第2話

「ウリア、頼む!!」

「任せて!!」

 俺の呼びかけに応えて、先を走っていたウリアが叫ぶ。その声とほぼ同時、俺のすぐ横を不可視の疾風が駆け抜けていき、背後で轟音を撒き散らした。

「これで足を止めてくれれば……ってわけにもいかねぇか」

 一瞬だけ背後を振り返ると、巻き上げられた土煙の向こうから既に何人もの兵士が迫っているのが見て取れた。なぎ倒した木々も一瞬の足止めにしかならず、呼吸を整える暇にもなりはしない。

「まだ……いっぱい!!」

「だろうな。ったく、二人追いかけ回すのに随分と大掛かりにしやがって」

 俺たちを追っているのは、共和国の兵士たちだ。俺が所属していた警備隊に加えて、帝国と小競り合いをしたという騎士団の姿までもがある追手。どれくらいの数がいるのかは、考えても嫌気がさすだけとしか分からない。

 シトリーの町を離れてまだ二日。こんなに共和国の兵士たちは勤勉だっただろうかと思うくらいに、全ての行動が早すぎる。そもそも俺たちがここにいることを知っているのは、たった一人だけのはずで。

「密告したがったな、ジズのやつ!!」

 今頃は騎士団から貰った小銭でも数えているであろうジズの姿を想像して、俺は盛大な悪態をついていた。本気で逃げるのならば、それこそ口封じくらいはしておくべきだった。殺さないでも、しばらくどこかに閉じ込めておけば時間稼ぎくらいにはなっただろう。

「ジズさんはそんな人じゃ……」

「それしか考えられねぇだろ。ってか、んなことはどうでもいいんだよ」

 彼女が密告したにしろ、何かしらの手段で口を割らされたにしろ今となってはどうでもいい。足場の悪い森の中を追いかけ回されるこの状況をなんとかすることだけを今は考えるべきだろう。

「方向はこっちで合ってるのか?」

「う、うん。このまま行けば、ジズさんが言ってた場所に出ると思う」

「なら、そこまで逃げ切るしかねぇな。お前は……身軽そうで羨ましいよ、ったく」

「え?」

 先を息一つ乱していないウリアは、まるで自身の重さを感じていないように軽々と地面を蹴っていた。いや、本当に彼女は自身の重さをほとんど感じていないのだろう。その証拠に彼女が蹴った地面には風が吹き、彼女の背中を押すように木の葉が舞っている。

 神聖術で風を味方につけて走り続ける。そんな芸当がどれだけの高みにあるのかは、曲がりなりにも神聖術を覚えた今の俺にはよく分かる。

「まあいいや、後続はどうだ?」

「すぐ後ろに五人。それから離れて……ええと、たくさん!!」

「なら五人だけ蹴散らす。お前はたくさんの方の足止めを」

「分かった!!」

 ウリアが地面を蹴って背丈の何倍もの高さまで飛び上がり、そして同時に俺は地面に足を叩きつけて強引に急制動をかける。バランスを崩して吹き飛びそうになるの抑え込み、剣に手をかけながら振り返ると、背後に迫っていた騎士団員たちは真上を飛び越えていくウリアの背中を拝んでいるであろうところで。

「余所見してるんじゃ……ねぇよ!!」

 まずは一人、目の前に居た兵士に向かって俺は腰の剣を抜くと同時に振り抜いた。

「がっ!?」

 狙ったのは鎧から露出した足。追いかけるための身軽さを重視してか軽装だったのが幸いして、俺の剣は容易く一人目の足を切り裂いて鮮血を撒き散らせる。

「くそっ、そっちもか!!」

「お前は天使を。俺は──」

「させるかよ」

 足を切られて崩れ落ちる一人目を蹴り飛ばし、俺はそのままの勢いで次の一人に打ち掛かった。

「くっ、そんな力任せの剣撃など……」

 上段からの一撃目、受け流される。返す逆袈裟の二撃目、受け止められる。そして一歩下がって突きの構えからの三撃目、

「ばーかっ、下だよ!!」

 と見せかけて、俺は腰を落として足払いを仕掛けた。剣先を見据えていた二人目の兵士はあっさりと引っかかり倒れ込む。したたかに頭を打ち付けて目を回しているその男の右肩に、俺は念の為に剣を突き刺そうとして。

