第3話
「は、入っていいよ」
ボロボロの宿の扉の向こうから聞こえてきた声に俺はため息を吐き出してから、もたれかかっていた壁から背を離した。宿に帰ってくるなり部屋から追い出されて、かれこれ十分くらい。ただ着替えるだけにしては少しかかり過ぎだろうと、俺は文句を言いながら扉を開く。
「はぁ……どんだけ待たせるんだよ。ってか、別に今じゃなくたって……」
扉を開いた先に居たのは、窓から差し込む陽の光を背に受けるウリアだった。先程買った服に袖を通し、まだそんなに寒くないだろうにケープまで羽織っていて。そして幸せそうに、それでいてどこか不安げに微笑んだウリアの姿だった。
さっきまで纏っていたドレスの、どこか神々しく触れがたい雰囲気とはまるで違う違う。どこにでもいる可愛らしい町娘の格好に、美しく輝く銀色の髪と整っていながらも幼さが垣間見える表情。本来は対極にあるはずの二つは、なぜだか不思議と噛み合っていて。
その姿に俺はほんの一瞬だけ息を飲みかけて、
「どう……かな?」
「……普通」
小首をかしげてきたウリアに、そっけなくそう言っていた。
「ってか、さっき見てるしな」
「そうじゃなくて、実際に着てるところを見てどうかって意味なんだけど……」
「別に、なんとも。まあサイズも合ってるし丈夫そうだし、いいんじゃねぇの? 似合ってるぜ」
「はぁ……。まあいいけど。一応ありがとうって言っておくね」
拗ねたようにウリアは唇を尖らせて、羽織っていたケープをそっと外した。彼女が何を不満がっているのかは流石に分かるけれど、機嫌取りという意味ならケープを買ってやった時点で十分だろう。
「それより、飯を食いながら今後の相談だな」
「ええ、分かってる。お腹減ったし、早く食べましょ」
先程買ったパンや干し肉を取り出し、包んである布を解く。黒ずんだライ麦のパンや固くなった干し肉の朝食ではあるが、半日ぶり以上の食事となれば贅沢は言っていられない。
本当ならスープの一つでもあれば上等だったのだが、そうした贅沢をする予算はウリアが大事そうに壁にかけたケープになってしまった。
「ま、元々こんなもんだし、仕方ないか」
諦めて俺はカチカチの黒パンを千切って口に放り込む。何度も噛まないと飲み込めないが、まあ草を食べるのに比べれば百倍はマシだろう。そう思いながら、きっと嫌そうな顔でパンを食べる俺の向かいでウリアは、
「あ、美味しい」
こんな時でも幸せそうに頬を緩ませていた。
「そうか? カチカチじゃねぇか」
「そう? しっかり噛めて私は好きよ。噛んでれば味もどんどん出てくるし」
「前向きな捉え方だな」
固いと思うばかりで、そんな考え方はしたことがなかった。まあ確かに、食べるからには楽しんだほうがいいだろうと。俺は微笑むウリアを眺めながら、しっかりと奥の歯でパンを噛み潰してみる。
「……いや、変わんねぇ」
美味しくないものはやはり美味しくなかった。
「私は本当に美味しいと思うんだけど……。天界だと食べた気がしないようなフワフワなパンばっかりだったから、お肉もパンもしっかりと味わえるのって新鮮なの」
「は? 嫌味かよ。フワフワなパンとか何年も食ったことねぇ」
最後に食べたのは、両親が生きていた頃だろうか。あの頃は小麦で作った焼きたてのパンを、当たり前のように食べることが出来ていた。それが当たり前ではなく、裕福な家庭の特権だと知ったのは、皮肉なことにその全てを失ってからだ。
「そうなんだ……。なら機会があったら食べさせてあげるね? 材料があれば私も作れるから」
「……ちなみに材料って?」
「真っ白い小麦粉と綺麗な水と、あとは干した果物があれば……」
「そんなん買えるか!! このパンが二十個は買えるぞ!!」
まあ案の定ではあったのだが、俺は思わずそう突っ込んでいた。
「え、そうなの? 知らなかった……」
「はぁ……。まあ、お前が知らないのも無理はねぇか……」
