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 翌朝、ベッドで目を覚ますと翼は消えていた。


 学生服の背中に青い翼をぶらさげて学校へ行くという最悪な状況は免れた。もしも翼をつけて学校へ行ったなら、規律にうるさい篠原が翼を取り上げようとするだろう。むろん引っぱったって取れるものではないが、ジャージ姿が似合うその教師は、鋏を使ってでも没収の獲物を優慈から切り離そうとするにちがいない。だけど、翼はもうない。父親が言ったように、たいしたことではなかった。


 優慈はいつも通りに自宅を八時に出て、青園(あおぞの)中学へ歩いて向かった。


今は十一月の半ばだった。家のそばにある丘陵公園にそそり立つ木々は日増しに骨っぽくなり、斜面は黄色や橙の落ち葉で埋め尽くされている。


 まもなくやって来る冬は落ち葉を雪の下に沈め、色のあるものを白一色の世界へ変えていく。雪と氷点下の寒さは北国の人々の暮らしに知らず知らずのうちにブレーキを掛け、それぞれの胸にある夢や計画の実行を来年の春までお預けにする。今、雪が降る前に恋の決着をつけないと、三月の卒業式までもんもんと過ごすことになりかねない。潮の香りが微かに混じった朝の空気はもう冬の匂いがしていたが、黒い学生服の中の優慈の身体は火照っていた。いよいよ、今日はマリアへの告白の日だ。


「僕と交際してほしい」

「うん」


 これで終わりだ。告白は儀式のようなものだった。儀式だからそんなものはなくたって、気持ちは通じあえる。しかし、マリアが一生の思い出に、自分の告白を聞きたいというのなら、気障な科白を贈ってあげてもいい。それが男のやさしさというものだ。


 学校へ着き、優慈は三年生の階の教室に入った。


 黒板を見ると、白チョークで森村優慈の名前が、ピンクのチョークで色辺マリアの名前が書かれ、白とピンクの二本線の大きな相合い傘が二つの名前の間に描かれていた。


 今日の昼休みに優慈がマリアに告白することを、クラスのすべての者が知っている。誰にも言うなよと言ったのに、川本がみんなに「誰にもいうなよ」と話して回ったからだ。


 マリアは廊下側の後ろから三番目の席にいて、セーラー服の女生徒たちに囲まれていた。優慈を見ると、噂の王子がやって来たわよと言って、女たちはマリアをからかった。マリアは照れたようにはにかんだが、白い頬は明るく輝いていた。


 優慈は不思議な気がした。今日はマリアの思いをやけに強く感じる。マリアは優慈が思っている以上に優慈を愛している。優慈は普段から自惚れが強い少年であったが、女の子の思いをこれほどハッキリと胸の内側で感じたことはなかった。

 

 ブラジャーに包まれたマリアの乳房の中に自分がいるのだ。そう思うだけで優慈はなんとも快い気分になってきた。が、優慈は別の人間の強い思いも感じとることができた。それは小林裕史のマリアへの思いだった。


 小林は窓側の席の一番前に座っていた。四角い顔の、背の低い男だった。同じクラスでありながら優慈は、三年生になった四月からこの十一月まで小林と一度も口をきいたことはない。そしてこれから卒業するまでも話すことはないだろう。無口で影の薄いチビ男くんで、恋愛感情なんて芽生えようのない、にきびボツボツの角ばった面をしている。その男のマリアへの愛を自分はなぜこんなにも強く感じるのだろう、優慈は、理由がわからなかった。

  

 担任の篠原が教室に入って来た。


 篠原は規律に厳格な教師だった。スカートの丈は短くないか、髪の毛の色が変わってないか、髪が耳にかかってないか、学生服のホックがはずれてないか。篠原は常に生徒に目を光らせている。罪を犯した生徒を見つけたら、即座に改めさせる。たとえ身なりがよくても決して生徒を信用しない。疑わしき者がいたら、ポケットや鞄の中を強制的に調べる。自分のカンは正しく、たいていの疑わしき者は校則違反の物をもってきている。例えばタバコ、だとか。化粧道具、だとか。まだ使う予定がない、コンドームだとか。それを手に取り、篠原は生徒にきく。「コレはなにかね?」その時、生徒が顔に反省の色を示しても、信用はしない。一度罪を犯した物は、いや罪を犯す喜びを知った物は教師の言うことなど聞きはしない。篠原はそれを知っている。だから、生徒に厳しく当たるのだ。