「ちっ、放っといてくれりゃいいのによ」

 俺の首を狙って放たれた剣を、俺はかろうじて受け止めていた。

「ふざけるな!! よくも仲間を……」

「はっ、今更んなこと言われても……な!!」

 相手の剣を力任せに弾いて斬りかかる。それを相手も辛うじて剣を使って防ぎはするが、俺から言わせればあまりに遅い。一撃目は防がれた。しかし叩きつけるように振るわれた剣の、二撃目にその腕は間に合わず。 

「しまっ」

 俺はそのまま返す刃で男の胸から肩を切り裂いた。鮮血が舞い散り、男が地面に倒れ伏す。そのまま俺は倒れていた兵士の頭を思い切り蹴飛ばして気絶させ、それから思わず安堵の溜息をついていた。

「あとは二人、か。騎士団の連中も、思ってたより不甲斐ないんだな」

「なんだと……?」

「事実だろ。警備隊を抜けた俺一人にあっさりとやられやがって。……だから、お前もあっさりとやられてくれるとありがたいんだが」

「そういうわけにはいかないな。貴様にも警備隊の連中にも、我々は遅れを取るわけにはいかない」

 二人のうち、金属の鎧をしっかりと着込んだ男。全身に分厚い金属の鎧を着込んで、それなのに最前線で俺たちを追いかけてきている。それがどういうことなのかは、考えるまでもない。

「はぁ……。魔導騎士って数も少ないはずだろ? ……そんなにあいつが大事ってことか、お前らにとっても」

「……貴様に教えることなどない」

 男が剣を持ち上げるのに合わせて、俺も油断せずに剣を構える。魔術を使える人材で、更に剣を扱える者はそう多くはない。魔術とは言っても使える力は各々で生まれた時から決まっていて、オドを使う力のため応用も効かないのも事実だ。

 そういう意味では神聖術に比べると使い勝手は悪い力が魔術。しかしその分、使い手はただその力を使いこなすために全力を尽くす。そして剣を扱う魔術使いは、

「いくぞ」

 腰を落とした騎士の姿が地面を蹴って、刹那の間に目の前に迫る。剣筋は辛うじて見える。動きも肌で分かる。だからこそ、その一撃を受け止められないと判断して、俺は咄嗟に地面を蹴って横っ飛びに転がっていた。

 地面を擦り傷だらけになりながら転がり、剣に巻き上げられた小石が肌を裂く。

「やっぱり身体能力の強化か」

「私はこれしか出来ないのでな。だが貴様を殺すには、十分過ぎる」

「殺す……か」

 捕らえるではなく殺すとこいつは言った。その意味を俺は考えようとして、振り下ろされた剣撃を後ろに跳んで辛うじて躱す。

「ったく、考えるのは後回しだな」

 とにかくこいつを倒してしまわないことには始まらない。もう一人の兵士は、こいつが居れば余裕だとでも思っているのか、剣を構えるだけで斬りかかってくる気配すらない。

 戦場において何たる油断。俺が教官だったら怒鳴りつけているところだが、しかしそんな油断こそがここでは俺の勝機になりえる。

 見た所、相手の力は単純な力の増強だ。しかも素早さは大したことがないのを見る限りでは、力は主に腕力を補う形なのが分かる。だとしたら、一度も剣を合わせないで倒せばいいだけのことだ。

「言うだけなら簡単……なんだけど、なっ」

 マトモに喰らったらそれで終わり。そんな一撃を、相手は容赦なく嵐のように繰り出してくる。大きくは避けられない。そんな動きをしたらすぐに追いつかれる。だから剣先が肌を掠めるのも厭わずに、俺は出来るだけギリギリの動きで躱していくしかなかった。

 剣先に軽く触れただけで、皮膚は裂け肉は抉れ血飛沫が舞う。痛い。怖い。だけどまだ死んでない。それはまるで、極限の舞踏だ。

 死の舞踏の中で、神経が研ぎ澄まされていく。剣筋が見える。風の流れが見える。大気に満ちるマナの流れが見える。

「ちっ、ちょこまかと。さっさと喰らえば楽に死ねるというのに!!」

「楽にしてくれなんて、頼んだ覚えはねぇよ!!」

 大ぶりの袈裟斬りを避けて、その隙間をついて相手の首目掛けて剣を跳ね上げる。渾身の力で振り抜いた一撃。だがそれが間に合わないのは目に見えていて。

「はっ、防がれるのは分かってたさ」

 わざと相手の剣を殴りつけるように打ち込んだ俺は、そのまま踏みとどまるのではなく、相手が剣を押す力を利用してそのまま吹き飛ぶように背後に跳んだ。

「うわっ、なんて馬鹿力だよ」

「距離を取ってどうする。……逃げる気か?」

「そうしたいのは山々だけど、逃しちゃくれねぇだろうからな」

 溜息を吐き出してから俺が構えるのは、刺突の構え。ありきたりな、それこそ教練で最初に習うような構えの一つ。そんな構えのまま、俺は狙いを隠そうともせずに切っ先をその男の胸に向けた。

