団長と戦うために無茶をしたみたい。オドが殆ど空っぽで、私の天使神聖術で少しは足しになったかもしれないけれど。今の私に出来ることは、隣りにいることしか……』
そこに書かれている言葉はいつだって、俺のことを想ってくれていた。俺の成長で喜んで、俺の無事を願って、そして俺の怪我で悲しんでくれていた。
『イドリスが眠ってからもう三日。このまま目を覚まさなかったらどうしよう。私はギャビーだけでなく、イドリスのことも守れないの? お願いギャビー、力を貸して。イドリスが生きていてくれるなら、私はどうなっても構わないから』
「……くそっ、勝手なことばっかり、言いやがって……」
思わず涙が溢れる。熱い雫が俺の頬を伝い、彼女の日記に落ちそうになってから、俺は慌てて顔を上げる。
どうしてか、俺なんかの涙で彼女に日記を汚したくなかった。彼女の書いた文字が滲んでしまうのが、どうしても嫌だったから。
「それが、ウリア様の気持ちなのです。……分かって、いただけましたか?」
ペネムの瞳が大きく揺れる。彼がどれだけウリアのことを慕っていたのかが、その瞳から伝わってくる。その瞳に、俺は返す言葉なんてどこにもなくって。だからせめて、彼の目をしっかりと見返しながらしっかりと頷いた。
「ああ……分かった。確かにお前の言うとおりだ。それより、ギャビーってのはもしかして……」
「……はい。イドリス様のお母君は、ウリア様のご友人だったのです。そして誰よりも強く気高い天使でした。誰もがガブリエル様に憧れて、そして誰もがガブリエル様を愛していた」
「母さんが天使……か。そんな気はしてたけど、流石に信じられねぇな……」
この日記を読んだら流石の俺にも想像はつく。そしてそうだと考えれば、旅の途中で彼女が口にしていた言葉や俺を見る時の優しい目付きにも納得がいくのだ。
「無理もありません、イドリス様は正真正銘の人間なのですから。神聖術の扱いに人の身にして長けているのは、ガブリエル様の才を継がれたのかもしれません。ガブリエル様は天使の力に頼らずとも、誰よりもマナの扱いに長けておられましたので」
懐かしむような声でペネムは続ける。
「まあとにかく、確かにあなたのお母様は天使……それもウリア様の先代の天使長だったのですよ。なので言ってしまえば、ウリア様の師匠のようなものですね」
「母さんがあいつの師匠……か」
ウリアに神聖術を教える母さんの姿を想像して、俺は小さく笑みをこぼす。ああ、確かに目に浮かぶ。母さんがにこやかに笑いながらサラッと難しい要求をして、そしてウリアが目を回しているような姿が。
「二人は姉妹のように仲がよかった。ですがある日ガブリエル様は議会を去り、自ら堕天の儀を受けて人の身へとなったのです。次の天使長をウリア様に託されて」
「なんでそんなことを……」
「簡単です。あなたのお父様のことを、愛していたからですよ。私も細かい経緯は知りませんが、あなたのお父様と夫婦になるために、ガブリエル様は外界へと降られました。そしてお二人の間に生まれたのが、イドリス様……あなたなのです」
自分の母親が天使だった。それは、もう疑うつもりはない。だけど、もしもそうなのだとしたら。あの日俺が紅蓮に燃える世界で見た彼女は、俺の両親を殺した仇などではなく。
「……やっぱり、助けられてばっかりじゃねぇか……」
絞り出すように呟いた。あの日、血に濡れた剣についていたのは俺の両親のものなどではなく、俺たちを襲った刺客のもので。そしてあの日、彼女が来ていなければ俺はきっとあの場で──。
「なんだよ、それ……。勝手なことばっかりいいやがって。俺に生きていて欲しい? そのためならなんだってする? ……ふざけんな」
胸の奥に熱が宿る。燃えるその感情は、怒り。今にも叫びだしたくなるほどの激しい怒りの炎が、冷え切っていた胸を内側から灼くように燃える。
ウリアを連れ去った、あのいけ好かないスリエルに腹が立った。何も出来ずただ見ているしか出来なかった、無力な自分に腹が立った。そして身勝手な願いを口にした、ウリアに腹が立った。
「俺はあいつが何かを願うなら、それを叶えたいって思ってた。だけど違った。俺に生きていて欲しいなんて願いなんて知ったことか。ああ、そんな願いよりも俺は」
──生きていて、ほしかったんだ。
生きたいと望んで欲しかった。助けてくれと叫んで欲しかった。彼女が仇じゃないと分かった時から……いや、きっとそれよりもずっと前から。俺が望んでいたのは、そんなことだけだったのに。
「……やはり、イドリス様は諦めたわけではなかったのですね。よかった、それでこそウリア様とここまで旅をしてきたお方です」
「よかったって……。でも今更、俺がこんなことを言ったところで、あいつはスリエルとかいう野郎に連れてかれちまった。……断頭台に送るって、そう言って」
ウリアは既に連れ去られ、どこに行ったかすらも分からない。そしてそもそも、あんな天使相手に俺が出来ることなんて、何があるのだろう。
「やはり襲ってきたのはスリエルでしたか。……となると、ウリア様は少なくともまだご健在のはずです」
「なんでそんなことが分かるんだよ? 少し話しただけだけど、あの男は明らかに正気じゃなかった。まるで一人だけ、劇場の舞台に居るみたいな……」
