2章 町に咲く笑顔、胸に積もる苛立ち

第1話

「はぁ……とりあえず……。この辺りまで来れば、平気だろ……」

 見晴らしのいい、小高い丘の上。その頂上に立っていた木の根元に座り込みながら、俺は息も絶え絶えにそう言った。自分の家があった町、そこから普通に歩けば半日はかかる場所。そこまでずっと走ってきたのだから、息が切れるのも当然だ。

 そしてそんなことになった原因である少女は、

「えっと……。少し休む?」

 あれだけの距離を走って尚、息も切らさずそれどころか心配そうな目で俺の方を見てきていた。

「当たり前だ……。ってか、お前はなんで息の一つも切らしてねぇんだよ……」

「それはまあ、一応は元天使だから……かな。今まで走ったことってほとんどなかったから、少しだけ心配だったけど」

「走ったことがない? んなわけねぇだろ」

「え? だって飛べたから……」

 キョトンとした顔で返ってきた、考えてみればその当たり前すぎる返答に、俺はそうかよといって地面に寝転んだ。湿った土と草の匂いが鼻先をくすぐって、その素朴な匂いに俺は少しだけ安心しながらため息を吐き出す。

「はぁ……。随分と便利なんだな、天使様は。いや、もう元だったか。とりあえず、人間はこれだけ走れば疲れるんだよ」

「そうなんだ……。うん、覚えておくね」

 俺の皮肉が通じなかったのか、それともわざと無視しているのか。ウリアは無邪気にそう言って、俺のマネをするみたいに草原に寝転んできた。寝転んだ勢いでフードが外れ、彼女の銀色の髪が地面に流れる。

「んしょっ……と。私も少し疲れちゃった」

「無理に人間の真似なんかしなくていいんだぜ。っていうか、これだけ走って少しかよ」

「ま、真似なんかじゃないわよ。天使だって力を使ったりすれば疲れくらい感じるんだから。まあ……人に比べれば確かに少しだけ頑丈にできてるかも知れないけど」

 どこか少しだよとは、思ったけどキリがなさそうだったので言わないでおいた。そもそもきっと感覚の尺度が俺たちと全く違うのだ。それを一々すり合わせてやろうと思うほど、俺はこいつに心を砕くつもりもない。

「まあなんでもいいいけどよ。とりあえず、これからお前のスタミナは心配しなくていいってことか」

「それは……まあ、そうなるけど」

 何が釈然としないのか、少女はなにかいいたげに唇を尖らせている。その横顔を俺は横目に、少なくとも自分の中ではうんざりとした目線で見ていて。

「……なあ。お前、その髪……」

 そこで初めて、目の前に居る少女の髪の色が、少し前と違っていることに気が付いた。そんな俺の疑問に、ウリアは俺の言っている意味が分からないとばかりに、小さく首を傾げながらこちらを向く。

