3章 極彩の世界の中で

第1話

 木の根はまるで足を引っ掛けるために生えてるかのように大地を走り、陽の光も鬱蒼と生い茂る木々に遮られ届かない。こちらを伺う動物たちは、森の暗がりとともには不運な旅人を飲み込もうと大きな口を広げて待ち構えている。

 本来であれば、人が足を踏み入れるような場所ではない。妖精が暮らし、古の動物たちが闊歩する。子どもたちを驚かすために語られるそんな話も、ここでならきっと現実となり得るのだろう。そんな深い森を、俺はウリアと二人で歩いていた。

「あー、疲れた。どれくらい進んだんだ? 俺たち」

「えーっと、まだ二割くらい……かな」

「はぁ……まだそんなにあるのかぁ。ちょっと休もうぜ」

「うん、分かった」

 木の根に座り込み、俺は大きなため息を吐き出す。この森に入って、まだ半日程度。ウリアが森に満ちる精霊と語り合えるから迷わずに歩いて来られているが、俺一人だったら今頃はとっくに迷っていただろう。

「とは言え、この森しか国境は超えられなさそうだし、歩くしかないんだけどよ……」

 ジズから聞いた森の抜け道は、正直な話ほとんどが獣道もいいところだった。こんなところを商人たちが通っていたというのも、正直信じられないくらいなのだが。注意深く見てみれば微かに草が踏まれた跡が見えたりと、少なくとも嘘ではなさそうだ。

「頑張って、イドリス。ほら、精霊さんたちも頑張れって」

「いや精霊の声とか聞こえねぇから。っていうか、お前は元気そうでいいよな。マナが満ちてるってので、そんなに違うのか?」

「ふふっ、天使にとってマナを取り込むのは呼吸するのと同じことだから。こういう綺麗なマナが満ちている場所は、そこにいるだけで元気が出てくるの」

「そうかよ。神聖術師どころか、魔術師ですらない俺にはサッパリだ」

 ただジメジメしてて暗くて息苦しい、そんな印象しかこの森には受けない。確かに古の空気が息づいていると言われればそんな気もしてくるが、それで腹が膨れるわけでもない。

「まあ私たちはマナで生きているようなものだから……。でも私たちみたいにマナを直接取り込んだりしないでも神聖術は使えるから。イドリスも練習したら、使えるようになるかもしれないよ?」

「え、そうなのか?」

 ウリアの言葉に、俺は目を見開く。世界に満ちるマナと、自身の生命そのものであるオド。一般的に帝国ではマナに働きかける神聖術を、そして王国ではオドを糧とする魔術が使われている。

 俺自身には魔術の適性はなく、王国内では神聖術の適性を試す機会はなかったのだが。

「神聖術はそもそも、マナに呼びかけて応えてもらう力なのは知ってるよね? だからマナと心を通わせる方法さえ身に着けられれば、基本的には誰でも使えるの。まあ、才能も少し必要にはなるけど……」

「へぇ……。なら今夜にでも出来るか試してみるか。使える力はあるに越したことはないからな」

「わぁ……うん、任せて!! 神聖術なら天使の中でも私の右に出る人は、一人くらいしか居ないくらいだったんだから」

 珍しく自慢げな表情で、ウリアはその薄い胸を張った。その話がどこまで本当なのかは分からないが、まあ街の一角を吹き飛ばしたあの力を見ていたら信じざるを得ないのが恐ろしいところだ。

「ホントかよ? まあ、そもそも俺に才能があるかは分かんねぇけどな」

「イドリスならきっと、ちゃんと練習すれば使えるようになると思う。だってマナと心を通わせるのに必要なのは……」

「必要なのは、なんだよ」

「ええと……なんでもない。えへへ……」

「は? なんだそりゃ」

 忘れたはずがない。本当に忘れただけなら、どうしてそんなに寂しそうな顔をするのか。どうしてその寂しさを、儚げな笑顔で塗り固めるのか。そう思って、だけどそれを口にする資格なんてなかったから。

