散歩

 定年を迎え、家にいる時間が長くなった。


 家にいる時間が今まで短かったせいか最初は気分が良かった妻はゴミを見るような目で私を見るし、最近の娘の口癖は「お父さんなにかやることないの?」だ。


 唯一娘の旦那だけがなだめてくれるのだけれど、それは救命蘇生の際に「大丈夫ですか」と声をかけてくれる行為のようなものであって、ないよりはあった方が何倍もましなのだけれど、それが決定打にもならないのである。


 私は難破船で唯一生き残った人間のようだった。

 誰かに助けを請いたいが、誰も助けてくれない。助けを求める大声は壊れた船の壁にぶつかって消えていくような、そんな虚しさと響きを持っている。

 周りに死骸がないのが唯一の救いともいえるし、それがなお一層孤独を助長させた。


 仕方なく最近は散歩などで外に出る。

 これも一種の逃避というやつで、視線による針の筵にいるよりは外に出て誰とも会わない方がよっぽど精神衛生上いいと思えるのだ。


 今日も家を出てふらふらと外を歩く。

 人通りはまばらだが誰もが駅やバス停を目指して歩いていく。数か月前には私もその一人だったはずだが客観的に見てみると中々可笑しく感じられる。


 まず掲示板を覗く。来月にはオペラをやるらしい。その横には市役所がパブリックコメントを求めるという事だ。


 大体見終わると掲示板を横切って大通りへ。段々車の量が増えてきている。恐らくこれより一時間も前は車も半分以下だっただろう。あと三十分もしたら渋滞寸前、というところか。

 横断歩道を渡ってどんどんと先へ。


 もう太陽は登り始めていて朝の柔らかな光が段々と空を青々と染めていくのだろうか。意外なもので仕事をしている時にはそういう事に気付けない。

 想像以上に働いている時というのは頭を下に向けて歩いているのだな、と感じずにはいられない。働いている時私はこれほど空を眺めていたであろうか。


 駅に向かう階段を登っていく。

 会社員の時はあまりきついと思わなかったこの道が今ではかなり厳しい。体力の衰えかと一瞬思ったが、それよりも最近全くこの階段を上がっていなかったという反省の方が強く出てしまう。

 毎日上り下りしていたらこれほどきつくなかったかもしれない。反省というものだ。


 階段を登り切ると駅前には人が押したり引いたりしている。

 何故だろうか。心なしか皆の顔は暗いように見えた。昔はそのようなことを考えなかったのに。

 恐らく昔の私も同じような顔つきで会社に向かっていたはずだ。やれオフィスに入ったら何をしようだの、部下たちをどう指導しようだの。職場に入る前から仕事は始まっていた。

 それが人の顔を暗くさせるのかもしれない。


 という事は今の私は存外明るい顔をしているのかもしれない。

 ある意味では阿呆面と言われるかもしれない。しかしその抜けた面はこれほどなく私の両肩から多くの重荷を捨て去ってくれたのかもしれないのだ。


 考えてみれば人との付き合いでは必ずしも明るい顔などできない。

 それは仕事だってそうであったし、今家庭の中で妙に冷たい目線を送られているのも、家族が私との距離感を図りかねているという事も十分に考えられるのだ。


 今私は人間関係から解放され、私というたった一人の人間として漠然と世界を歩いている。

 そこに誰かに定められたゴールもなければ、目指さなければならない目標もない。

 ただ漫然と、歩きたいところを歩いて、思いついた道を進んでいるだけなのだ。


 一方でこうも考えている。

 こう考えられるのは私には家や家族という帰る場所があるからこれほど呑気に散歩など出来るのだと。


 生きていくためには今の私のように漫然と歩くことなど許されない。

 それは祖先の先から今に至るまで、誰かが狩りを行い、稲を育てるように定まった目標に向かって歩いているからこそ今がある。

 ではそれを定めたのは誰か。それは仕事でもない。社会でもない。


 私にとって守りたいと思った家や家族がいたからこそ漫然と歩くことを捨て、時間を何かに明け渡してきたのだ。

 時間を明け渡すだけの価値があったし、今私がなぜ皆に冷遇されてもそれに怒り狂う事なく、むしろ部屋の隅に追いやられていても文句の一つも言わなかったのか、と考えたらそれは間違いなく彼女らが、私の価値観を証明するものだからなのだ。


 そういう意味では今私はその存在価値を証明できたからこそ重責を外され、一老人として呑気に散歩など出来るのだ。

 昔の歌人が家書万金に当たる、というが、まさに家族と万金である。家族なくして私はいなかったのだ。


 だから家族から今あまり必要とされていないからこそ、私は散歩の中で私に戻る事が出来る。

 家族の長でも、価値の証明者でもなく、世界のひとかけらとしての私がいるのだ。


 世界のひとかけらとして私がいるとするならば、なんと軽やかな存在だろうか。

 鶏毛一枚よりは重いが、この駅に進む社会人よりは軽い存在だろう。今の私は一握の砂のように、指間から零れ落ちる程度の意味しか持たない。

 しかし、その程度でいいのだろうし、それどころかあっさりと受け入れて喜んでいる節さえある。

 世界の中でちっぽけではあるが、確かにそこにいる事を自覚しているからこそ喜びがあるのだろう。


 恐らく空が昔より青く見えるようになったのはその辺りだろう。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 家に帰るとソファーに腰かけたままの妻がそっけなく返す。

 居間に行くともう朝食が用意されていた。


「ご飯は自分でよそってください」


 相変わらず冷たい。

 しかし妙にそれが心地よく感じられるのだ。

 火照った心にはこれくらいがちょうどよいのだ。


「なあ」

「なんですか」

「今度ちょっと旅行でも行かないか」


 こぼすように尋ねてみた。

 妻はこちらを振り向こうともせず、ニュースを見ている。


「たまにはどうだい」

「たまには相手してさしあげましょう」


 妻は少し呆れ混じりに笑いながらこちらを見てきた。

 なんだか私は嬉しくなってハムエッグを頬張ってしまったのだった。

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