ウリアが天使の世界でどんな立場だったのかは分からないが、昔の俺も似たようなものだったのだ。そういう意味では、俺にウリアを攻める資格はきっとない。そこまで考えてから、俺はそう言えばウリアのことを何も知らないなと、今ここに至ってようやく思い出した。
「ってか、お前って天使の世界ではどんな立場だったんだ? 確か派閥みたいなものがあるとか言ってたよな」
「え? ああ、うん。どこから説明したらいいかな……。まず天使の世界……天界は、大きく二つの派閥に別れてるの」
人差し指を立てて、まるで教師みたいにウリアは話し始める。そんな人に何かを教えている姿も、彼女はやはり様になっているのだ。まあ、干し肉を持っているのでだいぶ減点にはなるのだけど。
「分かりやすく言うと、穏健派と急進派ね。穏健派は天界と人間の世界の均衡を保って相互に干渉し合いましょうって考え方。急進派は、天使が人間を支配するべきだっていう考え方」
「ああ……。まあなんとなく想像はつく話だな。天使様らしい考え方だ」
「……そうかもね。それでね、一応穏健派が長く天界の主流だったの。議会……ええと、偉い人の集まりみたいなものなんだけど。そこでも穏健派が多数だった。だけど……」
一瞬、ウリアの表情が曇り言葉が途切れる。その言葉を、俺が引き継いだ。
「急進派がクーデーターでも起こしたのか」
……クーデーター。人間の治める国でもよくあることだ。それほど学があるわけではない俺ですら、歴史を学んでいく中で何度も目にしてきた。そもそも今の王国を統治している現国王だって、数代前に古い政権を力で打倒した一族の末裔だ。
そんな俺の推察は、どうやら大きく外れてはいなかったようで。ウリアは暗い表情のままに頷いた。
「クーデーター……そうね。別に決まったトップが居るわけではなかったけど、結果的に私たち穏健派のほとんどが議会も追われてしまったの」
「なるほど、それでお前も追われる身になったわけか。穏健派の中では偉かったのか?」
「偉かったかと言われると、少し違う気はするけど……。でもそれなりに重要な位置に居たかな……? まあ今となっては、もう関係ないけどね」
悲しそうに、だけどそれを覆い隠すような自嘲気味の苦笑をウリアは浮かべる。確かに今の話を聞いていれば、落ち込むのも仕方ない。気持ちがわかるとは言わないが、理解くらいは出来るつもりだ。
出来るからこそ、それを無理に隠そうとするウリアが見ていられなった。理解したいと思わない相手の気持ちを理解できてしまうのは、それだけで嫌になる。
「……そうか。あー……まあその、だとするとアレか。他の天使に会うのは、慎重にしたほうがいいのか」
「ええ、捕まったら良くて監禁……。最悪、その場で殺されてもおかしくないもの」
「ま、だよな。……はぁ。厄介事ばっか増えてくな、ホント」
「……ごめんなさい」
「別に謝らせたい訳じゃねぇよ」
ついでに、そんな顔をしてほしいわけでも。そんなことを俺は心の中だけで思ってから、八つ当たりをするみたいに固いパンを無理やり引きちぎった。
「それより、食べたら俺は少し寝るけど。お前はどうするんだ?」
夜中歩き通しで、正直に言ってもうクタクタだ。本当なら少しでも情報収集などに努めたいのだが、こんな時間では酒場だって空いてやしない。仮眠を取ってから行動するのが妥当だろうと、俺は話の流れを切り替えるのを兼ねて尋ねる。
「え、私? あ、そっか。どう、しようかな……」
「目立つことをしないって約束するなら、町を見て回っててもいいんだぞ?」
まだ頭の切り替えができていないのか、ウリアはどこかぼうっとした顔をしていた。それから俺の提案を聞いて少しだけ悩んでから、しかしあっさりと首を振った。
「ううん、止めとく。私も疲れちゃったし、少し寝よっかな」
「そうか。まあ俺はどっちでもいいけどよ」
「ありがと、気を使ってくれて」