「いくぞ」

「……ふざけるなよ」

 それを挑発行為だとでも思ったのだろう。確かにこれだけの距離で、構えも狙いも明らかにして、そう思わない方がおかしい。そしてそう思ってくれたのだとしたら、それだけで十分だった。

 地面を全力で蹴って前に出る。全身全霊の速さで、相手の間合いに飛び込んでいく。それに合わせるように、男は当然のように剣を振り下ろす。タイミングは完璧。力も渾身。俺には防ぐ手段もなく、仮に剣を咄嗟に振り上げたとしてもそれごとその刃は俺の頭を砕くだろう。しかし、

「なっ!? はやっ」

 その言葉を最後まで発するよりも前に、男の胸に俺の刃は深々と突き刺さっていた。男の剣は俺に届くことはなく、振り下ろす途中で力なく止まる。その剣が地面に落ちた音を聞いてから、俺は男から剣をゆっくりと引き抜く。

「しん……せいじゅつ、だと」

「ああ、悪いな。昨日習ったんだ。まあ、上手くいくかは賭けだったけどな」

「く、そ……」

 ぶっつけ本番で使った、ただ追い風を一瞬だけ爆発的に強くするだけの神聖術。ウリアみたいに細かく調整することは出来ないし、あくまでも元からある勢いを思い切り強めるしか出来ないが。一瞬が生死を分ける戦場では、不意打ちとしては十分だった。

「……まあ、これくらいじゃ魔術師は死なねぇだろうけどな」

 こういう身体能力を強化するような兵士は、回復力にも優れているのが常だ。急所を貫いたのならともかく、心臓も外して胸を穿っただけでは死にはしない。

 トドメは……流石に元とはいえ同じ国の仲間相手に刺す気は起きなかった。

「それで……お前はどうするんだ?」

「ひっ!! お、お前……。神聖術なんて邪法に手を染めて……」

「は? 使えるものは何でも使う。戦場では当たり前のことだろうが」

「だ、だからって……不意打ちに使うなんて卑怯……」

「うるせぇな」

「ぶっ!!」

 ほとんど戦意を失っていた男に向かって、俺は無造作に足を蹴り出した。剣も構えず、それどこか避ける素振りもみせないままに、男はあっさりと吹き飛ばされていく。倒れ伏したその口から泡を吹いているのだけを確認してから、俺は離れたところから聞こえてくる轟音に向かってあらん限りの声を上げた。

「さて……と。ウリア!! こっちは終わったぞ!!」

 森の中に俺の叫び声は飲まれていき、そして相変わらず聞こえる戦闘の音は変わらない。聞こえているのだろうかと、俺は首を傾げて。

 ズドン、と森自体を揺らす轟音に思わず息を呑んだ。それから待つこと数秒。

「お待たせ、イドリス。って……わ、一人で五人も倒したの? 凄い!!」

 泥一つ被らずに、涼しい顔をして戻ってきたウリアは俺の足元を見てそんな声を上げていた。

「お前には負けるけどな。……さっきの音、あれとかなにしたんだ?」

「え? えっと、あれはちょうど地面が脆くなってた場所があったから、そこに大きな穴を開けてみんなを落としたの。でもただの大きな落とし穴だから、時間稼ぎにしかならないと思う」

「なるほどな。んじゃさっさと行くか。俺の倒した奴らも、気絶してるだけで死んじゃいねぇし。今の戦いの音を聞いて、他の部隊の連中も集まってくるだろうからな」

「そうね。それじゃ方向は……ええと、あっち!!」

 ウリアの指差した方向に向かって俺たちは走り出す。森を抜ければ国境は目の前。帝国領に入ってしまえば、いかに騎士団の連中と言えど手出しは出来ないはずだ。まあ帝国側に攻撃される可能性もあるが、明確に殺すつもりでかかってくる奴らに比べればまだマシだろう。

