34
札幌の中心街にある大通公園では木々の枝に色のついた電球が点滅し、あかりのオブジェがロマンチックに輝き、凍てついた銀色の地上を夢の世界に変えていた。十二月二十四日をどうにか二人で迎えたカップルたちは虫のように光のそばに集まり、白い息を吐きながら、きらめくイルミネーションを見上げて至福の気分に陥ったり、携帯電話で写真を撮りあったりしていた。だが、その多くはどこかよそよそしい。彼らはまだ正式にはカップルではなく、このクリスマスイブの夜に結び合うことを願っているものたちだ。彼らはそれをとうの昔に信じなくなったはずのサンタクロースや作りものの光に願った。
だが、本当に愛にあふれているものならば、願うのをやめ、耳を澄ますことだろう。耳元でいま誰かに囁かれたような気がすると。あるいは目をこらすかもしれない。誰かがそこにいると。
その姿は最初、冷たい空気の中を吹き抜ける風のようにあいまいなものであったが、見るみるうちにはっきりとしてきた。そのものは今、自分に向かって何かを飛ばした。それは、間違いない。「恋のキューピット」が放つ愛の矢だった。
その一矢を合図に、クピドたちが一斉に姿を現した。
未来や宇宙から時空を超えてやって来たソルジャーのように次々と現れ、夢の夜の黒い空間を白服で埋めつくした。テレビ塔の第一展望台の上や地下街、駅前通にもクピドは舞い降りたが、多くはテレビ塔付近の大通公園に固まっていた。人々はどよめき、悲鳴とも歓声ともつかぬ声が方々であがった。
クピド協会北海道支部の嘉納響子副会長も翼をつけて現れ、明日で実習を終える若いクピドたちに熱い言葉を送った。
「今夜は我々クピドにとっても特別な夜になるでしょう。こんなに大勢の『恋のキューピット』が姿を見せて仕事をするのは、初めての試みです。十分間だけですが、会長の許可がおりました。いいですか、これは我々クピドの宣伝です。写真を一緒に取ろうと言われたら応じても結構、サインを求められたら名前を書いて結構。この十二月二十四日に、愛を叶えているのは誰なのか、世の中に知らしめるのです。可能な限り多くの愛を叶えてあげましょう。さあ、愛を感じたものから、仕事にとりかかってください!」
恋のキューピットたちは翼で感じた愛を気に変えて、人々に向かって弓で飛ばし始めた。
無数の愛の光線が無秩序に空中を飛び交った。男女を結びつけるその愛のきらめきは、夜の底を照らしているイルミネーションよりも地上を明るく光らせた。 愛の矢は白い光線となって人々を貫き、胸をめぐり、男女を結びつけた。男も、女も、悩ましげな甘い声をあげ、相手がそばにいるものはその場で抱きあい、そばにいないものは光を追いかけるようにしてこの場から去って行った。
胸のあたりに小さな稲妻が落ちたみたいに、優慈は強い愛を感じた。若い女の愛だった。男に対する思いは甘く、清々しい。愛を感じる方向へ優慈は弓を向けた。照準を定めながら女を探すにつれ、優慈の体内に鼓動が響き始めた。なぜ心が高鳴るのか、優慈はわけがわからなかった。
感情や感覚は優慈が頭で理解するよりも早く彼女に気づいていた。優慈がその愛を感じとったのは女の思いが強かったからではない。愛を放つ女の温もりに馴染みがあったからだ。
狙いを定めた先に、白いバックスキンコートにミニスカート、白ブーツの女がいた。マリアだった。彼女は色とりどりの電球が灯る木の下にたたずんでいた。彼女に寄り添うように田畑研二がいた。手をつないではいないし、腕も組んではいないが、研二のダークブルーのコートの一部はマリアのコートとふれあっていた。
マリアのいう用事とはこういうことだったのか。予想はついたが、現実がそこにあるのを見ると、優慈は不思議な気がした。十二月二十四日に会おうと誘ったのは、おそらく優慈が先だろう。その予約をキャンセルして、マリアは研二と一緒にこの日を迎える方を選んだのだ。小樽から札幌までわざわざ出向いて・・・。
「ほら、何をしている。さっさと放て!」安藤がやってきた。「おまえが感じ取った愛だ。お前の仕事だ!」
「仕事?」
「言ったはずだ、糞忙しい時に、いちいち考えるなと。早くしろ!」
その声の大きさにマリアが不意に振り向いた。彼女は優慈に気がつき、感情のない顔で視線をよこした。マリアはきれいで、怖かった。一瞬、優慈は男としてマリアに見下されているのを感じた。そして、ロマンスの魔法が解けたように、マリアが自分のことなど少しも愛していないことがわかった。優慈は彼女に無視をされる前に、マリアに向かってコートから突き出ている背中の青い翼を見せた。マリアは感情を取り戻し、唇に笑みを浮かべた。クリスマスイブにマリアに翼を見せたいという、優慈の願いはとりあえず叶った。
瑠美夫と村井がやってきた。「あっ、おれ、愛をめっけ!」
瑠美夫が弓を構え、気の矢をマリアに放とうとした。その弓を止めて、優慈が言った。
「おれの仕事だ!」
優慈は愛を知るために、マリアの心を初めて覗いた。心は田畑研二でいっぱいだった。マリアは研二にその身を捧げても良いと考えている。それで初めてわかった。マリアと小林裕史はいっとき交際をしたがセックスやキスをするような間柄にはなっていなかったことを。ピアス男は小林レベルの男にはそこまでの至福を与えなかったということだ。ということは、中学校卒業の前日にマリアから交際をしてもいいと言われた時、彼女はバージンでキスの経験もなかったことになる。優慈はマリアの心に中にいるはずの自分をさがした。しかし、自分はもうどこにもいなかった。たったいま、翼を見て彼女は微笑んだのに、もうそのことは忘れ、そばにいる男に夢中になっていた。
優慈はため息と共に胸の中の淀んだ思いを吐きだし、マリアに向かって矢を放った。
そいつは空中をまっすぐ進み、マリアの心臓のど真ん中をぶち抜いた。マリアの体は一瞬銀色の地面から浮きあがった。ああん。と、女らしい甘い声が口からこぼれた。マリアの中のありったけの研二への思いが光に吸い取られた。そして次の一瞬、宝石でもばらまいたみたいにマリアの空っぽの胸の中に燦爛としたものが広がった。光はきらめきの尾を長く伸ばすことなく、すぐに研二の体内に入り、マリアの思いを届けた。ふたりの愛はひとつになった。研二はマリアを抱き寄せ、二人はキスを始めた。
瑠美夫が言った。「あの子、すんげー可愛い。でも、だまされねーし。ありゃ、どうみても四十歳だな」
村井が言った。「あんな可愛い子でも胸揉まれたり、ぱんつ見せたりするんだろうか。森村君、どう思う。ねえねえ・・・」
優慈はすべてがもうどうでもよくなった。なにも感じなくなってしまった。感じることも面倒くさくなってしまった。クピドの翼が生えてからも執着していた恋愛への憧れもなくなった。
むだな感情がそぎ落とされ、優慈の心は空っぽになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます