俺は天使と旅をする。

ダニエル

1章 堕ちてきた少女

第1話

 覚えているのは、燃え盛る炎と剣を伝い落ちる血。屋根は焼け落ち炎に呑まれ、自分を守ろうとした両親は血溜まりのなかに倒れ伏している。それを俺は、自分の血で真っ赤に染まった視界で、ただ眺めていた。

 全てが真紅に染まった世界。煉獄と呼ぶに相応しい景色。自分が終わるのだと、そう受け入れざるを得ない光景。

 そんな世界の中でただ一つ、真紅に染まらぬ輝きを見た。

 ──それは眩しく輝く銀色の髪と、大きく広げた純白の翼。雪のように白い肌に純白のドレスを纏い、まるで澄んだ青空のような空色の瞳は、炎にまかれながらもその輝きを失うことはない。

 まさしく天使と呼ぶに相応しい、世界の美しさを体現したような少女だった。

 ただ一つ、血に濡れた細身の剣を除いて。

「お前が……。お前が父さんと母さんを……」

 ポタリと、剣から真っ赤な血が滴り落ちる。その足元に倒れている父と母だったものをその天使は一瞥して、それから俺に視線を向けた。

 天使の空色の瞳が、俺を射抜く。その瞳を俺はただひたすらに、憎しみを込めて睨みつける。

「君は……」

「ゆる、さない……。」

 その透き通った鈴の音のような声を遮って、燃え盛る炎に喉が灼けるのも構わずに、俺はその少女に呪いの言葉を吐き出した。

「殺す……。絶対に、俺がお前を殺す……」

 その純白の身が、少しでも穢れるように。この憎しみが、少しでも傷跡として残るように。いつかその胸に、刃を突き立ててやると、俺はしゃがれた声で叫ぶ。

「殺してやる!! 父さんと母さんを殺したお前を、俺は絶対に──」



※※※



 その日はなんでもない、代わり映えしない日常だった。いつも通り何の異常もなく国境の巡回を終え、訓練も乗り越えて帰宅して後は明日を迎えるだけの、繰り返される日々のほんの一日のはずだった。

「いってぇ……」

 覚えているのは、突然鳴り響いた轟音と体を打ち据えた衝撃。何かに体を叩き伏せられたと、そう感じた時には既に意識はなく。気が付けば俺は、自分の部屋の床に倒れ伏していた。

「なにが起きた、ん……だ……」

 痛む頭を抑えながら顔を上げた俺の前に広がっていたのは、崩れ落ちた屋根と散らばった家具の破片たち。これからスープになるはずだった食材たちも撒き散らされ、そして叩き潰されている。けれど、そんなことは俺の目に入りすらしない。

 思わず、息を呑んだ。その惨状にではない。その惨状の中心。瓦礫の散らばったベッドに仰向けで倒れていた少女の美しさに、俺は気が付けば呼吸を止めていた。

 雪のように白い肌と、輝いてすら見える真っ白のドレス。気を失っているのか目を閉じたその顔は、あどけなさを残しつつも彫刻のように美しい。月の光を受ける背中のあたりまでのある銀色の髪には、まるで夜闇で染め上げたように黒い房が混じっていて、それがかえって少女の美しさを際立たせていた。

 まるで天使のような……。いや、これだけの破壊を撒き散らして、それでもなお薄く膨らんだ胸を上下させている時点で、人間のはずがない。それならば──。

「なんで……天使がこんなところに……」

 翼だ。灰色に染まり、大きさも以前俺が見た天使のものとは比べ物にならない。でも確かに大きく開いたドレスから見えるその背中からは、天使であることを象徴する翼が生えていた。

 剣を鞘から抜き、逆手に構える。

 ──殺さなくちゃ。

 そのためだけに生きてきた。全てを奪われたあの日から、天使をこの手で殺すために生きてきた。

 ──殺さなくちゃ。

 折れそうな心も挫けそうな膝も、そして涙を流しそうになる目も。その全てを耐えられたのは、この目的があったからだ。

 ──殺さなくちゃいけない。

 まるで自分に言い聞かせるように呟き、俺は剣を少女の首に突き立てようとして。しかしその少女の背を流れる赤い血を見て、俺はその手を止めてしまっていた。

「なん、で……」

 翼に隠れていたその背中には、鋭い刃物で斬りつけたような大きな切り傷があった。人と変わらない真っ赤な血が少女の真っ白な肌を伝い流れ、ベッドを赤く染めていく。

 灰色の羽もゆっくりと赤く染まっていき、そして少女が痛みにか表情を曇らせるのが目に入る。その表情は、俺たち人間とまるで変わらない。苦痛に歪ませていても美しいと、そう思ってしまうほどの美貌を除けば。

