4章 大切なもの

第1話

 赤い世界を、今でも時々夢に見る。燃え落ちた我が家と、滴り落ちる真っ赤な血潮。倒れ伏す両親と、その傍らに立つ真っ白な天使。何もかもが赤く染まったその世界で、その天使だけは何色にも染まらない純白を保っている。

 ああ、またこの夢かと思った。この日から、きっと俺は前に進めていない。この日から、俺の中の時計の針は止まってしまったまま。今でもずっと、俺はこの日を後悔して立ち止まっている。今日もまたいつものように炎に巻かれて夢から目覚めるのだと、そう思っていた俺は、

『お前が……。お前が父さんと母さんを……』

 すぐ近くから聞こえてきた、聞き慣れた声に顔を上げた。

 目の前の世界は変わらず煉獄の如き世界のまま。それは変わらない。炎は燃え盛り、遠からずこの世界をいつものように飲み込むのだろう。だがしかし、そんな世界で気が付けば俺は、ただ立ち尽くしていた。

 いつからこうして立っていたのかも、そしてどうして自分の夢を傍観しているのかも分からず、だけどこれが夢だということだけはハッキリと分かる。大昔の自分は足元を這っていて、憎しみの叫びを上げている。しゃがれて擦り切れて、それでも憎悪を声高に叫ぶ自分の声を、俺は初めて客観的に聞いている。

 だけどそんな自分の声すら、俺には聞こえてすらいなかった。今の俺に見えているのは、ただ目の前に立っている真っ白い天使だけ。

 何度も夢見た。大きく広げた純白の翼も、風に舞う絹のような銀色の髪も。憎しみの中で何度も睨みつけた。夢の中、過去の記憶であろうともその姿はいつも変わらずに輝いていた。それなのに。

「……なんで」

 少女の空色の瞳がこちらを向く。透き通った空のようなその目と、俺の目がハッキリと交差して、俺達は見つめ合う。あの瞳だ。何度も睨みつけた瞳のはずだ。それなのに、その瞳と顔を見て思い出すのは、あの少女のことだけ。

 その空色の瞳を、その白銀に輝く髪を、俺はずっと憎んでいた。憎んでいたはずだ。そのために生きてきた。憎しみだけを空っぽの胸に満たして生きてきた。それなのに、今の俺の胸にあるのは不思議な安堵と、そして罪悪感だけだった。

『起きて、イドリス。いつまで寝てる気?』

 その自分でも掴みようのない感情を自覚した途端、どこか懐かしい声聞こえた。この炎に満ちた世界の中で、聞こえるはずのない声。だけどその声が誰のものかは、どうしても思い出せない。

『あなたにはあるべきことがあるでしょ。だから、起きなさい』

 しかし曖昧だったその声は次第にハッキリと、まるで意識に直接入り込んでくるように聞こえてくる。誰の声だ。聞き覚えのある声のはずだ。それこそずっと昔、いやつい昨日聞いたはずの──。

「ごめんね……イドリス」

 今度こそ、ハッキリと聞こえた声に俺は目を開く。いや、開いたという自覚があったわけではない。ただ気が付けば目の前にあったのは、ここ数日で何度目にしたか分からない、ウリアのどこか寂しげな笑顔だった。

 見れば髪は半分近くが黒く染まり、大きく広げられていた白い翼は灰色になって縮こまっている。だけど俺を見つめるその空色の瞳だけはさっきまでと変わらないまま。こんな煉獄の世界でも優しい笑みとともに細められていて。その瞳に自分が何を言うべきか、そもそも何かを言おうとしたのかすらも分からないままに、

「イド、リス……?」

 驚きと喜びに見開かれた空色の瞳を、俺は気が付いたら見上げていた。

「……ああ。おはよう、ウリ──」

「イドリス!!」

「ア゛っ!?」

 ウリアが抱き着いてくるのと同時、全身に走った痛みに俺は思わず声を詰まらせる。全身の骨が砕けてしまったような、全身の筋が途切れてしまったかのような痛み。ウリアは胸に抱き着いてきただけなのに、痛みは全身を一瞬で駆け巡っていく。

