第七章 父の思いと青い翼
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新しい年が開けてまもなく信じられないことが起きた。
第一報はテレビのニュース速報だった。その短い情報の中に、「美波あや」の名前があった。
アイドル歌手の美波あや(16)さんが結婚を発表
夕方のニュース情報番組で結婚相手同伴の記者会見が生放送された。リビングのテレビで優慈は田中と一緒にみかんを食べながら観た。
美波あやは優慈より一つ年下の十六歳だった。結婚と同時に芸能界を引退する。
相手は時々噂になったアイドル事務所のTとか、ビジュアルバンドのFとか、彼女がファンだと公言しているトレンディ俳優のSではなかった。
五十三歳の不動産会社の社長だった。
金屏風の前にあやと手をつないで現れたそのうっすら髪のデカ顔を見て、優慈は愕然とした。年齢差を忘れさせ、多少なりとも好意的な感情を持たせてくれるような中年の魅力はひと欠片もなく、どう見ても脂ぎったスケベなおっさんだった。
笑うとヤニ歯、銀歯が不快に目立ち、汗っかきで、量が少ない天パーの縮れ毛を掻き毟る癖があった。社長さんの威厳が全くない田舎オヤジで、場末のキャバクラでお気に入りホステスが隣にいるかのようにデレデレし、会見の合間も時折調子にのっては臭そうな唇をあやの桃のような頬になめるように押し当てた。
この行為は、全国に何百万人といるあやのファンに殺意を抱かせたことだろう。
「キューピットが私たちを結びつけてくれました」
あやは芸能リポーターの質問に笑顔で答えていた。が、あやスマイルの奥で明らかに泣いていた。「助けて!」と叫んでいた。「助けて! 助けて! 助けて!」
「男が金で有能なクピドを雇ったのでしょう」と田中が優慈に解説した。「あやちゃんクラスの若いスーパーアイドルを射止めたのですから、おそらく二、三十億円か、それ以上の金が動いたのではないでしょうか」
「それって許せること?」優慈は尋ねた。
「もちろんです。さっきのあやちゃんの言葉を聞きましたか。『キューピットが私たちを結びつけてくれました』この言葉を聞いただけで、日本クピド協会のスタッフはテレビの前で大喜びしているんじゃないでしょうか。すごい宣伝効果ですから」
「浮かれてるんじゃねーよ、何が宣伝効果だ」
優慈はクッションを殴り、苛ついてソファから立ち上がった。
リモコンでテレビを消した。
「あんなのが愛って言える? インチキじゃないか」
「そんなことはありません。先生、いつも言っていますよね。愛を差別するなって。年齢がいくつ離れていようが、不釣り合いであろうが、禿げていようが、デブだろうが、変態だろうが、関係ありません。愛の前では、すべてが平等です。男はあやちゃんを愛してしまったのです」
「ぜんぜん平等じゃないじゃん。オッサンは愛を金で買ったんだから」
優慈はダイニングテーブルの椅子に腰を落とした。
「平等ですよ」
ソファ越しに振り向き、田中は長い顔を背もたれの上に置いた。「ただし、順番を決めるのは個々のクピドに委ねられています。あやちゃんを射止めたい男は何十万人、何百万人といたことでしょう。この社長さんもその一人に過ぎません。ただ、優秀なクピドに個別に頼んで、順位を一番にしてもらっただけのことです」
「愛は早い者勝ちじゃないかよ」
「時と、金によります」
優慈はわからなくなってきた。家庭教師の田中の授業や、愛野村への訪問、クピド適性試験、クリスマス実習を経て、愛について学んだはずだった。理解してきたはずだった。しかし、今になって、田中の言うことがわからなくなってきた。田中の愛の教えにひとつも共感ができなくなってきた。
「助けて、助けてという、あやの心の叫びを知りながら、その悲しみを、叫びを無視しろっていうの。十六歳の女の子を救ってあげられないのに、なにが愛だ、何が恋のキューピットだ。浮かれているのは恋をしている人間じゃなく、金亡者のクピドの方じゃないか」
「残念ながら、あやちゃんの心の叫びは問題じゃありません。その悲しみを、叫び声を聞くだけむだです。聞いていたら、きりがありません。世の中のほとんどのカップルは、相手に不満を持っています。我々が懸命に男女を結びつけたところで、ほんとうに満足しているカップルは一握りです」
優慈は愛の家庭教師に救いを求めているのに、田中の回答は救いにはならず、優慈をさらに苛立たせた。
「それはクピドがいけないんじゃないの」
「クピドが?」
「クピドにベストカップルを作るんだと言う気概があれば、いやなやつがいい女と結びつくことはないはずだよ」
優慈は語気を強めた。
「優慈君はこのところちょっとカリカリしていますね。愛するマリアちゃんのキューピット役を演じたわけですから、苛立つ気持ちもわかりますが、プロのクピドになるにはもっとクールにならないと」
「マリアは関係ないだろう!」優慈は怒り、立ち上がった。「田中さんに僕の気持ちがわかるの? わからないよね。これっぽっちも! だからわかったように話さないで。あああっ、もう!」
「優慈君はむずかしい少年ですね。明るく元気になったり、苛立ったり、怒ったり。それが人間を成長させる過程のひとつであるならば、先生は広い心で包み込んであげるけど、単なる失恋によるイジケだったら、殴ってやりたいです」
「殴れば。殴ればいいじゃない、どうせ、僕は駄目な男なんだから。何をやっても、誰かを好きになっても!」
マリアを失ってもあやがいる。
年末年始に、優慈はマリアを忘れるためにずっとあやのことを思い続けていた。十七歳の色気づいた頭で考えられる限りのことを妄想した。あやは自分の心や肉体や精液の一部になった。そのあやを中年の卑猥なオヤジに盗み取られ、優慈はもぬけのからになった。愛の感情がなんにもなくなり、尖った苛立ちだけが体内に残った。
そういう心が荒んでいる時に、親というものはタイミング悪く声をかけてくる。
「何を悩んでるんだ」
父親の森村爽彦が優慈の部屋に入って来た。
「なんでもないよ」
「おまえは少しは愛というものを学んで、心がきれいになったのか」
優慈は椅子を回転させ、振り返った。
「きれいに? 僕の心が汚れていたというの」
「汚く煤けているという意味ではないが、澱んでいた。あまり会話もしなかったし」
「しゃべることがなかったからだよ」
「しゃべりたいことはあったはずだ。だけど、しゃべろうという心がなかった。愛を学んだことによって、そのきれいなものがおまえの中に生まれたのかと聞いているのだ」
「たぶん」
「それはよかった。じゃあ話そう」
「話す? 何を」
「母さんのことだ」
「なぜ、母さんのことを今話さなきゃいけないの」
「そう言って、おまえはいつも腹を割って話すのを避けてきた。いや逃げてきた」
「聞かかなくてもわかっているよ。自殺の原因は、育児ノイローゼなんでしょう。母さんが自殺しなかったら、僕が虐待を受け、僕が母さんに殺されていたかもしれないんでしょう」
不意に、父親ののごつい手が頬に飛んできた。
「何をばかなことを言ってるんだ! もういい。おまえは自分の母親が自殺したという負い目を抱えながら生きていけばいいさ!」
父親は最後に「おまえは身を持って知るしかない。その愛と憎しみの尊さを」と言い残し、封筒を置いて部屋から出て行った。
開くと、写真の切れ端が出てきた。標準のプリント写真の右側を切り落としたものだ。優慈は写っているものがなんだかわからなかった。
ぼんやりと、青っぽくて。
優慈は机の引き出しを開いた。優慈が困った時に相談するその人は小箱の中に入っていた。母親だった。正確には母親の若い頃の写真だった。二十歳頃に写したものだろう。壁の白クロスを背景に白いブラウス姿で写っている。写真はこれ一枚しかない。優慈はいつもこの写真を手に取り、眺めては、心を落ち着かせてきた。
母親の背中にあたる部分がカッターで切られている。最初からその部分はなかったから別に違和感も感じなかった。優慈は勉強机の上で写真の切れ端を母親の写真と合わせてみた。ぴったり合った。
青っぽいのがなんだかわかった。
母親の背中に、青い翼が生えていた。
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