 手が震える。この剣に力を入れるべきだと、分かっているのに動かない。そうしなければ、きっと取り返しのつかないことになると、心のどこかで冷静な自分が叫んでいる。だけどその少女の苦しそうな顔から、俺はどうしても目を離すことが出来なくて。

「……ああっ、くそ!!」

 剣を鞘に収め、俺は散らかった部屋の瓦礫を漁り始めた。探しているのは包帯と、それからなんでもいいから水だ。

 この天使が、普通の天使でないことは明らかだ。天使であれば髪に黒い房が混じっているはずがないし、羽も真っ白のはず。それに天使が赤い血を流すなんて話、俺は一度も聞いたことがない。そんなことを考えながら、俺はその傷口に包帯を巻き付けていく。

 恐る恐る触れた肌は、人と変わらない温かさと柔らかさで。だけど自分と同じ人間とは思えないくらいに、滑らかな感触をしている。翼はそれとは反対にごわごわと毛羽立ったような感触で、以前見た天使の翼とは見た目からして明らかに別物だった。

「こんなもんか……」

 少しキツめに包帯を巻き、血が軽く滲んだくらいで止まったのを確かめる。それから念の為にと余った包帯で手足をしっかりと縛り、そのままベッドに転がして。

「なんなんだよ、お前は……」

 それから俺は部屋の隅まで離れ、剣を手にとって床に座り込んだ。

 この辺りで戦闘が起きていないことは、ブエル国境警備隊の俺が一番良く知っている。だとしたら、帝国側の内輪揉めだろうか。でも、仮にそうだとしてもだ。天使を手負いにするなんて、それこそ同じ天使同士でもなければ、そう出来ることではないはずだ。

 それなら、それならばと。頭の中を答えのない疑問がぐるぐると回っていく。その答えを知っているであろう少女の美しい顔を、じっと見つめながら。

「こんなに……綺麗なのに」

「んっ、んぅ……」

 俺の呟きに反応してか、少女の長いまつげが揺れる。傷の痛みか、それとも縛られている苦痛からか。苦しそうな表情のまま、その少女の瞳がゆっくりと開かれた。

「ここ、は……」

 鈴を鳴らしたような声と、まるで空をそのまま閉じ込めたような、透き通った空色の瞳がこちらを向く。自分の状況が分かっていないのか、警戒心なんてどこにも感じられない仕草で起き上がる少女。その姿に俺は微かな苛立ちを覚えながら、努めて冷静に口を開いた。

「ここはブエルの町にある俺の家で、お前は空から降ってきた。悪いが手足は拘束させてもらってる」

「空から……? それよりあなたはもしかして……」

「俺のことより、まずはお前だ」

 一歩だけ、少女に向けて足を踏み出す。緊張から喉が渇き、握りしめた剣を指の感覚がなくなるほどに強く握りしめてしまう。だけど、どれだけ緊張していても、俺はその少女から目を逸らさずに。

「お前……天使か?」

 震える声で、そう尋ねていた。

 一瞬、少女の目が見開かれる。俺の質問に驚いたというよりも、俺の姿を見て驚いたように見えた。だけど少女が動揺していたのはほんの一瞬で、すぐにどこか悲しそうな面持ちで顔を俯かせてしまう。

「……ええ、そう。まあ今では、元になってしまったけど」

「元……?」

「剥奪されてしまったの、天使の資格を。だから……元」

「ああそうかよ。でも、元でもなんでもいい」

 剣を抜き放ち、少女の首筋に当てる。銀色の刀身が月の光を反射して、少女の顔を明るく照らし。驚きよりもどこか悲しそうに、だけど一切の抵抗もしないで少女は、ゆっくりと俺の顔を見上げてきた。