「それより、そろそろ行こ? しばらく歩いたところに野営できそうな開けたとこ、あるみたいだから」

「……あ、ああ」

 明らかに話を誤魔化そうとしたウリアの言葉に、俺はただ頷いて立ち上がる。その言葉の真意を追求しようという気は、どうしてだか起きなかった。

 それから歩いていたのは、せいぜいが数時間程度だろうか。ウリアの言っていた通り、森の木々がちょうど開けた天然の広場のような場所で、俺達は手早く野営の準備を始めていた。

「木の枝集めてきたけど……。これくらいで大丈夫?」

「ああ、十分だろ。流石に森の中じゃ焚き火しないと凍えちまう」

「うん。……はぁ、宿のベッドが恋しいなぁ」

「ははっ、こんな森の中に宿があるなら、どんな値段でも泊まりたいくらいだな」

 ウリアの冗談めいた愚痴に、俺もまた呆れ混じりの冗談を返す。確かにあんな安宿でも、野営に比べれば何倍もマシなのは確かだと俺も思うが。ないものねだりをしても仕方がない。

 せめてベッドとは言わないが、雨風をしのげる屋根と壁が欲しい。ただでさえ陽の光が木々で遮られているせいで寒いのに、夜になったらまた数段は冷え込むだろう。そのためにもまず火を付けなければと、俺がカバンの中身を漁っていると。

「なにしてるの?」

 ウリアの声に振り返ると、不思議そうな顔をしたウリアが俺の手元を覗き込んでいた。

「なにって、火付けの準備だよ」

「え? 火を付けるのに道具を使うの?」

「……は? 何言ってるんだお前。何もなしに火が付けられるわけ……」

 思わず眉をひそめながら言葉を返す。どこからともなく火を取り出せるのならともなく、普通に考えて火打ち石などもなしに火を付けられるわけがない、と。そこまで考えてから、俺は一つの可能性に思い至って思わず顔を上げた。

「もしかして……」

「うん。火なら神聖術で簡単に付けられるよ?」

 まるでそれが当たり前とでも言うような表情で、ウリアは頷く。

「はぁ……。そうか、そんなこともできんのか」

「火で攻撃する……とかなら色々と準備とか条件も必要だけど、ただ付けるだけなら……。ほら」

 ウリアがそう言って手のひらを差し出すと、そこには小さく、だけど確かに揺らめく炎があった。その光景に俺は思わず目を見張り、それを見たウリアがどこか満足気に微笑む。

 それからウリアがその手のひらを地面においた木の枝の方に向けると、その火の玉はゆっくりとその手を離れ。そして木の枝に触れるとそれを包むように燃え広がって、そして自然に燃える炎と一つになっていった。

「こんな感じでどう?」

「ああ、十分だ。……これなら火打ち石は置いてってもいいくらいだな」

「それならイドリスも自分でこれ、使えるようにならないとね。火を付けるだけなら、そんなに難しくないはずだから」

 それになんでだよと言葉を返しそうになって、なんとかその言葉は飲み込んだ。もしも火打ち石を捨ててしまったのなら、自分が居なくなった後に火を付ける方法がなくなると。暗にウリアがそう言っていることに、気が付いたから。

「……ああ、そうだな。マナと心を通わす……みたいなこと言ってたけど、どうすればいいんだ?」

 俺は燃え始めた焚き火に薪を放り込みながら尋ねる。ウリアはそんな俺の隣、肩が触れそうなくらいの距離に座ってから口を開いた。

「最初はマナと繋がる感覚が分からないと難しいの。だから、それを私が作ってあげる。イドリスなら多分、すぐ使えるようになるから。……目を閉じてみて?」

「……ああ、閉じたぞ」

「それから焚き火の方に意識を向けるの。その温かさと眩しさを形作っている力に、息づくマナを感じるみたいに……」

 ウリアの言う通り、俺はゆっくりと目を閉じる。目の前にある焚き火の明かりは、閉じた瞼越しにもその熱と共に感じられて。意識を向けるてみると、瞼越しにその形までもが分かるような気がした。

「温かさとかは分かるけど、マナなんて……」

「うん、最初はそれでいいの。本当はそれを繰り返してマナを感じ取れるようにしていくんだけど、今回は時間がないから……。私の感覚を、イドリスに少しだけ共有するね。最初は辛いかも知れないけど、頑張って耐えてみて?」