「でもどうしてこんなにたくさん……」

 隣を飛ぶように走るウリアが、怪訝な顔で呟く。まあこれだけの人数で、しかもこんなに熱心に追いかけ回されれば、ぼんやりとしているウリアとは言え疑問も浮かぶというもの。

「分かんねぇ。分かんねぇけど、あいつらにとって俺たちがそんだけ重要ってことだろ。……いや、この場合はお前だけかもしれねぇけどな」

「私……?」

「狙いがあるとしたら、お前しかいねぇだろ」

 少なくとも、俺に狙われる心当たりは一切ない。それに俺に向かって、あいつは殺すとハッキリ言っていた。捕らえるではなく殺す。

 俺がなにか力を持っていて、それが帝国に渡るのを恐れているのだとしたらそれも分かる。しかし俺は所詮ただの兵士だし、戦況を変えるような力も持っていない。だとしたら考えられるのは、元天使で町を区画ごと吹き飛ばす程の力を持っている、ウリアの存在に他ならない。

「……私、共和国の人に追いかけ回される心当たりなんてないんだけど」

「天使ってだけで奴らからしたら十分だろうよ。まあ、それだけじゃなさそうだけど……」

「そうなの?」

「そうだろ。だって……」

 天使を殺して帝国の力を削ぐ。確かにそれも重要だし、可能性としては十分に考えられる。だがそれならば、まるでウリアが落ちてくるのを知っていたみたいな警備隊の動きの説明がつかないのだ。

「ああ、もうわっかんねぇ!! とにかく、細かいことは後回しだ。国境まではどれくらいだ?」

「もうすぐ!!あの大きな木の先が森の出口だから、そこはもう──」

 帝国のはずと、ウリアはそう言った。ただし俺たちの足が地面を抉る音で、ほとんどか聞けてしまいそうなほど小さい声で。

「なん、で……」

 森を抜けた先に広がっていたのは、見晴らしのいい草原地帯。帝国と共和国の国境線に跨る形で広がる森を抜ければ、直接帝国の領土に出られる。そうジズは言っていたし、それに俺の知っている地図でもそうなっていた。

 それなのに何故、目の前には。

「悪いな。先回りさせてもらったよ」

 あの忌々しい団長が、涼しい顔をして立ちふさがっているのか。

「……はっ、軍団長様がお供も連れずに帝国領まで出張か? アンタがそんなに仕事熱心だったなんて、知らなかったよ」

「相変わらずの減らず口だな。なに、お忍びというやつだ。半分は観光のついでだよ」

「アンタ一人より、雑魚十人相手にするほうがまだ気が楽なんだけどな……」

 冷や汗が止まらない。心臓は今にも逃げ出したいと早鐘を打ち、緊張で喉の奥はカラカラになっていく。どうしたってこの先には行けない。そう思わされるくらいの重圧が、俺の足を地面に縫い止めていた。

「ね、ねぇイドリス。一人だけなら私が……」

「だめだ。あの団長が、神聖術に対して何の対策もしないで俺たちの前に立つわけがねぇ」

 少なくともあの光の波を防ぐ手段か、最悪の場合は跳ね返すような方法を持っていてもおかしくはない。それくらい用意周到なのが、この団長という男なのだ。

「それにあの力を使ったら、お前がどうなるか分からねぇだろ。……お前があいつと刺し違えたって、俺の目的は達成されないんだよ」

「それは……そう、だけど」

「なんだ、相談か? 私は別に構わんが、時間が味方をするのはこちらだぞ」

 意味ありげな視線を団長は俺達の背後に送る。その意味は、それこそ考えるまでもなかった。時間をかければ兵士たちに追いつかれる。そして挟み撃ちになれば、いよいよ俺たちは一巻の終わりだ。

「……やるしかねぇ。援護できるか?」

「もちろん大丈夫だけど……。でも」

「他に方法はねぇんだよ。何が何でもアイツを倒さないと、俺達は前に進めねぇ」

「……ええ、分かった」

 剣を抜き、構える。震えそうになる手をなんとか抑え込んで、あの時蹴り飛ばされた痛みを思い出しそうになるのを握りしめた柄の感触で堪えた。

 後ろではウリアも神聖術を使う準備をしてくれているのが肌でわかる。まるでウリアがマナの衣をまとっていくみたいに、ありとあらゆるマナが彼女の方へと流れ込んでいく。それを頼もしいと思ってしまうのは少しだけ複雑だったが、今は助けになるならなんでもいいと思えた。