「俺の親は天使に殺された。兵士でもなんでもない。ただの商人だった両親を、お前らは殺した。だから俺は天使を……殺さなきゃならない。」

「……やっぱり、あなたは……。そう、そういうことなのね。あなたはあの子の……」

 少女の瞳が見開かれ、そして一度だけ大きく揺れる。まるで透き通った水底のようなその瞳に、どんな感情が沈んでいたのかは分からない。いや、分かりたくもない。だって、

「……そうね、そういうことならあなたには私を殺す資格がある。だって、あなたのご両親は……」

 ──私のせいで、死んだんだもの。

 少女はそう言って、申し訳無さそうに目を伏せた。その言葉が、聞こえているはずなのに理解できない。今、この少女は、なんと言ったのか。

「どういう……意味だよ」

「そのままの意味よ。あなたのご両親がなくなったのは……私のせい。あなたも見たでしょ? 血に濡れた、私の剣を……」

「お前っ!!」

 思わず剣を持つ手に力がこもる。目の前に、あの日の景色が蘇ってくる。紅蓮の炎と、真紅の血。その真ん中に居た天使の顔が、あの水色の瞳が、目の前にあるものと重なっていく。

「お前が!! お前が俺の母さんと父さんを!!」

「ええ、そう。だから私はあなたに──」

「おい!! お前なにを……」

 首に当てた剣に、少女はあろうことか沿うように体を動かして、俺に向かって近づいてきた。その柔らかい肌を刀身は切り裂いて赤い血を吹き出させるはず。しかしその少女の肌は不思議な力で守られているように、柔らかく刀身を受け止めていた。

「斬れてない……?」

「……でも、ごめんなさい。やっぱり、普通の武器じゃ死ねないみたい」

「……元なのにかよ」

「ええ。もしかしたらと、思ったんだけど……」

 まるで死ねたらよかったと、そう言いたいような口調で少女は言う。それが何故だか無性に腹が立って、俺は意味がないと分かっていながら剣を再びその首元に突きつけて言う。

「まるで死ねたら死んでくれるみたいな言い方だな?」

「ええ、そのつもりよ。あなたが私を殺せる時が来たら、私はあなたの刃をこの首で受けると誓います」

「……そうかよ。でも殺す手段がなきゃ意味がねぇ。はぁ……神聖武器でも持ってりゃな」

「持ってないの?」

「あんなの貰えるほど出世してないんでね」

 ため息をこぼしながら、俺は剣を鞘に収めた。殺す手段もないのにこんな風に死にたがられて、しかも警戒心なんてなく首を傾げられたら、こっちだけ警戒しているのが馬鹿みたいだ。

 そもそも少女を傷付ける手段が俺にはない以上、警戒するだけ無駄なのだから。

「何もしないの……?」

「……ふざけやがって。剣が通りもしない相手に、警戒してどうするってんだ。俺はお前の言葉を信じるしかねぇんだよ」

 部屋の隅に戻り、ドカリと床に座り込む。そもそも逃げようと思えば、きっといつでも逃げられるのだ。それをしない理由が、彼女の言葉通りと思うほどお気楽な性格はしていないが。感情的になって敵討ちの機会を失うほど、バカではないつもりだ。

「よかった……。ありがとう」

「いつか殺される相手にお礼かよ。正気じゃねえな」

「正気じゃない……か。ふふっ、うん、そうかも」

 自虐的な笑みだった。俺の嫌いな、何もかもを諦めたみたいな微笑みだ。それを見て、諦めさせているのが自分だって分かっていながら、俺は苛立ちに一瞬歯を食いしばる。どうしてこんなにも苛立つのかは、自分でも分からないまま。

「ちっ、自分を殺す相手にその態度かよ……やりづれぇな。それよりお前、一つだけ聞かせろ」

 これだけは聞いておかなければならないと、俺は彼女を睨みつけながらその疑問を口にした。

「……どうして、俺の父さんと母さんを殺した」

「それ、は……」

 天使が口ごもる。小さな動揺と、そして不安と悲しみ。俺が睨みつける先で、少女はその端正な顔を曇らせてから、その顔を伏せて口を開いた。

「ごめん、なさい……。それだけは、言えないの。言っても今のあなたには、きっと信じてもらえないから」

「は……? ふざけてんのか、てめぇ」

「あなたがそう思うのも無理はないけど……。でも、信じてほしいの。私はあなたから逃げたりしない。それに、あなたが私を殺す時には……絶対に言うって約束する」

 空色の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。揺らぐことのないその目は、嘘をついているようにはどうしても見えなくて。俺はそんな目をどうしてか見ていられず、思い切り舌打ちをしながら目を逸らした。