「耐えるって言われてもどういう……」

 意味だと、そう言おうとした俺は、背後からそっと抱きしめられるような感触に思わず言葉を飲み込んだ。いや、真実ウリアが背後から俺のことを抱きしめているのだろう。だけどその柔らかい感触を楽しんでいる余裕は、俺にはなかった。

「なん、だこれ……」

 まるで、頭の中身をぐちゃぐちゃにかき回されてるみたいだった。目を閉じているはずなのに、風が、炎が、小さな虫の声や木々の吐息までも、その全てが極彩となって直接頭の中に流れ込んでくる。それが色と表現するべきなのかすらも分からないまま、ただその奔流に意識は押し流されていく。

 無数の色。ありとあらゆる音。痛みも快楽も全ては等しい。風は紅く、炎は深緑で、木々は濃紺だった。生き物の数だけ声があり、その全てにあらゆる感覚があることを知った。だけどその知識を、俺は記憶する術すら持っていなかった。この感覚を、なんと表現するべきなのかすら分からない。

 いつも見て、聞いて、そして感じている世界に、もう一つの感覚が加わったような。それなのに、その新しい感覚に、その他の全てが塗りつぶされていくようで。

「それが私達の見ている世界なの。でも大丈夫、イドリス。私があなたを害することはないわ。ただ新しい感覚に、あなたの魂が驚いているだけ……」

 消えそうな意識に、透明な波紋が広がっていく。清らかなその波紋が、もう聞き慣れてしまったウリアの声だと言うのに気が付くと、今にも消えようとしていた自意識がはっきりしていくような気がした。

「これが……マナ……」

 その声を頼りに、俺は意識を持ち上げていく。世界に満ちているマナを感じ取るとは、こういうことなのかと、理屈ではなく感覚で理解していく。そしてよく見ると、そのマナは常に揺れ動き色を変え、そして漂っていた。

「そう。ほら、イドリスなら出来るはず。その漂っている紅いマナに語りかけて、それから手のひらに乗せるの」

「これを……手のひらに……」

 語りかけると彼女は言ったが、それが言葉を発するという意味でないことは何となく分かる。だから俺はそのマナに手のひらを伸ばすような感覚で意識を伸ばし、そしてその手の平をゆっくりと広げていく。

「……火だ」

 そこにあったのは、間違いなく炎だった。小さな、さっきウリアが見せてくれたものとは比べ物にならないくらいに小さな火が、俺の手のひらに乗っていた。

「すごい!! いきなり成功するなんて、やっぱりイドリスには才能があるんだわ」

「そ、そうなのか……? って、さっきのは何だよ!! 死ぬかと思ったぞ、って」

「危ないっ」

 立ち上がり文句を言おうとして、気が付けば世界が回っていた。力が入らず倒れたのだと気が付いたのは、ウリアが受け止めてくれてから。その薄い胸に抱きとめられて、それからまるでウリアは幼い子供にするみたいに俺の頭を撫で始める。

「お疲れ様。ごめんね、そんなに辛いとは思わなくって……」

 それを俺は振りほどこうとして、だけど力が全く入らなかった。仕方なく俺はされるがままの状態で、なんとか口だけは気力を振り絞って開く。

「……さっきのは、なんだったんだよ」

「あれは、一時的に私の感覚をイドリスに共有したの。私の感覚をそのまま伝えると魂が耐えきれないって分かってたから、あれでもかなり絞ったつもりだったんだけど……。ごめんなさい、初めてマナに触れるには少し強かったかもしれない」

「あれが、お前の見てる世界なのか……?」

「少し違うけど……似たようなものね。私たちの場合、生まれた時からそういうものだから、あくまでも見たり聞いたりの延長線でしかないんだけど……」

 世界を知覚する器官が一つ多いようなものなのだろうか。仮に白黒の世界しか見えない生き物に、俺が見ている世界を見せたらあんな感じになるのかもしれないなと、なんとなく思った。