「髪がどうかした?」

「いや、どうしたって……。さっきより、黒くなってないか?」

「え……?」

 ポカンと、そんな音が聞こえてきそうなくらい間抜けな顔で、少女はもう一度首を傾げる。それから慌てたように体を起こして、そして自分の髪を眺め始めた。

「うそっ、本当に黒くなってる……。ど、どれくらい変わってる?」

「そうだな……さっきは少し黒いのが混じってるくらいだなって感じだったんだが。今は半分……はいってないけど、四分の一くらいは黒くなってるぜ」

「そんなに……? あぁ、鏡持ってくればよかった……」

「そんな余計な物、持ってこられるかよ。後で川の近く通ったときでも確認しとけ。そもそも誰に見られるわけでもねぇだろ」

 落ち込んでいるのか、ウリアは髪から力なく手を離して腕を下ろす。それを寝転んだまま見ていた俺に、少女はまるで拗ねたように顔をそっぽへと逸してしまった。

「あ、あなたが見てるでしょっ」

「俺が見てたら何なんだよ。ってか、髪が黒くなるのってそんなに重要か?」

「……私には重要なの……。はぁ……それより、どんな感じに黒くなったのか分かる?」

「あ? どういう意味だよ」

 質問の意味が曖昧すぎて俺が聞き返すと、ようやく落ち着いたのかウリアは立てた人差し指をゆらゆらと揺らしながら口を開く。

「えーっと、ゆっくり黒くなってったのか、それとも一気に黒くなったのかってこと。もし分かれば、黒くなったタイミングとか」

「あー、どうだろうな……。戦ってる時はそれどころじゃなかったし、走ってる時もお前の髪なんて気にしてる余裕なかったから……」

 俺も体を起こして思い出そうと試みてみるが、どうしても思い出せない。まあ必死に走っている時に、少女の髪の変化に気がつけるほど余裕があるはずがないのだが。

「そう……。それなら少しだけ試したいことがあるんだけど……。私の髪、よく見ててくれる?」

「別にいいけど……」

「ありがと。それじゃあ……」

 ウリアが立ち上がり、そして視線で俺も立ち上がるように促してくる。なんで俺がと、そう思いはしたが、よく見ていてもいいと言ってしまった以上は仕方ない。

 立ち上がり、ウリアと俺は向かい合う。真剣な面持ちでこちらを見つめるウリアは、相変わず月の光を受けて輝くような、長い銀色の髪を靡かせていて。

 そんなウリアがゆっくりとした仕草で右手を空に掲げると、今度は比喩でもなんでもなく、その体が輝き始めた。

「なにを──」

「大丈夫。……見てて」

 そう囁くように口にして、それから優しくウリアは微笑む。それから一瞬、目が眩むくらいの光が俺の目を覆って。そして気が付けば、ウリアの手には美しく輝く白金の剣が握られていた。

「それ……」

「私の剣よ。少しだけ心配だったんだけど……ちゃんと出てきてくれてよかった」

 そう言ってウリアが手を離すと、その剣は光の粒子になって消えていった。如何なる神秘か先程まで確かな質量を持っていた剣が瞬く間に消えていく光景を、俺はただ見惚れるように見つめる。

 これが天使の業なのだろう。何が起きたのかは分からない。ただ彼女の手の中になにかの力が凝縮していくような感覚だけは、なんとなく分かるような気がした。

「ちょっとだけ、天使神聖術を使ってみたの。普通の神聖術はマナに働きかけるもので、あくまでも無理に従わせたりは出来ない。でも天使神聖術はマナを従えることが出来るから、剣の形にして固定化したりは基礎なんだけど……。って、イドリス?」

 先程までの真剣な表情を子供みたいに無邪気な笑顔に変えて、俺に向けて首を小さく傾げる。それを見て俺はようやく我に返り、頭を振って目に焼き付いていたウリアの姿を振り払うようにしてから口を開く。

「あ、ああ。悪い、ぼうっとしてた」

「え、もしかして見てなかった?」

「ああいや、それは大丈夫。あーそうだな……剣が出る時、一瞬光っただろ? その前と後で、黒い部分がほんの少しだけど増えた気がする」

「……やっぱり。力を行使すると、黒い部分が増えるみたい。それじゃ、これは……?」

 ウリアが手を払うと、すぐ傍の木から落ちてきた木の葉が、俺の目の前で真っ二つに両断された。

「うわっ。なんだ急に」

「あっ、ごめんなさい、驚かすつもりじゃなかったんだけど……。今のはね、普通の神聖術を使ったの」

「……なるほど。肝心の髪は……変わってるようには見えねぇな」

 さっきまでは明らかに違いが分かったのだが、今回は少なくとも目で見て取れる程度の違いはないようだ。

 それを聞いたウリアは、考え込むように顎に手をやって眉間にシワを寄せている。それから恐る恐る、自分自身確信が持てないような口調で口を開いた。

「やっぱり……。普通の神聖術なら変わらなくて、天使神聖術だと黒くなるみたい」

「根本からその二つは何かが違うってことか?」

「……分からない。きっと天使の資格がないのに、天使の力を無理に使おうとした代償だと思うんだけど……」

「思いはするけど、それでどうなるかは分からないってことか。……何も分からないのと変わんねぇな」

「だ、だって私もこんな前例知らないんだもん、仕方ないじゃない」

 責めるような俺の口調に、ウリアは腕をブンブンと振りながら抗議してくる。そんな、それこそ年齢不相応なはずなのにやたらと可愛らしくみえる仕草に、俺はため息を吐き出して言葉を返す。