「よかった、イドリス……。本当に……よかった。もしかして目を覚まさないんじゃないかって……」

「……はぁ。泣くなって言ったろ、バカ」

「ご、ごめん……。でも私、嬉しくって……」

 だけど目の前で泣いているウリアに、文句を言う気はどうしても起きなかった。

 大きな溜息を零して、なんとか片腕を動かして目の前の少女の、明らかに俺が気を失う前よりも黒い房が増えた頭を撫でる。ほとんど半分くらいが黒くなってしまったその髪。その理由がどうしてかは、問いただすまでもなく分かっていた。

 自分の中に確かに、温かなウリアの存在を感じる。それは理屈などではない、魂で感じる核心だ。空っぽになっていた胸を彼女が満たして、そして俺という存在を支えてくれている。だからこそ、きっと俺は彼女を夢見たのだろう。かつての彼女ではなくて、今の彼女の姿を。

「……だけど最後に聞いたあの声は、もっと別の──」

「……なに? イドリス」

「あー……。いや、なんでもねぇ」

 思わず出そうになった言葉を飲み込んで、俺は目を逸らすように周りを見渡した。彼女に自分の夢のことを話したところで分かるはずもない。それに、夢のことなんかよりも先に聞くべきことは山ほどある。

「ここ……どこだ?」

 なぜなら見渡す先はさっきまで居たはずの草原ではなく、それどころか見たことのないほど豪奢な装飾が施された部屋の中で。そして俺が寝かされていたのが、真っ白い天蓋の付いたふかふかのベッドだったからだ。

 ウリアはベッドの脇の椅子に座っていて、その服装はまるで最初に見た時のような真っ白いドレスを纏っている。そんな彼女は、俺の問いかけに慌てて口を開く。

「あっ、そうだよね。ええと、どこから説明すればいいのかな……。まずイドリスが気を失ってから、丸二日経ってるんだけど……」

「は? 二日?」

「うん、二日」

 きっと間抜けな顔をしている俺に、ウリアはあっさりと頷いた。その涙の跡が残るキョトンとした顔が冗談を言っているわけではないことくらいは、付き合いの短い俺にも分かる。だけど二日間という時間が、自分の中から抜け落ちている実感はどうしても湧いてこない。

「ええと……団長と草原で戦ってから、二日ってことだよな? なんかそんなに長く寝てたって感じがしねぇんだが……」

「それは多分、寝てたんじゃなくて、その……。この二日間イドリスが、ほとんど半分くらい、死にかけてたから……。そのせいか髪もちょっと白くなっちゃってるくらいだし」

「そんなに危なかったのか俺……。って、え? って白くってどれくらいだ?」

「えっと……一房くらいだけど。このあたりが」

 ウリアが俺の右目の上辺りの髪を撫でるように触る。自分では見えないが、白くなっている範囲としてはあまり広くはないらしい。

「……なんでだ?」

「分からない、けど……。でも多分、無理な神聖術の使い方をしたからだと思う。……だから、私……」

 頷くウリアの目に、再び涙が浮かび上がる。どうして俺が死にかけてお前が悲しむのかと思うけど、流石にそれを口にするほど野暮ではない。それにウリアが斬られた時の自身の激情を思い出したら、何を言えるはずもなかった。

「ああ、だから泣くなっての。それより説明が足りねぇ。なんで俺は二日間も寝てたのか。そんで、ここが一体全体どこなのか。……その、落ち着いたらでいいから、教えろ」

「ご、ごめんなさい。……よしっ」

 目尻に浮かんでいた涙を拭い、ウリアは明るい笑顔で顔を上げる。もうすっかり見慣れてしまった彼女の笑顔。カラ元気だというのは見れば分かるけれど、辛気臭い顔をされているよりは断然マシだ。

「まずはね、イドリスが二日間も寝てた理由だけど……きっとオドの枯渇が原因だと思うの。あの草原で倒れたイドリスは、ほとんどオドが空っぽだった。本来は、自分の命そのものであるオドをあんなに使い切るなんてありえないはずなんだけど……」

「そのありえないが起きてたってことか。……けど俺は魔術なんて使ってないし、そもそも使えないぜ? あの時やったのは……」

 話しながら、俺はあの時のことを思い出す。死地の中での記憶は曖昧。覚えているのせいぜい、風のマナをかき集める感覚と彼女の神聖術を真似してみようとしたことくらいだ。

 感覚は分かる。あの時の感覚は、今でもこの手の平にある。だけど理屈はもちろん、再現する方法すら今の俺には分からなかった。

「風の……剣? 私が飛ばしていたみたいな、風の刃のこと?」

「うーん、似たようなものなのかもしれねぇけど。どっちかと言えば、だいぶ前に剣を作って見せてくれた事があっただろ? あれに似てる感覚だったんだけど……。あー、よく分かんねぇ」

「あの、草原で作ったあの剣に……? うーん、確かにあれなら風のマナでも同じことは出来るけど、でもあれは人が使えるような術じゃ……。もしかして、イドリスの中には……」

 ウリアが珍しく、考え込むように訝しげな視線を俺に送る。彼女の見えている世界は、俺が見ている世界と違う。人間と根本的に、文字通り生きている世界が違う天使の世界。

 そんな彼女の目を持ってしても、俺の体に起きたことは分からなかったのか。しばらく俺を見ていたウリアは、ため息を吐き出しながら肩をがっくりと落とした。

「ううん、きっと私の思い過ごしだわ。無理な神聖術のせいなのか、それとも何かの魔術を使ったせいなのかだとは思うんだけど……。でも!!」

 そう言うと同時、ウリアは勢いよく顔を上げる。そこにあったのは、さっきまでの考え事をしているような目ではない。ただひたすらに真っ直ぐに、俺を見つめる空色の瞳。

「イドリスが、死ぬところだったのは事実なの。だから……もう、あんな無茶はしないで」

「……ああ、分かった」

 誤魔化そうとは思わなかった。彼女の願いが込められた目から、視線を逸らそうなんて思えなかった。例えそれが守れないかもしれない約束だとしても、守りたいと思った。

「よかった。……ありがと、イドリス」

「なんでお前がお礼を言うんだよ……ったく。礼を言うのは、俺のほうだ。……お前には二回も助けられた。特に今回は、お前が居なきゃ絶対に死んでた。だから……ありがとな」

 俺は彼女の髪の、黒くなってしまった部分をなぞるように、そっと頭を撫でながら言う。命を落とすかもしれないと分かっていながら、自分を殺すと言った俺のためなんかに力を行使して。そして銀色に輝いていた髪を、漆黒に染め上げてしまった少女。

 その少女は気持ちよさそうに目を細めて、幸せそうに微笑んでくれている。そしてその微笑みを、きっと俺も似たような顔で見ているのが分かる。だって彼女の微笑みを見ていると、胸が暖かくなってしまうから。

「……ううん、私こそイドリスにいっぱい救われてるから。何回も……何回も」

「そうか?」

「ふふっ、そうなの」

 どこかイタズラっぽい微笑み。その微笑みを守ったのは俺だ。だけどその微笑みを、壊そうとしているのもこの俺だ。だけどそうしなければならない。そのために生きてきたのだから。

 ……例え今の自分が、この瞬間にどんな感情を抱いていたとしても。

「……あー、なんだ。それより、ここがどこかって話なんだが──」

 話を逸らそうと俺は口を開き、

「ウリア様!! お耳に入れたいこと……が」

 突然開け放たれたドアの音と、そして聞き慣れない少年の声に俺の言葉は遮られていた

金色の髪に緑色の瞳。年は俺よりもいくつか年下くらいだろうか。幼さを残した顔つきと、そして背格好はまだどうみても少年といった年頃だ。その背中に、真っ白な翼が生えてさえいなければだが。

「天使……か?」

 いや、疑問を放つ余地はない。あの白い翼がその証拠。それにウリアの名前を呼んでいた様子からして、恐らくは彼女の知人なのだろう。だがその天使はどうしてか、扉を開け放った体制のまま固まっていて。その口はまるで信じられないものを見るように、そしてせっかくの端正な顔を台無しにする勢いで開かれていた。

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