「ちっ……それよりお前。さっき天使の資格を剥奪されたって言ったよな」

 それからその感情から目を逸らすみたいに、俺は情報を手に入れるという現実的な目的で尋ねた。そうしていれば自分がするべきことをやれていると、そう思える気がして。

「ええ、そうね」

「内輪揉めでもしたのか? 王国兵と戦ってってわけじゃないだろ」

「内輪揉め……みたいなものかもね。天使にも派閥があって、その中でまあその……色々あったの。危ういところで仲間が助けてくれたから、完全に力を失ったわけではないんだけど……」

 沈んだ声色で少女は言う。まあ無理もない。彼女は要するに、違う派閥とは言え同じ天使に裏切られて、しかも今ではその天使ですらなくなってしまった元天使なのだから。

「なるほどな……。完全に天使じゃなくなってくれてれば、俺がこれで殺せたわけか」

「そうなってたら、ここに来る前に死んでるんじゃ」

「ああ、そりゃそうか」

 つまりどちらにしてもどうしようもないわけか、と。俺は思わず苦笑交じりのため息をこぼした。

「それで、どうするの? いつまでも縛ってかれるのは、流石に嫌なんだけど……」

「あー、そうだなぁ……。神聖武器をなんとか手に入れるまで、家で大人しくしててもらうとか?」

「私はそれでもいいけど……。それ、どれだけかかるの?」

「……十年くらい?」

「その間、ずっと私はここにいるの……?」

「そうだよなぁ……。色々現実的じゃないか……」

 とは言え、今すぐにどうにかする手段がないのも確かだ。そもそも今では俺に殺されても構わないと言っているが、いつ気が変わって逃げ出そうとするかも分からない。だが衛兵に突き出せば、俺の手の届かないところで処刑されるのも見えている。

 それだけは、絶対に駄目だ。そんなことでこの胸の内に燃える炎は消えやしない。消えるはずがない。消えていいはずがないから。

「それならお前は何かアイディアでも……」

 ないかと、そう言おうとした俺の声は。

「ねぇ。……囲まれてる」

 緊迫した少女の声で遮られ、続かなかった。

 とっさに体が反応し、窓際に駆け寄る。外から見えないように覗き込んだ窓の外には、家の周囲を取り囲もうとする見慣れた軍服たちの姿があった。

「……本当だ。数は……分かんないくらいに多いけど。……お前、よく分かったな」

「少しでも力が残っててくれたおかげかな……。気配を感じたの。……それもたくさんの敵意を」

「そりゃ不幸中の幸いだな。でも、なんでうちの兵士たちが……」

「あなたが勤務時間になっても現れないから、皆で迎えに来たとか……?」

「んなわけねぇだろ。っていうか、俺の部隊の連中も居るじゃねぇか……」

 今も自分が着ている軍服だ、いくらなんでも見間違えるはずがない。完全武装で家を取り囲む面々には、見知った顔もある。それどころか、

「軍団長までかよ……。いつもは本部に籠もりっきりの癖して、こんな時だけ勤労意欲発揮するなよな」

 自分の上官の更にその上官の上官である軍団長の姿まで見えて、俺は思わず顔をしかめていた。初めて見る完全武装で、見たこともないほどに真剣な表情で、軍団長は周囲に命令を飛ばしている。

 普段のやる気を見せない軍団長にすら、俺は模擬戦で一撃を入れられたことすらないのに。そう思い固まっていた俺は、隣から聞こえてきた震える声に視線を引き戻した。

「……私のせいだ」

「は?」

「きっと、私が落ちてきたのを見て捕まえに来たんだわ……。ごめんなさい」

 しょんぼりと俯く少女に、俺はため息を吐き出しながら近寄って、その手と足を縛っていた布を手早く解いていく。少なくともこのままでは押し入られるのは時間の問題だし、そうなればこの少女は俺の手の届かない場所に行ってしまうだろう。となれば、逃げ出すしかない。

「えっと……いいの?」

「いいも悪いもあるか。今は一緒に逃げるしかねぇだろ。あー……とりあえずこれでも羽織っとけ。今のままじゃ目立ちすぎる」

「あ、ありがとう……」

 自分が使っているものだが、緑色の大きな外套を壁から取って少女に投げつけるように渡した。こんな真っ白なドレスで逃げようなんて、夜闇の中では見つけてくれと明かりを灯しているも同然だ。

 まあ俺のお古だし綺麗とはいい難いが、少女は何の文句も言わずその外套を着てくれた。小柄な少女の体がすっぽりと隠れるくらい大きい外套は、少女の白い服も肌も覆い隠してくれて、ついでに灰色の翼もその後ろになんとか隠せそうだ。

