第3話
「なに……が」
頭が痛い、腕が痛い、背中が痛い。痛くない場所なんて全身のどこにもない。視界はボヤケて、耳もほとんど聞こえない。だけどその何もかもを無視して、俺はなんとか顔を上げる。轟音に続いて聞こえた彼女の声を探すように。
「おやおやおや、まず真っ先に穢らわしい人間を始末しようと思ったのですが……流石に穏健派の筆頭天使。いえ……もう、元でしたかねぇ」
しかし最初に聞こえてきたのは、さっきも聞いた不快な声。その声が言っている言葉の意味も分からないまま、その声が聞こえてきた方向へとっさに視線を動かした。
そこに居たのは、一人の天使だ。俺よりも遥かに長い背丈に、大仰な金の飾りのついた白いマント。燃えるように赤い瞳と下卑た笑い声を上げるその口は、心から楽しそうに細められていて。そして奇しくもウリアと同じ、白銀に輝く長い髪を持った男。
「共和国の連中に情報を流して追い立てさせた甲斐がありました。国境を超えられてしまった時はもう無理かと思いましたが、まさかここまで上手くいくとは」
その長い右腕が、何かを持ち上げている。何かを物みたいにぶら下げて、下卑た笑いを浮かべている。その何かを俺はゆっくりと目で追いかけて、
「イドリス……。にげ、て」
「あはははは!! お優しいことですねウリア様。こんな状況で、そんな言葉が口に出来るとはねぇ」
黒が混じった銀色の髪と、そして苦しそうに細められた空色の瞳がそこにはあった。彼女の細い喉に男の手が食い込み、その細い体を持ち上げている。その光景を見た途端、体中の痛みは消え去っていた。
「てっ……めぇ!!」
体が動く。立ち上がれる。感覚はほとんどないままで、剣すらこの手にはありはしない。だけど足と腕が動くのなら、後はなんでもいい。
何が起きたのかは分からない。あの天使が何者なのか、どうして襲撃を受けたのか、ペネムは無事なのか。だけどそんな些末なことは、頭の中に思い浮かびすらしなかった。
「ん……? ほう、まだ立てるのですか。いくら庇われたとは言っても、立てるほど浅い傷ではないはずなのですがねぇ」
「テメェ……。その汚い手を、今すぐに──」
「イドリス、駄目!!」
足を踏み出しながら、俺は周りに散らばっているマナをかき集める。風も炎も、この際なんだっていい。とにかく暴れまわるマナを手の平に集め、圧縮しそして刃に変えていく。出来ると思った。一度やっているあの技なら、もう一度出来るはずだと。
落ちていた瓦礫を広い、まるで剣を持つように構える。そこにマナを圧縮した剣を形作っていく。手の平が炎で灼かれ、風が腕を切り裂く。自分の身すらも傷付ける一撃。その渾身の一撃を、俺は相手に叩きようとして。
「身の程を知らない人間ほど、吐き気のするものはありませんねぇ」
その直前。男のただの一言によって、俺が掻き集めていたマナは霧散していた。
「は……?」
何が起きたのか分からない。確かにさっきまで、俺の手の平には荒れ狂いそうなほどのマナがあって、その全てが相手を切り裂くはずだった。マナを手放したわけでも、制御しきれなかったわけでもない。それなのに今の俺の手には、ただの瓦礫の一片が握りしめられているだけで。
「消えなさい、人間」
目の前で、男の手が振るわれるのが見える。何をしているのかは分からない。だが途轍もない力の奔流が、俺の方に向かっているのだけはなんとなく分かる。
抗いようのない一撃。回避も耐えることも許されない、確実に俺を殺す一撃。その一撃に俺は何も出来ず、しかし避けられないはずの死は目の前に現れた光の壁に阻まれていた。
「おやおや、まだこんなことをする余力が残っていたとは。……そんなにこの人間のことが大事なんですかねぇ?」
「そう……よ。ねぇスリエル。あなた、私が目的なんでしょ」
「はい、はい。それはもちろん、私達の目的はあなただけ。あなたさえいなければ、穏健派など物の数ではありませんので」
いつの間にか、スリエルと呼ばれていた天使の拘束から逃れていたのか。ウリアはまるで俺を庇うように、その天使と俺の間に立ちふさがった。
「それなら、私だけ連れていきなさい。……私に本気で抵抗されたら、あなただって困るんじゃないの?」