「なるほど……な。まあなんとなく分かったよ。……それより、もう落ち着いたから離してくれ」

「わっ、ごめんなさい」

 慌ててウリアが俺の顔を離し、その温かな感触が遠ざかっていく。それを名残惜しいと微かにでも思ってしまったのは、きっと単に夜の寒さのせいだ。

「はぁ……。気にしてねぇよ。それより、さっきみたいな要領でマナに干渉するのが神聖術ってことなのか?」

 さっきみたいに直接見えるわけではないが、あちこちにマナが満ちているのを肌で感じる。それは単に俺が感じている世界と同じ世界に、俺が今まで感じることのできなかったマナがあると分かっただけなのかも知れない。

 というかあれだけ鮮烈に、強烈に感覚を刺激されれば、それをすぐに忘れることなんで出来るはずもなかった。

「そうね。今のイドリスがどう感じているかは分からないけど……。世界に満ちるマナを今のイドリスなら知覚出来るはず。その力を誘導したり助けたり、時には少し強引に動かしたりするのが神聖術なの」

「感覚としては、肌で感じるって感じだけど……。流れに無理に逆らうより動きを誘導したりするほうが簡単そうだ。例えば……」

 ふと、近くにあった風の流れを感じ取り、俺はその動きに集中する。ただのそよ風。だけどそこにもマナが満ちていて、そして風の動きとともに流れていくのを今の俺は感じることが出来る。

 その風の流れを導くように、そして少しだけ押し出して勢いを手助けするみたいに、俺は手のひらに意識を集中させてそっと動かした。すると、

「キャッ!!」

 急に勢いを増した風がウリアの方に吹いていき、そして服の裾を大きくたなびかせた。危うくスカートの裾がめくり上がりそうになるのを、小さな悲鳴を上げたウリアは咄嗟に手で抑える。それから上目遣いにこちらを見てくる目は、少しだけ潤んでいてそして明らかに怒っていた。

「ちょっと、イドリス!?」

「わ、悪い。まだ感覚が掴めなくて、こんな感じかなって思っただけなんだが……」

「もう……。最初だから確かに加減が効かないのは分かるけど、でもいきなり人の服をめくろうとしなくたって……」

「んなつもりじゃねぇよ!! ってか、今の感じでいいのか?」

 正直、少しだけバツが悪くて俺は目を逸らしながら話を戻す。それにウリアはまだ少し納得の言ってないむくれた顔で、だけど小さくため息を零しながら頷いてくれた。

「……はぁ。そうね、今みたいに力の流れを強くするのが最初は使いやすいと思う。風だったら、少し力をかけてあげて鋭くすると、前に見せたみたいに見えない刃になるけど……」

 話しながら隣に立っていた彼女はそのまま地面に腰を下ろし、俺もまたわざわざ離れるもの変な気がして、彼女の隣にそのまま腰を下ろす。

「そういう使い方が出来るようになれば戦いでも使えるようになるんだろうけど、流石に今はどうやるのかも想像つかねぇ」

「普通は時間を掛けて覚えていくものだから。でも最初から風の背中を押せるだけでも、十分凄いのよ?」

「そうなのか?」

 ウリアの言葉に俺は自分の手のひらを見てみるが、何が凄くて何が当たり前なのかすら分からない。流れに沿って力を込めるような、そんなイメージだったのだが。

「もしかしたらイドリスは風のマナと相性が良いのかも!! 私も一番得意なのは風だから、お揃いだね」

「はぁ? なんで嬉しそうなんだよ」

 そもそもマナとの相性の良いも悪いも分からないのだ。仮にそれが同じだからと言って、喜ぶ理由はサッパリわからない。

「お揃いだから嬉しいの。でもよく考えたら当たり前かもね。……あの人も確か、風が一番得意だったんだもの」

「あの人?」

「あっ、ううん、なんでもないの。こっちの話だから」

 慌てたように胸の前で手を振り、彼女はそう言った。その表情にあったのは、明らかな動揺と悲しみだ。そんな評定をする彼女を問い詰めるような言葉は出てこなくて、俺は目を逸らしながら話を変えようと口を開く。

「でもあれだな。実際に自分で使ってみると、お前が剣を出したりしてたのが、どれだけ規格外かがよく分かっちまうな……。あの光の波紋に関しては、どうやってるのか検討もつかねぇし」