「どう……?」

 そんな状態で、少女はこちらを伺うように上目遣いで首を傾げてきた。それに俺は外出時の装備品が詰まったリュックを渡しながら、十分だと頷く。

「どこから見てもスラムの貧乏な少年だ。ああ、これも持っておいてくれ」

「そういう意味じゃ……。まあいいけど」

「さて……と。これだけ準備の時間をくれたんだ、包囲の隙間なんて……ないんだろうなぁ」 

 ため息をつきながら、俺は扉に近寄っていく。この街は部隊の庭だ。その街で、包囲の穴を作るような部隊でないことは、俺が一番良く知っている。

「なら、どうするの?」

「正面から行く。無茶だが……玄関ぶち破って突っ走るしかねぇ」

「そ、そんな方法で……?」

「これが一番マシなんだよ。裏口は間違いなく一番警戒されてだろうし、裏通りは上からいくらでも奇襲が出来る。でも表通りなら、道幅も広いからそうもいかねぇ。お前、走れるよな」

「……ええ、もちろん。とにかくあなたに着いていけばいいのね」

 今のやり取りで覚悟を決めたのか、少女は硬い表情でそう言った。それに俺は軽く頷き返し、思い切り息を吸う。合図は、何故かしないでも少女なら着いてきてくれると、そんな確信があった。

「ッラァ!!」

 扉を蹴破り、一気に外に飛び出す。まだ包囲を狭めようとしていた段階の兵士たちが身を驚きに見を固くしているのが目に入り、俺は笑みをこぼしそうになりながら周囲を見渡した。

 誰がどれくらいの実力があるのかは、今までの訓練でよく分かっている。こんな方法で役に立つ日が来るとは思わなかったが、知ってるのなら利用させてもらうだけだ。

「弱いのは……そこか!!」

 隣の部隊が固まっていた場所。まだ配属されて日が浅く、練度も未熟な部隊。その場所向かって俺は駆け出そうとして。

「君なら、そこを狙うと思ってたよ」

「っ!!」

 咄嗟だった。何も考えず、聞こえてきた声に反応して前に転がった俺の背後で、地面の爆ぜる音がする。それがさっきまで自分が居た空間を素通りして、振り下ろされた剣が石畳を切り裂いた音だと気が付くまでは、そう時間はかからなかった。

 体を跳ね起こし振り返りながら、その相手が誰か確かめもせずに渾身の力で剣を鞘から抜き放つ。無理な挙動にギシリと体が軋み、しかしその痛みは戦いの緊張感で感じすらしない。いや、そんな痛みを感じている余裕がある相手では、ない。

「よう軍団長。部下にも容赦なしとは、そんな職務熱心だったかね」

 鍔迫り合いの体制になった正面。白金の刀身を持つ剣を構え、俺の一撃を軽くいなした男。初老に差し掛かろうという年齢をして、その肉体は未だ衰えず、俺の剣を受けても身じろぎ一つしない。

 普段は書類仕事に忙殺されて、本部の奥に引きこもっているはずなのに。こういう時だけ表に出てきて、しかもそれでこれだけ強いなんて。本当に厄介な男だ。

「そんな減らず口を叩く部下なぞ私は知らん。……知らんが、あの娘を大人しく渡すなら不問に処すぞ」

「不問に……か。いきなり斬りかかっておいてか?」

「いきなり逃げようとしたのは誰だ? だが、今なら何もなかったことに出来る。家の修理も、なんとかしてやろう。お前は巻き込まれただけで、逃亡の意思はなかったと言ってやる」

「あの鬼の団長様が随分と寛大だな。……そこまでする価値が、あいつにあるってことか」

 ピクリと、その鉄面皮に動揺が走る。それを見て、俺はわざとらしく口元を歪めた笑みを向けた。

「図星みたいだな。神聖武器も持ち出してくる時点で、何が狙いなのは丸わかりだけどよ。そもそもたった二人に、随分な人数を集めてきたじゃねぇか。しかもこんなに早く」

「……余計な詮索は身を滅ぼすぞ」

「ハッ、心配してくれてありがとよっ!!」

 叫ぶと同時、剣を引いて体に寄せる。均衡を保っていた鍔迫り合いが崩れ、俺は手首を捻り相手の剣を絡め取るようにして跳ね上げた。

 今までの軍団長との、そして隊員たちとの訓練では見せたことのない搦手。いつも猪突猛進に剣を振っていたのは、まあ単にそのほうが性に合っていたからだったのだが。それが結果的に、本来ならばなし得ない不意打ちを可能にする。