「はぁ……。役に立たない元天使様だなぁ」

「ひ、ひどい……。私だって傷つくのに……」

 泣きべそをかくみたいな声を出して、実際に涙目になる元天使様。なんと言うか、とても情けない。あと腹が立つくらいに可愛らしい。というか可愛らしいのが問題なのだ。何年生きているのか知らないが、幼く見えるのは見た目だけにして欲しい。

 と言うか、会った直後はもう少し大人っぽいと言うか落ち着いていて、それこそ天使らしい立ち振舞をしていたはずなのに。もしかして、これが素の性格なのだろうか。だとしたら契約の時の、あの神々しさすら感じる雰囲気はなんだったんだと俺は内心で嘆息して。

「って、そんなことはどうでもいいんだ」

「どっ、どうでも!?」

 思い切り動揺しているウリアを他所に、俺はその髪を改めて観察する。黒い髪が急速に増えた、その美しい髪。銀色は月の光のように、そして黒色は月の光すらない夜闇のように。矛盾するその二色を宿すその髪は、例えその色の比率が変わろうとも、変わらずに美しい。

 しかし、美しいだけだ。その意味はきっと他にあるはず。例えば、

「……でも力を使う毎に天使の象徴みたいな白い部分が減っていくってのは……いいことな気がしねぇな」

「私もそう思う。私の髪が全部真っ黒になった時にどうなるかは分からないけど……」

「死んでもおかしくはない……か」

 俺の言葉に、ウリアもまた頷いた。彼女も同じ可能性に思い至ったことを確かめて、俺は小さくため息をつく。

「確かにあり得ない話じゃねぇ。ならその力は……」

「うん、使わないようにする。……力の使い過ぎで死ぬなんて、私も嫌だから」

 そう言ってウリアの微笑みは、まるで今にもさっきの剣のように消えてしまうんじゃないかと、そんな錯覚を覚えてしまうほどに儚げで。俺はそんなウリアから、目を逸らすことしか出来なかった。

「……そうか。あー……それじゃ、そろそろ行くか」

「もう休憩は大丈夫?」

「お前こそ……って、心配するだけ無駄だったか。俺はもう大丈夫だから、近くの元帝国領の町にひとまず向かうぞ」

「うん、分かった」

 まだ疲労の残る足に活を入れて立ち上がる。こんな元天使なんかを相手に意地を張っても仕方ないと、そんなことは分かっているけれど。隣で疲れの色すら見せずケロっとしている少女の横で、いつまでもへばっていられるほど、プライドのない男ではないつもりだ。

 草原の向こうを見れば、既に空は白み始めている。月は沈み、星は既に空の彼方に消え去った。夜と朝の狭間の中で、天使でも人でもない少女は風に髪を靡かせて彼方を見やっている。そんな曖昧な在り方をする空も少女は、美しいところまで似ていた。

「あ、そうだ。荷物私が持とうか? あんまり疲れないし……」

「これくらい、大したことねぇよ。あと、お前に持たせたらなんか失くしそうだし」

「そ、そんなドジじゃないわよ……」

「どうだかな」

 そんな何でもないやり取りをしながら、俺達は並んで歩いていく。走らなくていいおかげか、それとも慣れただけなのか。そのどちらなのかは分からないが、ウリアはやたらと口数が多くて。抵当に言葉を返しながら俺は、楽しげなその笑顔から目を逸らし続けていたのだった。

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