「ほう、諦めるかと思っていたが。まあ退屈しのぎくらいにはなるか」

「そうやって死ぬ間際まで、余裕ぶっこいてやがれ!!」

 自身に活を入れるように叫んでから、俺は草原を駆け出した。草と土を蹴り、ウリアの風に背中を押されながら前に出る。本来であれば俺が出せるはずのない、まるで風になったような速度。

 その勢いに乗って俺は剣を団長に向けて勢いよく抜き放ち、しかし当然のようにその一撃は彼が抜いた剣に防がれていた。

「今のは少し驚いたぞ……っと」

「うわっ」

「えっ!?」

 感心したように目を見開いていた団長が剣に力をこめて、そしてそのまま後ろに下がる。大して力を入れたようには見えなかったのに、俺は為す術もないままに吹き飛ばされていて。その俺達の間を見えない風の刃が駆け抜けていき、大地を草ごとえぐり取っていくのが見て取れた。

「風の刃か。やはり神聖術は多芸で厄介なものだ」

「……見えない風の刃を、あっさりと避けるのね」

「戦場の風くらい見切れなければ、団長などやっていられないからな」

「んなこと出来るの、お前くらいだっつーの」

 俺は相変わらず余裕を崩さない団長に、思わずそう吐き捨てた。天賦の才。戦いにおける後天的に身につけ得ない程の力。それをこの男は持っている。

「流石に十年前の御前試合に若くして勝利した、天才剣士なだけはある……か」

「昔の話だ。今では書類の山に埋もれる管理職だよ」

 こんな冗談を躱す間も、その視線は俺とウリアから離れすらしない。仕掛けてこないのは、そもそもさっき言ったように時間が味方だからなのだろう。さっさと一人で仕留めるよりも、部下を待って確実な勝利を取る。

 そういう堅実さがこの男を団長足らしめているところであり、そして俺が唯一付け入ることができる、隙というにはあまりにか細すぎる可能性だった。

「そのまま書類の山に埋もれててくれればよかったんだけどな……」

「それなら、今から山みたいな書類を片付けに帰るっていうのはどうかしら?」

「そういうわけにもいかない。それに、君たちを捕まえてから戻っても、そう時間もかからないだろ?」

 その一言に、俺とウリアは揃って目を細める。まるで今すぐにでも捕まえられるとでも言わんばかりの……。いや、事実その通りの発言なのだろう。

 実力差は歴然。背後からは無数の兵士たちが迫ってきていて、こんな会話も相手の利になる。けれどだからと言って。

 ──俺とウリアが、大人しく捕まってやる義理なんてない。

「はっ、それはどうかな。試してみるか?」

「そうだな。運動不足の解消を手伝ってくれるなら歓迎だ」

「言ってろ!!」

 叫びながら一足で近寄り、渾身の力で剣を横薙ぎに振り払う。仮にも会話をしている中での不意打ち。だがそれを団長は、たった一歩下がっただけであっさりと躱す。だがそんなことは予想通り。だからこそ、俺はそのまま間髪入れず追いすがるようにして足を踏み出した。

「ほう、悪くない手だ」

 あざ笑うようにそう言った団長の、その顔に向かって俺は返事代わりに剣を切り上げる。今度は躱すのではなく受けようとした団長の剣と俺の剣とがぶつかりあい、鍔迫り合いにならないように俺はわざと力を抜いて剣を引き戻した。

 横薙ぎがダメなら袈裟斬りで。首を狙うのがダメなら足元を。速さが足りないのなら風のマナを使い、ほとんど無意識に体とそして剣に風を纏わせて。剣撃の流れを止めず、浴びせかけるようにして俺は一撃一撃に全霊を込めて放つ。

「相変わらず荒っぽいな君は。だがそんなに飛ばしていいのかな?」

「うる……せぇ!!」

 息が苦しい。無理矢理に剣を振るう体が悲鳴を上げる。今すぐに剣を離して、地面に倒れ伏してしまいたい。だけど止めない。止めれば必ず反撃が来る。それを受け切るだけの力は、きっと最初から俺にはない。

 それを団長も分かっているから、攻撃を受け流すに徹しているのだ。俺の動きに注視して、俺の体力の限界をゆったりと見極めている。

「く、そ……」

「やっとか。待ちくたびれたぞ」

「はっ、どうかな」

 膝が折れる。ガクンと剣を振るう手が止まり、体が地面に倒れ込んでいく。その俺に団長は一撃を振るおうと剣を振り上げて、そんな俺の真上を今度こそ団長を切り裂かんと風の刃が殺到した。