 白金の輝きが宙を舞い、団長の手から剣が離れ打ち上げられる。団長が目を見開いたのが微かに見えて、しかしそれを確認する間もなく俺は剣を振り下ろし。

「もらっ──」

 その言葉を言い切るよりも前に、まるで熊に殴られたような衝撃に吹き飛ばされていた。

 景色が物凄い速さで流れていき、それを認識するよりも早くなにかに激突する。視界が酸素不足で真っ赤に染まった視界には、舞い散る瓦礫と目を見開く少女の顔。そして足を突き出した団長の姿があった。

 蹴られたのか? いや、疑問を挟む余地はない。蹴られたのだ。きっと思わず俺が、跳ね上げた剣を目で一瞬だけ追いかけた隙を突いて。

「いい手だったが、その程度の技は見慣れている。悪いが、もらったのはこちらだ」

「くっそ……なんて蹴りしやがる……」

 剣は、どうやら離していなかったらしい。感覚はほとんどないが、痛みを感じないのは逆に好都合だ。これならまだ、戦える。

 剣を杖にして立ち上がり、正面を見据える。そこでようやく、自分が家の壁に叩きつけられたことと、そして今にも泣きそうな少女がすぐ隣にいることに気が付いた。

「ど、どうするつもりなの……?」

「それは……これから考えんだよ。まあ全員ぶっ飛ばすしかないんだけどな」

「……本気?」

「ああ、本気だよ。……そのためならなんだってする。しなきゃ、いけねぇんだ」

 目の前に困難が合って、それを打倒することで道が拓ける。少なくとも何をどうすればいいのか途方に暮れていた頃に比べれば、百倍はマシだろう。

 単に自分を鼓舞するために言った言葉だった。だけどそれに対して少女から返ってきたのは、

「分かった。……みんな、吹き飛ばせばいいのね?」

「あ? おい、それはどういう……」

 団長と相対しているにも関わらず、俺は思わず振り返っていた。そこに居た少女は、俺が渡した外套を脱ぎ捨てて白いドレス姿になっていて、そしてその灰色の翼を目いっぱいに広げていた。

「ねぇ……あなたの名前を教えてくれる? まだ、聞いてなかったでしょ?」

 少女は場違いにもそんな事を言って、それから俺の方に近づいてきた。まるで朝の挨拶みたいな気安さで、それなのにまるで神託を告げるように荘厳に。少女のような可憐さと、気高い貴人のような優雅さを併せ持った微笑みを浮かべて。

 周りの兵士たちは誰もがその空気に呑まれていた。それほどに神聖で、犯し難い雰囲気を少女は纏っていた。あの団長ですら、突然現れた翼と剣への警戒心はあれど、踏み込むことが出来ずに見守るだけで。

「……イドリス」

 この瞬間だけは、全身の痛みも視界を染める赤い血も、そして手の震えも感じなかった。

「イドリス……いい名前ね。……ねぇイドリス、契約をしましょう。あなたが私を殺すまでの、私たちの契約を」

「……ああ、分かった」

「ありがとう。それじゃ、私の名前を呼んで。私は……ウリア」

「──ウリア」

 気が付けば俺は、剣を下ろして少女と向かい合っていて。そして彼女の名前を口にした瞬間、確かに彼女と何かが繋がったのを感じた。それは本当に弱くて細い、今にも切れてしまいそうな繋がり。だけどその先に彼女は居るのだと、理屈抜きで俺は分かってしまう。

 真っ白い髪に黒い房を混じらせて、灰色の翼を広げたウリアと名乗った白い少女。ウリアもまたその繋がりを感じているのか、自分を殺す契約だというのに幸せそうに微笑んでいた。

「ありがとう、イドリス。私、大天使ウリアは……ってもう元だけど。イドリス、あなたの力になることを誓うわ」

 そう言いながら、団長の声も無視してウリアは俺の胸に飛び込んできた。少女の温かく、そして柔らかな感触が胸に飛び込んできて、そのままギュッと力を込めて抱きしめられる。

