小さな教会の鐘が鳴る 後編
あの教会は別に変な場所ではなかった。
老婆がシスターとしてやってくる前から既にあり、前の神父からここを引き継いだものだったという。
そんな話を聞く頃には私は週に一度は教会に通うようになっていた。別にキリスト教を信じていたというわけではないがあの出会いから居場所を見つけたように通い詰めていた。
もうその頃にはあの男とも別れていた。あんな姿を見せられたら百年の恋も冷めるというものだ。
また出会った頃の老婆に言われた事が心を揺さぶっていた。
「あなたは女の子やけん、自分の身体を大切にしなさい。身体を許しすぎて最後に泣くのは女性なんよ」
高校生になる頃には老婆、この頃にはシスターと呼んでいたか、彼女にいつも多くの悩みを相談していた。
学校の些細な愚痴から、友達関係のはなし、家での在り方、恋愛……。もうなにを相談したか思い出せない。あまりにも多く相談をしていたから内容を一々思い出せない程だ。
それほど私はシスターを信頼していたし、シスターは必ず答えてくれた。
そしてどれだけ間違ったことを相談しても彼女は怒らなかった。穏やかな口調で、語りかけるように諭してくれた。まだまだ教師が生徒を怒鳴る時代だったから、物腰柔らかに言ってくれるシスターの言葉はいつも染み渡るように聞けていた。
ただ、気になることもあった。
彼女の喋り方はあからさまにこの辺りのものではない。どこかの方言というのは分かるのだけれどそれがどこか分からない。
いつも自分の話ばかりしていたからシスターの話を聞く事はほとんどなく、そういった疑問を投げ掛ける事をほとんどしていなかった。
彼女はどこから来て、なぜ今ここにいるのか。
高校も卒業に近付いてきた頃、私はシスターにその質問をしてみた。
私は進学することが決まり、遠からず地元を離れる事が決まっていたからだ。
それ自体はもうシスターに伝えており、自分の娘のように喜んでもらった。ただそれ以降は何も変わらないまま日常が過ぎ去っており、しばしば訪れるであろう別れの時期など知ったことではないと言わんばかりの態度が続いたからだ。
私はどこか焦っていたのだろう。
いや、どこか「私がいなくなって寂しくないのか」という甘えのような気持ちがあったのかもしれない。まだ人生の主人公は私しかいないと思っていた、甘酸っぱい時期だった。
だから、
苛立ち気味に聞いた。もう桜が蕾になっている頃だ。
今思い返せば「私と別れるの寂しくないのか?」とでも言いたかったのだろう。小便を漏らした頃よりは年を取ったがまだまだ子供だった。
シスターはその質問に驚いていた。
「そういえば話してなかったね」
と言いながら。
その時の返答は今でも覚えている。
「私はね、好きな人がおったとよ。その人はわざわざ私のおった九州に来ていた人でね。優しい人やったとよ。その人は炭鉱で働いとってね。そして熱心なクリスチャンやったとよ。優しい方やった。炭鉱町ってのは荒くれものばかりやったけ、女子にも強い人が多かったけど、その人だけはいつも優しかったとよ。でも、事故に巻き込まれてね。どうしても当時の炭鉱っち事故から避けられんき、たまたま、運悪く、ね。私がキリスト教に入ったのはそれがきっかけなんよ。どうしてもその人の生まれた場所でシスターをしたかったからね」
衝撃的な内容になにも言えなかったことを覚えている。
私の頃には炭鉱で働くなんてのはなかったし、事故で人、それも身内が死ぬなんていうことはドラマこニュースの世界のはなしと思っていたからだ。
つまりこの土地はシスターが好きだった人の土地だった、というわけだ。
「最初は自分のためにシスターしとったけど、年齢が上がってくると段々それも落ち着いてきてね。あの炭鉱で亡くなった人の冥福や、今ここに来ている人が将来幸せになってほしいと思うようになったとよ。きっかけは自分のためやったけど、今はちょっとだけ変わったのね。貴女もその一人よ」
急に私の話題になりびっくりした。
「最初ここにきた時はイタズラしにきたんやろうね、って思っとったけど、いつも来てくれとうけんね。今は貴女も幸せな人生を送ってほしいと思っとうよ。もう私も必要ないやろうけ」
この言葉で私のなかに眠っていた悲しみが顔を出してきた。やはりシスターは私が出ていくのは寂しくないのだろうか。ここに来ていた「幸せになってほしい人の一人」でしかなかったのだろうか。
そのような、やっと言葉になった苛立ちの原因を打ち消すかのような言葉が突き刺さってきたのだ。
「でも、私は貴女の結婚する姿を見たかったねえ。いつも来てくれたけ、私と貴女を重ねたさてしまっていたとやろうね。私がこの地に来たように、貴女も必要とされる地に行くんやろうねって思ってても、貴女がここに来なくなると考えるのは寂しいわね」
その時、私は初めてあった時の事を思い出していた。
廃屋に住んでいる鬼婆と思っていた人を慕って何年も一緒にいたんだなあ、と思ったこと。そしてそれが私もシスターも続くと思っていた事。
シスターもシスターでこの別れの着地点を模索している事が分かったからだ。
「なんね。また泣きようとね。あんたは本当によう泣くね」
それ以降、その教会に行くことはなかった。
そんな私は今日、結婚する。
住宅街から少し離れた、小汚ない教会で。
「ここで結婚式をあげるやつがいるなんて」
という母や姉の顔を一瞥しながら。
教会の門が開くと、普段とは違って明るい教会に、多くの人が、そして洗礼台の前に名字を分けるあの人が。
そして、あの正装した老婆が。
父に引っ張られながら歩いていく。
ふと歩いているとき、ある場所をみていた。
そこには泣きわめく私と、頭を撫でる彼女が笑っていた。
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