 流石にあの力の詳細まで聞くつもりはない……というよりも聞いても仕方がないだろう。あんな力を使いこなせるようになるとは思えないし、それにもうあんな世界を視るのはごめんだ。

「……まあいいや。とりあえず火も付いたことだし、まずは飯の準備だな」

「うんっ。あ、私チーズ食べたいな」

「はぁ……。まあ、火も付けてくれたんだし、それくらいはいいか……」

 ウリアのニコニコとした笑顔に、俺は出来るだけの呆れをこめてため息を吐き出す。別にチーズくらい大したことはない。まあせめて、出来るだけ薄く切ってやろうとだけは思ったけれど。

「あ、今のうちに日記書いておこうかな」

「……何書いてるんだ?」

 俺は火に薪を焚べながら、彼女の手元に視線を送る。別に中を盗み見ようとしたわけではなく、なんとなく気になっただけだったのだけど。でもそんな俺の視線に気が付いたウリアは、殊更に慌てた様子で書いていた本を閉じてしまった。

「だっ、駄目!!」

「あー……悪い、別に読もうとしたわけじゃねぇよ。ただ、少し気になっただけだ」

「それは、その……私こそごめんなさい。イドリスを疑ったわけじゃないの。でも……」

 ウリアは視線を落として、かすかにその表情を曇らせる。それからその視線はゆっくりと、目の前で燃え盛る焚き火の方に移っていって。

「……ねぇ、イドリス。一つ聞いてもいい?」

「ん、なんだ?」

 焚き火を見つめてどこか寂しそうな表情をするウリア。その横顔に俺が首を傾げると、彼女は俺の方に顔を向けないままに口を開いた。

「……もしもイドリスがよかったら、なんだけど……。あなたの両親のこと、聞かせてくれない?」

「は? ……俺の、両親のことを?」

 俺の問いかけに、ウリアが小さく頷く。その顔は、未だ焚き火を見つめたまま。その横顔に、俺は何を言うべきなのかを迷い口をつぐむ。

 どうして彼女が、自分で殺めたはずの俺の親のことを聞くのか。単なる興味からでも、話を逸らそうとしているわけではないことも分かる。彼女がそんな性格でないことくらいは、俺にももう分かっている。だから、ふざけるなと怒る感情は湧いては来なかった。

 だとしたら何故、と。そう問いかけるべきだとは分かっていたのに、彼女の辛そうな横顔を見ているとどうしてもそんな言葉は出てきてくれなくて。

 ──ああ、彼女はこっちを見ないんじゃなくて、きっと見られないんだと。その横顔に見えるのはきっと怯えなんだと気が付いてしまったら、もうそんな疑問も口にすることは出来なかった。

「……まあ、いい両親だったと思うよ」

 代わりに出てきたのはそんな言葉。別に両親の話をするくらいは構いやしない。それに彼女に両親の話をしておけば、死に際により後悔できるかもしれないからそのためだと。まるで誰にするわけでもない言い訳を内心でしながら、俺は懐かしい記憶を思い出していく。

「前にも言ったけど、父さんは商人で母さんは主婦だったんだ。父さんは仕事で家を開けることも多かったけど、家にいる時は遊んでくれたし美味しいお土産もよく持って帰ってきてくれた」

 今思えば、きっとそれなりに稼いでいた商人だったのだろう。新鮮な肉や甘い砂糖菓子など、今の俺では到底買うことの出来ないものもたくさん持って帰ってきてくれた。まあ当時の俺は無邪気に、お土産を毎回ねだっていたのだが。

「母さんは……自由奔放だけど、優しい人だったよ。いつもニコニコ笑ってて、なんでも知ってる人だった。達観してる、っていうのかな。俺がイタズラをしても、笑いながらどうして駄目なのかを諭してくれて、それから一緒に片付けをしてくれるような人だったよ」

 話し方も少し独特で、どこか中性的で少年みたいな話し方をしていたのを思い出す。それなのに話す内容はいつも年寄りみたいな内容ばっかりで、どこかチグハグだけどそんな母親が俺は大好きだった。