 本来ならば胸を高鳴らせるべきなのだろう。女性経験なんてからっきしで、それこそ初めて少女に抱きしめられたのだから、ときめいてもいいはずだ。

 だけど目の前の光景を前に、そんなことを思えるはずがなかった。

「貴様ら……何を」

「し、神聖術だ!!」

「逃げっ……」

 俺とウリアを中心に、まるで膨大な力が吹き出していた。それは周囲を取り囲んでいた兵士と団長、そして周囲の建物さえも巻き込んでなぎ倒していく白い光の波紋だ。まるで水面に石を投げた時のように広がっていく波紋は、触れたもの全てを破壊し叩き伏せ、そして何にも止められずに突き進んでいく。

 それはまるで本物の波紋のようにほんの数秒間で消え去って、そして俺たちの周囲には無数のうめき声が聞こえる瓦礫の山が出来ていた。

「何……しやがった」

「……ふぅ。神聖術を使ったの。天使神聖術っていう、少しだけ特殊なものだけど」

「これが神聖術……? こんな町ごと人を吹き飛ばしてか?」

 神聖術は分かる。帝国が使う外法の術だ。だが俺たちが使う魔術とそう変わらないもののはずで、こんなに強力なものは、見たことも聞いたこともない。

「今の私の力じゃ人が死ぬほどの威力はないから、きっと大丈夫よ」

「本当かよ? ってか死なないにしても、こんなの食らったらひとたまりもないぞ……」

「あ、あなたに使ったりなんてしないわよ。それにもう、私はあなたの助けになる時しかこの力は使えないもの。お互いの名前を交換し合う……私とイドリスの、この世で最も古い契約に従って」

 胸の中で顔を上げたウリアは、囁くように俺の名前を口にした。それが何故だかくすぐったくて、俺は顔を逸しながら口を開く。

「……それがさっきした契約、か」

「ええ、だから私とあなたは……って。そ、それより、兵隊さんたちが目を覚ます前に早く行かないと!! ええと、さっきの荷物は……」

 アワアワと、こんな瓦礫の山を生み出したとは思えないほどに情けなく、少女は慌てて周囲を見渡し始める。そのちぐはぐさも、その少女ならば似合ってしまうのだから不思議だと。俺はため息をこぼしながら、瓦礫に埋もれていたリュックを引きずり出した。

「ここだここ!! ってか荷物は俺が持ってくから、お前は外套だけ羽織っとけ。……くそっ、他のものを探してる暇はないか……。団長の剣を拾えれば早かったんだけどな……」

「ねぇイドリス、それでどっちに……」

「はぁ……。こっちだ、ほら行くぞ!!」

 外套を羽織った少女の手を取って、俺は走り始める。仇のはずのその柔らかな手を、話さないようにと握りしめて。

「……ねぇ、それでどこにいくの?」

「とりあえず、帝国の方に行くしかねぇ。王都の方に行くのはマズイし……なにより、帝国なら、何かあるかも知れないからな」

 天使を殺す手段は、神聖武器しかない。それは俺の知っている限りは間違いなくて、だけどあくまでもその常識は王国の中の話だ。

「……なぁ。天使なら、お前を完全に人間に戻せるのか?」

「え……?」

 走りながら視線を横に向けると、少女は不思議そうに首を傾げていた。それから少しの間、俺の意図を汲み取ろうとするみたいに目を見つめてきて。そしてどこか遠慮がちに頷く。

「天使なら誰でもってわけじゃないけど……そうね。天使の資格を剥奪できるのは、その天使よりも上位の存在だけ。だけど私はもう元天使だから……」

「天使なら、誰でもお前から天使の力を奪えるってわけか」

「ええ。その……多分」

「多分?」

「あっ、その、私もこんな例は聞いたことないから……」

 あわあわと、まるで言い訳をするみたいに少女は慌てだす。その表情がやたらと子供っぽくて、俺は思わずため息をこぼしそうになる。

「でもその、理屈の上ではそうだし、きっとそうだと思うけど。……もしかして、天使に私の力を全部奪ってもらう、とか……?」

 それから、きっと脳内に思い付いたアイディアなのだろう。ゆっくりと落ち着きながら、だけど信じられないと言った風に少女は言った。

「ああ。っていうか……それくらいしか思い付かねぇ。天使なら、帝国に行きゃ会えるんだろ?」

「どこにでもいるわけじゃないけど、会えないことはないわ。で、でも本気? 小康状態を保っているとは言え、帝国は共和国にとっての敵国でしょ? そんな国に行くなんてしたら、あなたが──」

