電車にて
電車に乗っていた。宛もない旅だ。
前の景色はどこなのかはよく分からない。段段とビルがなくなり、緑色が支配を強めている。
レールの飛び込む感触に広告が揺れる。中途採用のものばかりなのは未だに新型ウィルスの影響を覚えずにはいられない。以前は週刊誌だのなんだのの毒々しい色合いをした広告があちこちに張られていたというのに。
別段どこかに行きたかったわけではなかった。ただ家にいるのは窮屈すぎただけだ。仕事も見つからない男にかかる家族の目線は冷たい。口にこそしないが「こんなやつはいなければよかった」とその目が雄弁に語っている。
とにかく家がしんどかったのだ。
息苦しさだけが俺を支配していたのだ。
だから「アルバイトの面接をしてくる」とだけ行って電車に飛び乗った。履歴書も入ってない鞄を持って。
窓越しに映る俺のスーツがなんとも不格好だった。太ももに乗ろうかという突き出た腹と閉じることが出来ないカッターシャツ最上段のボタン。それを隠すかのようにきつめに結んだはずなのに、いつの間にか緩められたネクタイ。
たった数年だったのにえらく変わってしまった。
そんな俺を乗せた電車はどこかへ行く。連れ去ろうとしているのか、勝手に付いていっているのか。その境目も既に曖昧になりつつある。
ただ共通して言えるのは、自分の意志は放り投げられた、誰かに任せきった旅であるという事は間違いない。自分の意志を放棄したか、放棄させられているかの違いでしかない。
窓の先に映る景色は妙に晴れやかだった。どこまで行っても青空が伸びやかに飛んでおり、それが訳もなく嫌な気持ちにさせられる。
「お前の悩みなど小さな事じゃないか」
と言われているようで。それが逆に腹正しくなるのだ。お前にとっては大したことではないかもしれない。だが自分にとっては小さな事でさえ抜け出せないほどの迷宮にいるからこれほど頭を抱えているというのに。
それは簡単だろう。就職をすれば事は済む、と言ってしまえば。
しかし数年間自室に籠っていた30過ぎの男など誰が雇うというのか。雇われたとしても蔑まれる職業か、またはそういう立場だろう。自分でさえバカな人生を選んでしまったと後悔しているのに、さらに後ろ指差されるとなったら耐えられない。
「勇気ある一歩」というものは持て囃されるが、それを踏めていたらこれほど苦しんでいなかったのだ。間違いなく。
向かい側に人が座った。
20前後だろう、カップルだった。雰囲気から察してしまう。まだ付き合いたてなのか、こそこそ話しながらその度ににやけ顔になっている。
俺はなんだか居心地の悪さを覚えた。ファストフード店で汚くハンバーガーを食っていた時に向かい側に綺麗な女性が相席にされたような恥ずかしさが込み上げてきたのだ。
もしかしたら俺にもこういう可能性はあったのだろうか。
異性、いいや異性でなくても構わない、対等な立場の誰かとつまらない話を共有し、それをつまらないと言いあいながらじゃれあうような関係を作る可能性はあったのだろうか。
そう思うと二人の会話が鬱陶しくて仕方ない。まるで俺の行けなかった未来を写し出しているかのようで。
「お前にだってこういう未来はあり得た」としたり顔でたしなめられている気分で。
二人に不満そうな顔を向けた。だが心中は泣きわめいていた。買ってもらえなかったお菓子の事で親に感情をぶつける幼児のように。
段々と乗客も減り、先ほどのカップルも姿を消した。もうほとんど俺一人と言っても過言でない。
遠くでは同じようにスーツを来た、髪の薄くなった男が白河夜船に乗っている。この男と俺の差は恐らく仕事だろう。俺は眠くなかったから。
終点も遠くない。どこかで降りねばならなくなってきた。
俺もいつかは降りないといけない。そういう気持ちはあった。いつまでもこの電車の中なように、ただ流されながら揺れているだけではいけない。
そんなことは分かっている。分かっているのだ。
だが、いや、だからこそ。
怖いのだ。その電車を降りてしまえば、後は自分の足で歩かねばならないのだから。
だから、もう一駅、もう一駅だけ、待ってほしい。どうせ駅に立たねばならぬことなど分かっているのだから。先伸ばしにした将来が強い苦味を伴うことなど分かっているのだから。
電車はレールの先を進んでいく。俺と、起きようとすらしない禿の男を乗せながら。
俺をどこへ連れていくのかわからないまま。
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