「……おい、お前。何を言って……」
ウリアの言っている言葉の意味が、分かっているのに理解できない。まるでそんな、俺を助けるために大人しく捕まるようなことを、こんな男相手に言うのか。
止めたい。いや、止めるべきだ。そうじゃなきゃ、俺とウリアがここまで来た意味がない。俺の生きている意味も、彼女が生きていた意味も、そして俺達の旅の意味も。全てが──。
「よもやよもや!! そこまで人間が大事と言いますか!! いいでしょう、あなたの提案に乗ってあげましょうとも。こんな虫けらを一匹見逃すだけで、あなたを断頭台に送れるのならばそうしましょう!!」
けたたましい笑い声が聞こえる。この状況を一人楽しんで、そして笑っている声が。だけど大声で笑う男なんかよりも、俺はウリアの髪がさっきまでよりも黒くなってしまっていることや、その小さな肩が震えていることしか目に入りはしなくて。
「おい、勝手に決めるんじゃねぇ!! ここで諦めたら、俺はどうして──」
「ごめんね、イドリス」
止めようと思った。あんな奴、二人でさっさと倒そうと言うつもりだった。だけど振り返ったウリアの笑顔と、そしてその瞳からこぼれ落ちる一滴の雫を前にして、俺は何も言うことが出来なくなっていた。
どうして、そんな寂しそうな笑顔を俺に向けるのか。どうして、そんな悲しそうな笑顔を俺に向けるのか。そしてどうして、そんな申し訳無さそうな笑顔を俺に向けるのか。その何もかもが理解できなくって、だけどその全てがきっと俺のためなんだということだけは、分かってしまった。
「あなたに……殺されて、あげられなくて。……ごめんなさい」
「ウリ、ア。俺は──」
「殺されてあげられなくて? ……ははっ、あっははは。もしやもしやもしかして、あなたはこの愚かな元天使を仇だと?」
俺の言葉を遮って、まるで半狂乱になってしまったような笑い声が室内に響き渡る。下衆の笑い声だ。だがその言葉は、流石に無視できなかった。
「……だったら、どうだっていうんだ」
「やめて、スリエル。そのことは」
「あなたは本当に愚かですね。ああ、本当に愚か。自らが被せられた罪を!!あなたはあろうことか自ら肯定したのですね?」
心の底から楽しげに、スリエルは俺とウリアのことを見下してあざ笑う。被せられた罪と誤解。その言葉が指し示す意味に、俺は思わず声を震わせて口を開く。
「被せられた……だって? それって──」
「やめて!!」
ウリアの叫び声と共に、室内に突風が吹き荒れる。まるで彼女の引き裂かれるような叫び声に呼応するようなその風に、そして初めて聞く彼女の悲痛な声に。俺は言葉を失って、ただ唖然と彼女を見つめるしか出来なかった。
「その話だけは……しないで」
彼女の元に、マナが集まっていくのが肌で分かる。ゆっくりと、だけど確実に。団長との戦いを見ていた俺の背筋が凍る程の、膨大な量のマナが。
きっとこれが初めて見る彼女の本気。初めて見る、本気で怒った彼女の姿なのだろう。だがそんなウリアに、スリエルは相変わらず余裕を崩さず下卑た笑顔を浮かべている。
「おやおや、本気で怒らせてしまいましたか。ですがもうあなたには何もかもが遅い。今あなたが本気を出したとしたら、後ろの彼はどうなるのでしょうね?」
「……そうね、分かってる。私はあなたに付いていくしか無い。でも……それでいいの。あの時の約束は、きっと守れたから」
「おい、何言って……。お前は、だって……」
声が震える。情けないくらいに、かすれた声が俺の喉からこぼれ落ちる。振り返ったウリアの、優しい微笑みが目に入って。そしてその、透き通った空色の瞳が俺を目を真っ直ぐに射抜く。
「……ごめんね、イドリス。あなたに……殺されてあげられなくて」
「やめろ……今更そんなこと。俺は本当は、お前のことを……」
そんな言葉を、俺はお前から聞きたいんじゃない。謝罪なんて要らない。そんな優しい笑みなんて要らない。俺が欲しいのは──。
「あなたは、生きて。誰かに憎しみを燃やさないでも、あなたは優しく生きていける。……ううん、生きていて欲しい。だってイドリスは」
──強いもん。