 なにか打ち合わせがあったわけではない。ただ俺が時間を稼げば、ウリアは言わずとも反撃のために術を練り上げてくれると信じただけ。その結果、既に見切られた風の刃を放ったのは一瞬だけ驚いたが、しかし。俺に出来ることは変わらず、ウリアの判断を信じることだけだ。

 ほとんど本気で折れかけた膝に活を入れ、筋肉が悲鳴を上げるのを無視して前に出る。ウリアの風の刃が俺を切り裂くかも知れないと言う心配は、不思議と考えすらしなかった。マナの流れがハッキリと分かる。彼女の意図が伝わってくる。それだけで十分だったから。

「また同じ手か。悪いが……っ」

 目の前で団長が剣を正面に構え、そして風の刃ごと俺を切り裂こうとする。きっと団長と、そしてあの剣ならば容易いだろう。見えないはずの刃を捉え、目の前に居る俺ごと切り裂く一撃。だが、

「なに……?」

「元とは言え、天使をあまり舐めてもらったら困るわ」

 その剣が振り下ろされるよりも早く、団長の全身から真紅の血飛沫が舞った。ほんの一瞬、驚きにその目が見開かれる。ウリアが放ったのは、大小いくつもの風の刃だ。大気を乱す大きな一つの刃と、それを取り巻くように放たれた無数の小さな刃。

 マナの流れが直接見えるわけではない団長からすれば、きっと大きな一つの刃に感じたのだろう。その刃を無数に受けて、そのまま本命の一撃を喰らってくれれば話は早かったのだが。

「そうはいかねぇよな」

 それで団長の剣が遅れたのはほんの一瞬。変わらずその剣は本命だった風の刃を切り裂いて、しかしその微かな遅れに滑り込むように俺は団長に左側から肉薄する。

 紙一重。それこそ薄布一枚分もの距離を団長の剣が通り過ぎていき、衝撃がだけで頬の肉が削ぎ落とされそうになる。いや、事実かすめた部分からは血が吹き出していて、視界はチカチカと赤く染まった。

 だがそれを地面にめり込むほどに踏み込んだ足でなんとか堪えて、俺は後のことなどまるで考えずに、風のマナを爆発させて渾身の斬り上げを放つ。まるでお互いの剣を交差させるような応酬。地に墜ちるような一撃は、そのまま大地を裂き穿ち。空へと駆け上がるような一撃は、鎧を裂き肉を断ちそしてその中の骨を砕いていた。

「やはり神聖術は、厄介……だ」

 鮮血が迸り、不動に思えた団長が膝をつく。手応えは十分過ぎるほど、脇腹から肩口にかけて切り裂かれた傷は間違いなく致命傷だろう。むしろ膝をつく程度で済ませているのがおかしいくらいの深い傷だ。真っ赤な血が大地を物凄い速さで染めていき、今にもその生命が失われようとしているのが分かる。

「……悪いな。こんな卑怯な勝ち方しか出来ないくらい、アンタは強かったよ。だから……思い切り恨んでくれ」

 人を斬るのは初めてじゃない。けれど、これでもかつての上司だ。覚悟の上で、だからこそ感情を動かさないようにと努めみても、胸がざわめくのは止められなくて。

「イドリス……」

 背後から掛けられたウリアの声に、俺は一瞬だけ間を置いてから振り返った。自分がしたことの結果を目に焼き付けて、だけど後悔する権利なんてないと歩き出すために。

「待たせた。……他の連中が追い付いてくる前に行くぞ」

「うん、分かった」

 いいの? とは彼女は口にしなかった。ただ代わりに何も言わず、ただ俺の隣まで歩いてきてくれて。

「恨みはしないさ。むしろ私を恨んでくれたまえ」

 ──すぐ後ろからもう二度と聞くことはないはずの声と、一陣の風が吹いた。

「う、そ……」

 隣に立っていたウリアがそう呟いて、地面にゆっくりと倒れていくのが見える。その背中からは真っ赤な鮮血が吹き出していて、その熱い飛沫が俺の頬を濡らす。その何もかもがスローモーションに見えていて、そしてその何もかもを差し置いて俺は剣を鞘から解き放って振り返っていた。

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