「……そう。優しいお父さんと、お母さんだったのね」

「ああ、まあな。特に母さんは怒ってるところを見たことないくらいだ。あー……いや、父さんを叱ってるところは見たかもしれねぇな。でもあれも、父さんを思いやってるから怒ってるって感じだったし」

 曖昧だが、なんとなくそんな景色に何度か見覚えがある。だけど確かそれは俺が本当に小さい頃で、そして怒られてる父さんはいつもボロボロだったはずだ。きっと何か危ない取引にでも手を出して、辛うじて帰ってきたのを怒られていたのだろう。

 だけど俺がいい大きくなってからは、そんなことがあった記憶は全く無いし、もしかしたら怒られて懲りたのかもしれないなと、俺は今更になって思う。

「まあそんな感じだ。だから俺は幸せだったよ、あの父さんと母さんの二人が両親で」

「そっか。……あなたのお母さんは」

「ん?」

「あなたの母さんは、幸せそうだった?」

 ようやく顔を俺の方に向けて、ウリアは不安そうにそう言った。大きな空色の瞳に焚き火の色が反射して、ゆらゆらと揺れている。いや、揺れているのはきっと瞳の方だ。その不安に揺れる瞳に、俺はただハッキリと頷いた。

「ああ、幸せだったと思う。……少なくとも、俺にはそう見えてたよ」

 本当のことなんて分からない。自分が出来の良い子供だったと、胸を張れるほど自身があるわけではない。だけどあの三人で居る時の、あの二人の笑顔はどこまでも温かくて輝いていたから。

「……よかった……。ありがとう、イドリス。私なんかに、話してくれて」

 まるで何か大切な気持ちを抱きしめるみたいに、ウリアは両手を自分の胸に押し付けながらそう言った。その顔を見て感じるのは、胸の温かさだ。怒りも憎しみも、今は湧いてこない。それがどうしてだろうと少しだけ考えて、

「別に。……俺も、ちょうど誰かに聞いてほしかったから話しただけだ」

 きっと、誰かに聞いて欲しかった。誰かに俺の両親がこんな人間だと伝えたかったのだろうと、俺は焚き火に視線を戻しながらそう思った。

「そっか。なら、よかった」

 彼女のどこか儚げな笑顔が、俺の視界の隅に映る。どうしてそんな笑顔をこぼすのか。そう直接聞きたいのに、だけどなんて口にすればいいかが分からない。だからか、

「……なぁ。前に父さんと母さんを殺した理由を聞いた時は、信じてもらえないから言えないって言ってたよな。……今なら、どうだ?」

 俺は気が付いたら、そんな疑問を口にしていた。

「それは……」

「言えたらでいいんだ。お前が約束を守ってくれることは、疑ってねぇよ。……けど、出来れば俺はその瞬間の前に、その答えを知りてぇんだ」

 どうしてなのかは、自分でも分からない。彼女からどんな答えを聞きたいのか、どんな言葉を聞きたいのか。なんと言ってくれれば、俺は彼女のことを──。

「……ごめんなさい。もう少しだけ、時間がほしいの。もう少しだけ待ってくれてたら、私はきっと……」

「もう少し、か……」

「うん、もう少しだけ」

「……分かった。少しだけだからな。……少しだけだ」

「ありがと、イドリス」

「はっ、別に」

 ウリアが微笑み、俺はそんな笑顔から目を逸らす。それから自分の感情からも目を逸らすみたいに、俺はパンに思い切り齧りついた。

「……やっぱ固てぇ」

 保存用にと買った黒パンは案の定カチカチで、味わい深さも旨味もなくただ固いだけ。保存を良くするためにライ麦を多くそして固く焼き上げたこれを、どうしてウリアはあんなにも美味しそうに食べられるのか。

 今も美味しそうに顎を動かしている少女を眺めながら俺は、

「はぁ……。何事もなくさっさと帝国に着いて、んでさっさとマトモな飯が食いてぇな」

 そんなことはあり得ないと分かっていながらも、そしてその願いの先に何があるのかも考えずに。今はただ、それだけを願わずにはいられなかった。

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