「俺はどうなってもいい。そのために今まで生きてきたんだ。お前を殺した後は、どうなったって構いやしない」

 きっぱりと、彼女の言葉を遮って俺は言う。帝国に行って、天使の力を借りてこの元天使を殺す。それがどれだけ無謀で、そして仮に成功しても無事で済むはずがないことくらい、分かっている。

 もうこの国に、この家に帰ってくることは出来ないだろうし、そもそもきっと俺は帝国で死ぬ。それが分かっていても、俺にはこんな選択肢しか選べない。だってここで逃げたら、父と母が死んでからの俺の人生を否定することになるから。

「そん、な……。そんなこと……」

 少女の目が見開かれて、足を止める。それに引っ張られるようにして、俺は思わずその手を離してから足を止めた。

 ウリアの空色の瞳が悲しみに揺れる。まるで俺の未来を案じて、俺が滅びの道へ進むのを心から悲しんでいるような。俺がそんな未知しか取れないことに絶望しているような。見ている俺が胸を締め付けられるような、そんな目だった。

「同情される謂れはねぇよ。俺が自分で決めたことだ」

「でも、私は……。いえ、ごめんなさい。あなたの言うとおりだわ」

 一度だけ俯いて、それから顔を上げた少女の表情からは、悲しみはなくなっていた。代わりになにか覚悟を決めたような顔で、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。

「私はあなたに従う。……そう、誓ったばっかりだもの」

 その言葉と視線に、俺は何を返せばいいのか。そうしろとも言えず、だけど止めろなんて言えるはずもなくて。ただ情けないことに、目と話を逸らすことしか出来なかった。

「……勝手にしろ。ってかもし今、悲しいとかふざけた同情の言葉を言ってたら。ぶん殴ってたところだったぞ」

「ふふっ、分かった。まあもし殴ってたら、今頃はあなたの手が酷いことになってたと思うけど」

「え、やっぱりそうなるのか?」

「ええ。元だけど、天使の加護を舐めないでよね」

 ここにきてようやく、少しだけ自慢げな笑みを少女はこぼした。それはどう見ても無理をしている微笑みだったけれど、ずっと暗い表情をされているよりは、少しだけマシな気がした。

「なるほどな。……あー、ってか加護で思い出したんだけどよ」

 目を逸らしながら、俺は口を開く。何も分かっていないのか、ウリアはキョトンとした顔で首を傾げていて。その顔に向かって、俺は特大のため息を吐き出しながら続けた。

「はぁ……。あの神聖術な。あれがなかったら、絶対に死んでた。だから……まあ、助かったよ」

「ぇ……」

 溢れたような吐息だった。空色の瞳が大きく見開かれて、それからその瞳が潤んでいく。まるで今にも零れ落ちそうなその涙を、だけどそれを既のところで留めて少女はその顔をまるで花が開くようにほころばせた。

「よ、よかった……。私、イドリスに嫌われてるんだと……」

「は!? 嫌いに決まってんだろ!! そもそも嫌いじゃない相手を殺そうと思うかよ」

「そ、それはそうだけど……。でもその、お礼を言ってくれるなんて、思っても見なかったから……」

「ああもうやり難いな!! んじゃもう何されてもお礼なんて言わねぇぞ?」

「え、うそ。そ、そんなの嫌……。ごめんなさい、もう変な反応はしないから……」

 目を潤ませて、今にも縋り付いてきそうな表情でウリアは言う。その無邪気さと警戒心のなさに、俺はもう一度大きな声を上げそうになって。だけどその潤んだ瞳を見て、今日一番の大きなため息を吐き出した。 

「はぁ……ったく。分かったから、今度こそ行くぞ。……ほら」

「……うん。よろしくね、イドリス」

「俺がお前を殺すまでだけどな。……よろしく、ウリア」

 握手を交わして、それから俺たちは再び走り始めた。二度と戻ることは出来ない、無謀な旅路へと。その先に待つのが破滅で、手を取り共に歩むのが両親の仇でも、それでも足を止める理由などにはなりはしない。

 いつか必ず、その白い首筋に刃を突き立てる。こいつだけは絶対に許さない。許してはいけない。そのためにこれまで、俺は生きてたのだから。そうしなければ、俺は俺でなくってしまうのだから。

 走りながら思い浮かべるのは、燃え盛る炎と滴る鮮血。あの赤く染まった景色は、いつまでも俺の脳裏に張り付いて消えることはなくて。俺はただその景色から目を逸らすように、隣を走る少女の白い髪を目で追いかけていたのだった。

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