「ええ、だからです。あの男、スリエルは過激派の筆頭……。つまり、今となっては天使の長とでも言うべき存在です。そしてその立場まで上り詰めた理由は、実力はもちろんありますが……その弁舌の力が大きいのです」
「弁舌……? 口八丁で上り詰めたってのか? あんな天使の世界で」
正直に言って、とてもじゃないが信じられない。確かにやたらと喋る男だなとは思っていたが、あんな弁舌を聞いてあの男を信用出来るものか。まだあの圧倒的な力で周囲を従えていると言われたほうが納得がいく。
あの背筋を舐め回されるような喋り方と、そして吐き気がするほどの悪辣さ。あんなに不快なものを、あれ以上に邪悪と呼ぶべき存在を、俺は他に知らない。だがペネムは俺の疑問に、ハッキリと頷いて見せた。
「はい、そうです。ウリア様を罠に嵌め、元居た地位から蹴落としたのがあの男。……あの男は、あなたのお母様をウリア様が殺害したことに仕立て上げました。そしてあろうことかウリア様が共和国の人間に通じていて、帝国を陥れようとしていると糾弾したのです」
「なんだよそれ……。天使たちは、そんなことを信じたのか?」
「正直に言えば、誰も信じてなどいなかったでしょう。ですが、ウリア様の冤罪を晴らす材料を我々が集めるよりも早く、奴らはウリア様の堕天を執行しようとしました。それは我々が辛うじて阻止しましたが、それと同時に多くの穏健派の天使も謂れのない罪で捕まり……」
「それで今は、隠れ家でコソコソするしかなくなっちまったってわけか」
確かに穏健派の実質的なトップがウリアだったとすれば、その失脚は急進派にとってはまたとないチャンスだろう。しかし、ただ一人の元天使の救援に失敗したことを、そこまで持っていくなんて。
「……確かにやり手なんだろうな、話だけ聞いてると。だけどそれと、ウリアがまだ無事なことにどう繋がるんだよ?」
そもそも俺にとっては、どうやってあの男が今の地位まで上り詰めたかなんてどうだっていい。今の俺に興味があるのは、ただウリアの無事だけだ。
「それはですね、あの男にとってもウリア様は生命線ということです。ウリア様の失脚を手柄にして今の地位を手に入れたのがスリエルです。だからこそ、ウリア様を暗殺してしまっては」
「……他のやつに自分が糾弾される隙を作っちまう、ってことか」
俺の言葉に、ペネムが頷く。政治の世界は俺にはよくわからないが、自分の地位を脅かすものは排除するのが道理だ。そして狡猾であるほど、確実に存在するリスクは無視できない。例えそこに、逆転の可能性が隠されているのだとしても。
「そういうことです。だからあの男は、ウリア様を正しく裁かねばならない。恐らくは、形式だけの議会を開催してから断頭台の使用の許可を採決dしようとするはず。ですので、まだチャンスは……望みはあります」
まるで自分に言い聞かせるように、ペネムはそう口にする。そこにどれだけの想いが込められているのかは、俺には分からない。ウリアのことを慕い尊敬している彼のことだ、その内心はとても平静ではないのだろう。
だけどそれでも、彼はまだ自分にできることを探し、そして希望をその瞳に宿している。そんな彼を前に、俺だけ目を伏せることはもう出来なかった。自分の望みを、見つけてしまったのだから。
「……分かった。なら、俺がやるべきことを教えてくれ。可能性が少しでも高まるなら、なんだってやってやる」
「ええ、それでは……イドリス様にしか出来ない、とびきり危険な役回りを。本当なら、あなたを危険な目に合わせたくはないのですが……」
「そんなのは、俺が許さねぇよ」
「ですよね、分かっていました。……分かっていて、私はこの話をしたんです。イドリス様なら、そう言うだろうと思って」
申し訳無さそうに視線を下げるペネムに、俺はため息をこぼしそうになるのをなんとか抑え込んでから口を開く。
「いいんだよ、お前はそれで。そうじゃなきゃ……俺が困る」
顔を上げたペネムの目を、今度は俺の方からしっかりと見据える。どれだけの可能性があるのかは分からない。希望と言うにはあまりに細い、今にも途切れそうな糸。だけど、今の俺にとっては紛れもない道標だ。
だから例えペネムが罪悪感に胸を灼かれ、今にも泣きそうな顔をしていたとしても、俺がすることは変わらない。ただしっかりと前を向いて、自分の膝に力を入れて立ち上がって。そしてただ自分が思うことを、俺はきっと下手くそな笑みを浮かべて口にする。
「それに俺は感謝してるんだ。お前のおかげで、自分の願いに気が付けた。あいつのために、俺に出来ることがまだあるって教えてくれた。……それだけで、十分だ」
「そうですか……。分かりました。では、イドリス様にはこちらを。この剣は、あなたが振るうべきものですから」
「これは……」
ペネムから俺は一振りの剣を受け取る。見覚えのある意匠。だけどそんなものを見なくたって、持っただけでそれがなんなのかハッキリと分かってしまう。だからこそ俺は、ペネムの目を見返しながらハッキリと頷いた。
反撃はこれから。既に狼煙は上げられて、状況は絶望的と言っていい。敵の戦力は未知数、こちらの最大戦力は既に奪われて、更に俺はただの人間だ。だけど、もしもこの状況をひっくり返せるのだとしたら、俺はなんだってやってみせる。その結果、俺がどうなるのだとしても。
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