殺すボタン
剣 道也
殺すボタン ~前~
「ちきしょう……ちきしょう……っ!」
夜だというのに部屋の灯りを付けず、太郎は声を押し殺して泣いていた。
流石に自分の部屋の電気を付けることは誰にも邪魔されないので、暗いほうが落ち着くのだろう。
「あいつら……なんで……なんでっ!」
この時間、いつも太郎は泣いていた。
学校で泣くのは、彼らに敗北を認めたことになる。
家族の前で泣くのは、女手一つで育ててくれた母に余計な負担を強いることになる。
だから、太郎は夜に泣く。
昼間、学校で太郎を虐めた悪鬼達を呪いながら。
太郎の高校生生活は順調だった。
しかし、3年のクラス替えを契機に、それは地獄へと変わった。
頭のおかしい不良グループの標的となってしまったのだ。
太郎は、特別変な行動はしていないはずだが、なぜかそのグループの癪にさわったらしい。
最初は金をせびられ、軽く殴られる程度だった。
しかし、抵抗しない太郎は格好の玩具と認識されてしまったのだろう。
その行動は、日に日にエスカレートしていった。
「あいつら……殺す……殺してやる……っ!」
今日は無理やり服を剥がれ、女子更衣室に放り込まれた。
太郎は全く悪くはないが、女子達の汚物を見る目は、これから太郎の長い人生の中でも大きなトラウマとなるだろう。
恥辱、屈辱。
それを怒りに変える強さのない太郎にできることは、ただ声を潜めて呪うだけだった。
そして、今日も呪いの言葉を吐き続け夜が明ける──
「AHAHAHAHA! 負け犬の匂い。腐った匂い。あぁ、なんと素晴らしいスメェェル!」
──はずだった。
太郎の部屋に、いつの間にか不気味なピエロが立っていたのだ。
目が慣れているということもあるが、暗闇に立つピエロは太郎にはえらくハッキリと見えた。
「どーも、こんばんは、負け犬の坊や!」
あまりにも有り得ない光景に、太郎は声の出し方を忘れ、ただただ震えていた。
「私はミヨシという者です。そうですね……私はあなたの救世主! そう、救世主デス! さぁ、感謝をするのデス!」
霊など一切見たことのない太郎だが、そのピエロは現世の者ではないと、なぜか確信めいたものを感じる。
「……? もしかして、この手のやつは初めてデスか? あんなに呪っていたのに? AHAHAHA! それはあなた、運がいい! とてもイイ! 私は、そこいらの呪いとは、一味も二味も違うのデス!」
相槌がない太郎を全く気にせず、ピエロは懐から赤いボタンを取り出す。
「さぁ、これをあなたに。さぁ、この”殺すボタン”をあなたに! これさえ押せば、貴方が憎いと思った人間を、貴方が嫌いと思った人間を、全て殺すことができるのデス! あぁ、目の前で押すことをお勧めしますよ。苦しみながら肉の塊になる光景を見れば、あなたも満足するのでは!? 一瞬で爆発するので、瞬き厳禁でお願いしますよ!? AHAHAHAHAHA!」
しかし、太郎は赤いボタンを受け取らない。
「お……押せ……ない……僕には……そんなの……押せない」
怖かったのだ。
ボタンを押すことが怖かったのだ。
ピエロの言うことが本当なら、いや、本当なのだろう。
赤いボタンを押せば、太郎の嫌いな人間は全て死ぬのだろう。
しかし、その対象がどこまで及ぶのか、太郎は判断できなかった。
嫌いな人間がいない人間はいない。
太郎もまたそうだ。
不良グループ以外にも、心のどこかで嫌いだと思っていた人間を殺す可能性もあるのだ。
そのため、太郎はどうしてもそのボタンを押す勇気がでなかった。
「ふむ……なるほど。なるほどなるほど、おほほほほ! 優しい子だ! あれだけの呪いを吐きながら、なんと優しい子だ! いいでしょう! ええ、いいですとも!」
笑いながら次にピエロが取り出したのは、黒いボタンだ。
やはり受け取る様子のない太郎に、ピエロは囁く。
「ダイジョーブですよ。そのボタンには、貴方が罪悪感を抱かない為のヒミツがあるのデス」
ピエロの笑みは、自愛に満ち溢れていた。
「これもまた、”殺すボタン”デス。しかし、その対象が違います。このボタンを押せば、”あなたを嫌いな人間”を殺すことができます」
その説明に、太郎は背中がゾクリとする。
まるでデメリットが感じられないボタンに思えたのだ。
「あなたを嫌いな人間を殺すのデス。何も問題はないでしょう?」
自分のことを嫌いな人間が死ぬのなら、太郎にとっては良いことしかないはずだ。
そう思った太郎は、そのボタンを受け取った。
いつの間にか上がっている太郎の口角を見て、ピエロは笑いながら告げる。
「AHAHAHA! ほら、感謝なさい! 私に感謝なさい! だけどね、お気を付けなさい? そのボタン、一つだけ注意しないといけない点があるのデス。それは──」
その説明は、太郎の睡眠を今日も奪った。
そのボタンを押すか押さないか、結局結論はでないのであった。
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