あなたが最後に、空だけを見たのは、いつですか?
中越 景(日向 スバル)
短編その1 あなたが最後に、空だけを見たのは、いつですか?
地平線
水平線
大空
人は、果てなきものに惹かれます。
ただ、大地の果てと海の果ては、限られた場所でしか見られません。
では、空の果ては?
そんなの頭の上にあると、あなたが見上げた空は、果てのない空ですか?
四角い空ではありませんか?
空の他に何か映っていませんか?
その空は、泣いていませんか?
あなたが最後に、空だけを見たのは、いつですか?
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朝、駅のホームで電車待ち。
いつもと変わらぬ風景。自販機、待合室、壁と一体となった椅子、トイレ、点字タイルとその溝に集まる凍結防止剤。
最後に見たのは二日前。昨日は見ていないけど、どうせ何も変わってない。
変わるのは人の数と種類くらいだろうけど、数なんて多いか少ないかってくらいだし、種類なんていちいち覚えていられない。
駅のホームの待ち人は、誰もかれもが、両目だけが外に出ていた。誰もかれもが、小さな光だけを映す、死にかけの魚のような目をしていた。
今のは言い得て妙だなと自賛する。一種の発作のようなものだ。
活きて明るい生きた魚でもない、淀んで暗い死んだ魚でもない、真ん中の魚の目。
それなら真ん中とかどっちつかずとか言えばいいのに、死にかけの魚と言ったのは、つまりはそういうことなんだな、と考える。
ため息はマスクで止まり、眼鏡を曇らせて消えた。
吐く息の色はわからない。息をするたびに眼鏡が曇るから、きっと白いはずだけど、マスクがさえぎり出てこない。
子どもの頃は、吐く息が白くなるというだけでキャイキャイ騒いでた覚えがある。いつでもどこでもできたことなのに、今のご時世はそうはいかない。嫌な話というか、寂しい話だ。
アナウンスとともに電車がやってくる。
世間は休日。いつもの椅子取りゲームは必要ない。
乗って見回し、空いていた端の席に腰を下ろす。
電車の中もいつもと同じ。
誰もかれもが、下を向いている。スマホを見るなり、本を読むなり、寝てるなり、誰もかれもが、下を向いている。
全員が、マスク姿でうつむき姿。
昔の人が見たらどう思うのだろうか。気難しいと思うのか。恥ずかしがり屋と思うのか。
異常な群れに見えてしまう人は、他にもいるのだろうか。
スマホに文字を打ち込む作業を続けながら、とやかく言える立場じゃないかと、マスクの下で自分を笑った。
途中、電車を乗り換える。まばらな流れに従って連絡通路を抜け、待っていた電車に乗り込む。今度も椅子には事欠かなかった。
車内は学生服が多かった。
左右の窓に沿ってつけられたシートに、見た感じは高校生の男子学生が二人ずつ、向かい合う形で座っている。
マスクに厚着、姿は似ているけど、彼らは生きた魚の目をしていた。試験が近いだとか、さっさと帰りたいとか、はっきり言ってどうでもいい話を大声でベラベラと喋っている。
無言でうつむく姿を異常と思っておきながら、内輪で好き放題に喋る姿は不快だと感じる。なんて身勝手な奴なんだろう。
注意するのも面倒、耳栓もイヤホンも持ってない、だからといって耳を塞ぐのも変人みたいで億劫だから、文字を打つ手に集中して心を塞ぐことにした。
最寄駅に到着。駅を出て、職場までの道を歩く。
途中の横断歩道の信号待ち。目の前を走り抜ける車の騒音を聞いているとき、あの異常な群れが頭の中に浮かんだ。何の気なしに、空を見上げてみる。
そこにあったのは、黒や灰色のハコモノで四角く切り取られ、電線や電話線が絡まった青い空。
窮屈そうで無数の邪魔物がこびりついた、晴れているのに可哀想な空。
うつむくばかりの、死にかけの魚が増えるわけだ。見上げた先が、こんな有様なんだから無理もない。
最初の電車の光景に、今更ながら納得する。
車の音が消え、かわりに信号の音が鳴り始めたのに気づき、前を向いて横断歩道を渡り始めた。
昼休み。
もう一度、空を確かめたくなって、昼ご飯片手に屋上に出た。
憩いのスペースがあるような屋上ではない。椅子も机もなく、室外機や配電盤が並ぶだけの殺風景。無用心に開放されたままなのは、ただの閉め忘れに誰も気づいていないか、気づいているけど言うのも閉めるのも面倒だから放置してるからだろう。
冬の寒空の下、屋上に出てくる物好きは、私の他にはいなかった。縁まで歩いて、転落防止用の柵に背中を預けた。
この辺り一帯は建物の高さが制限されているから、どの建物の屋上も、背比べをしてるどんぐりみたいに同じくらいの高さで揃っている。
だから、見上げた先には一面の空が広がっている。水色は少しだけで、白と灰色ばかりの、一面の曇り空が広がっている。
色のないため息が、風に乗ってどこかへと消えた。
空だけを見たのは、いつ以来だろう。
何にも邪魔されず、目に映るすべてが空になったのは、いつ以来だろう。
この空よりもっと綺麗な、もっと美しい空は、いくらでもあると思う。それこそ、スマホを叩けば写真や絵が山ほど出てくると思う。
だけど、今の私には、目の前いっぱいに広がるこの空でよかった。この空がよかった。
朝の空は、晴れていたけど、泣いていた。
こんなのは私じゃありません、と。
私はもっと大きいんです、と。
いじけて、小さくなって泣いていた。
今の空は、曇っているけど、笑ってる。
これが私です、と。
私はこんなに大きいんです、と。
元気に、胸を張って笑ってる。
青空だからって、笑ってるってわけじゃない。
雨空だからって、泣いてるってわけじゃない。
晴れも曇りも雨も雪も関係ない。
朝焼けも昼空も夕焼けも夜空も関係ない。
ただ、あの空は泣いていて、この空は笑ってる。ただ、それだけ。
押し込められて物にまみれて泣いている空と、大きて果てなく広がって笑っている空。ただ、それだけ。
めいっぱいの空を見て、素敵な空の笑顔を見て、私は笑った。
なぜ笑ったのか、なぜ笑えたのかはわからない。
ただ、広くて大きな空が、広くて大きな空でいてくれるだけで、笑えるんだということが、わかっただけ。
たったそれだけのことで、私は笑えるんだと気づいただけ。
もしかしたら、忘れてしまっていたことを思い出しただけかもしれないけれど、空を見ただけで笑ってしまったことに間違いはない。
笑顔を見て、自分も笑顔になる。よく考えてみれば、何もおかしくないじゃない。
じっと空を眺めていると、雲が風に乗って流れ始めた。
そのあとに、だんだんと青空が広がっていく。
素敵な笑顔が、綺麗で素敵な笑顔に変わっていく。
両目が痛んだ。まばたきも忘れて空に見入っていたみたいだ。乾き切った目を閉じたその拍子に、目の端からそろりと雫が伝って落ちた。
周りには誰もいないのに、なぜかとても恥ずかしくなった。だから私は、真剣に空を見つめ過ぎたせいで目が疲れて涙が出たんだと、私自身に言い訳した。
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あなたが最後に、空だけを見たのは、いつですか?
あなたが最後に、空だけを見たのは、いつですか? 中越 景(日向 スバル) @nakakoshi-kage
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