「別に、お前が逃げ出さないなら俺はなんでもいいだけだよ。あ、ちなみにベッドで寝るのは……」
俺だからなと、そう言おうとして。
「うん、一緒に寝ましょ」
「は?」
今日何度目かわからない、唖然とした声を俺は出していた。
「え? だってベッドは一つしかないんだし、そうするんだと思ってたんだけど……」
何を言っているんだと俺は見る前で、ウリアは不思議そうに首を傾げている。そう言えば部屋を借りた時も、何が問題なのかすら分かっていない様子だったけど、まさかここまでとは。
「一つになったのはお前が部屋を一つで良いって言ったからだろ……。そりゃお前は小柄だから、詰めればなんとかなるかもしれねぇけど」
「でしょ? なら平気じゃない」
「……そうかよ。勝手にしろ」
「ふふっ、変なイドリス」
お前がなと、そう言おうとした言葉はパンと一緒に飲み込んだ。それからはそれほど話すこともなく、買い物をした服屋のヨナの話とかをしたくらい。俺たちはパンと干し肉を食べ終えて手早く机を片付けると、窓を締め切って月明かりを遮りベッドに潜り込んだ。
さっきの話の通り、二人一緒に。
「ふわぁ……。やっぱ、狭いな」
「い、イドリスが思ってたより大きかったんだもん。こんなに筋肉とかしっかりついてるなんて、思わなかったから……」
ウリアが話すたび、背中越しに彼女のどこか熱い息使いを感じる。一つのベッド、しかも安宿のものとなれば、例えウリアが半ば子供みたいな体型だろうとこうなるのは目に見えていたのだ。
しかもウリアの場合、背中合わせになるのは翼が邪魔で難しいので、俺の背中に縋り付くみたいな体制になっているのも余計に辛い。端的に言えば、彼女の優しくも儚げな声が耳元で聞こえるのも、背中に当たる少女らしい柔らかさを感じるのも、あまりに心臓に悪かった。
「当たり前だろ、兵士だぞ。……ってかおい、さっきよりこっち寄ってないか?」
「ううん、イドリスの気のせいよ」
「本当かよ……」
この状態では振り返って確かめることも出来ない。それに何より、こんな状態なのにも関わらず俺の体は疲れに忠実なようで。瞼は一秒ごとに重さを増していき、ウリアの声も感触も、俺の意識から遠のいていく。
「まあいいか……。流石に疲れたな、今日は……」
「巻き込んじゃってごめんね。せめて今は、ゆっくり休んで」
顔を見ていないおかげだろうか。コロコロと変わる表情が見えないウリアの声は、どこか大人っぽく聞こえるような気がして。その優しい声は、俺の薄ぼんやりとした頭に当たり前みたいに入り込んでくる。
「言われなくても……休むよ。それよりお前も、ちゃんと休めよ、な……」
「……ふふっ、ありがと。私もちゃんと休むから、大丈夫」
「そう、しろ。お前だって……しんどいはず、なんだから。今くらいは……」
自分でも、何を言っているのかよく分からない。ただウリアだって仲間に裏切られて、その挙げ句に落ちた先は仇のところで。その仇と一緒に旅をしているなんて、そんな状況で、辛くないはずがないんだ。
「心配、してくれてるの?」
「心配……? あぁ……まあ、そうかもな……。ふわぁ……駄目だ、本当にもう……」
「うん……お疲れ様、イドリス。あなたに安らかな眠りがありますように……」
はっ、まるで天使みたいだなと。そう言おうとした言葉は出てこなかった。代わりに出てきたのは、微かな吐息とそして笑みだけ。振り返らずとも彼女の温かく優しげな、包み込むような微笑みは瞼の裏に浮かぶようで。
「それから……ありがとう、私のことを守ってくれて。あなたは必ず、私が……」
そこから先、ウリアが何を言ったのかは聞き取れなかった。それが彼女が口をつぐんだのか、それとも俺が眠りに落ちたのか。そのどちらかなのかも分からないまま、俺の意識は温かなまどろみの中に溶けていったのだった。
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