その言葉を最後に、ウリアは俺に背中を向けて歩いていく。その背中に俺は手を伸ばして、だけどその後ろ髪すらも掴むことすら出来なくって。瞬きをした時には既に、俺と旅を共にした白銀と漆黒の髪の少女の姿は、どこにも居なくなっていた。
『それじゃ、私の名前を呼んで。私は……ウリア』
あの笑顔が、瞼の裏からこびり付いて離れない。
『よかった、イドリスが優しくて』
あの声が、頭の中を響いて消えない。
『ありがとう、私のことを守ってくれて。あなたは必ず、私が……』
あの草原で、あの宿屋で、あの街で、そしてもう砕けてしまったこの部屋のベッドで。彼女が俺に向けてくれた笑顔と言葉が、何度も頭の中を流れていく。忘れない。忘れられるはずがない。
それなのに、ついさっき向けてくれたはずのその笑顔も、どこか遠くに行ってしまったみたいに感じてしまって。
「くそっ……!! くそっ!!」
激情のままに俺は地面を殴りつけた。体に、ようやく心が追い付いてくる。空っぽだった胸の内を埋めるように湧き上がってくるのは、怒りと後悔と……そして悔しさだ。
出会った時は仇だと知って、ただ憎いとしか思わなかった。その言動の全てに腹が立ってイライラして、そして絶対に理解なんて出来ないと思った。どうして自分を殺すと言う俺の刃を、その首で受け入れようとするのかと。どうしてそんなにも、澄んだ瞳を真っ直ぐ俺に向けるのかと。
──どうして生きたいと、そんな言葉すら言ってくれないのかと。
「何が、強いもんだ……。俺はこんなに、弱いのに……」
何かを憎まないと、生きていられなかった。両親も家も、幸せな生活の何もかもを奪われて、憎しみを燃やさなければ自分を保てなかったのが俺だ。何も出来なかった自分の無力さを、誰かに押し付けないと生きていけない程に弱い。
今なら分かる、ウリアがどうして自分のことを仇だと言ったのか。あの日、憎しみに満ちた俺の眼差しと言葉を、どうして否定しなかったのか。あの紅蓮の世界の中で俺に向けた空色の瞳に、どれだけの悲しみと後悔が込められていたのかを。俺がそれを自分の身を守るために、どれだけ歪めてしまっていたのかを。
「全部……全部、俺のせいじゃねぇか……っ!!」
瓦礫を持っていた手から血が滲み、食いしばった歯が砕けそうになる。今更こんなことをしても意味はないと分かっているのに、いっそのこと手の平も歯も砕けてしまえばいいと。そうすることで、後悔で潰れそうな胸が少しでも軽くなるとでも思っているかのように。
何もかもが無駄だった。そもそもこの旅に意味なんてなかった。ただ自分の弱さに彼女を付き合わせて、そして傷付けただけだった。最初から彼女の優しさに守られていて、俺が彼女のために出来たことなんて一つだってなかった。
あの時、憎しみの目を向けられた時、彼女は何を思ったのだろう。あの時、俺と契約を交わした時、彼女は何を思ったのだろう。そして、俺の背中に寄り添って一緒に眠った時、彼女は何を想ったのだろう。
「……ス様!! イドリス様!! ……しっかりしてください!!」
そんな後悔に埋もれてしまいそうな心は、頬に走った衝撃と叫び声で無理矢理に引き起こされてしまった。顔を上げれば目の前には、頬とその美しい髪を煤に染めたペネムの姿があって。
「ペネム……か」
「はい。お怪我はありませんか? 急進派に嗅ぎつけられた以上、ひとまずここを離れなければ」
「……俺は、大丈夫だ。怪我一つねぇよ。……あいつが、守ってくれたから……。けど、ウリアが……」
「存じております。……本当は今すぐに追いかけたい。ですがウリア様が守ったあなたを、みすみす死なせるわけにはいかない」
ペネムに殆ど無理やり腕を引かれ、俺は立ち上がる。立ち上がる体力も、逃げ出す気力もなかった。いっそこのまま殺してもらえるのなら、ここに留まっていたいとすら思った。だけど留まろうとする気力すらも、今の俺にはなくて。
ただ俺の頭の中には、今までに聞いた彼女の言葉と、そして今までに見た彼女の笑顔だけが、ぐるぐると回り続けていたのだった。
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