 

 が、篠原は規律や礼節を信奉しているわけではないのだ。自分流の子供教育なのだ。中学生は、まだ子供だ。小学校を卒業してから、一年、二年、三年と、これだけで歳月しかたっていないのだ。女子は生理に慣れ、ブラジャーをつけただけでいっぱしの女を気取り、男子は脇の下や臑に毛が生えただけで男になったつもりでいる。自分から見ればただの子供なのだ。その子供が学校という神聖な場所で、愛の告白を行うなんて許しがたいことことだった。これは、事件だ。

 

 情報で得た男女の名前はすでに黒板に書かれていた。黒板をこんなふしだらなやつらに汚されるのは許しがたいことだった。


「森村優慈!」

「はい」優慈は返事をした。

「これはどういうことかね」


 黒板を黒板消しで叩きながら篠原が言った。


「知りません。黒板にそれを書いたのは僕じゃありません」

「しかし、書かれる理由はあるだろう」

「さあ」

「心当たりは?」

「ありません」

「色辺マリア!」

「はい」

「同じ質問」

「わかりません」


 篠原は優慈とマリアを交互に見た。二人ともおどおどした目をしていない。自信に満ちあふれた顔をしている。中学生のクセに、自分たちの愛に自信たっぷりになっている。その自信はいったいどこから来るのだろう。情報はつかんでいる。昼休みに体育館で告白。万が一、制服を着たまま二人が抱きあったり、手をつなぐようなことがあれば、即刻職員室に来てもらうことになるだろう。当然親を呼び出し、親にも説教だ。


「家庭ではお子さんにどんな躾をしているのですか」


 せいぜい、いまは自信たっぷりでいればいいさ。


 篠原は二人を睨みつけ、黒板の相合い傘を消した。


 短いホームルームを始め、それが終わると、篠原は教室を出て行った。入れ代わるように鈴木が中へ入ってきた。両耳の上だけに縮れっ毛が生えている、赤ら顔の英語の教師だった。それと、もう一人。


 後ろの出入口から入って来たのだろうか。いつのまにか、男が一人窓際に立っていた。上下白の服装で、頭髪も白く染めていた。


 優慈は教職の研修生かと思った。髪の色はともかく、それなら納得できる。が、鈴木先生はそいつを生徒たちに紹介する素振りを見せずに授業をすすめた。


 クラスのほかの連中も、この男の存在を、気にも止めていないようだった。


 優慈は前の席の川本の肩をシャープペンシルでつっ突き、小声で聞いた。


「あの男は誰?」


 すると川本は、優慈が目で教えた窓のほうをちらっと見て、

「舞い上がっているんじゃないのか」と優慈に言った。


 舞い上がっているんじゃないのか。


 それは答えにはなっていなかった。答えの一つであるかも知れないが、優慈が期待している答えではなかった。優慈はマリアの話をしたのではない。窓際にいる男の話をしたのだ。

 

 男は腕を組み、時には鼻で笑い、時には首を回し、時には欠伸をし、教室の様子を眺めていた。が、やがてふうっーと息を吐き、小林のそばへ歩み寄った。


 優慈は驚いた。


 男の白シャツの肩から背中にかけて、白いものがぶら下がっていたからだ。


 それは、間違いなく、翼だった。


 男は小林の肩に手を回し、その角張った頬に唇を近付けると、耳もとで囁いた。


「心のままに」


 小林にしか聞こえないような小さな声だったが、優慈はその声をはっきりと聞いた。


 小林の肩に置かれた男の手の平から白っぽい光が零れた。光は小林の肩、背中、胸、腕を滑り降り、上履きの足下までの全身を包みこんだ。それから光は小林の胸の中を勢い良く飛び出した。鈴木の授業を普通に聞いている生徒の頭上を真直ぐに飛んでいき、廊下側の席で教科書を見ているマリアの胸にずんと入った。


 その瞬間、優慈が今まで感じていたマリアの思いが心から消えた。優慈への愛がなくなり、マリアは小林を好きになった。マリアは小林の心と通じ合ったのだ。優慈にはそれがわかった。

 

 小林は顔だけを動かし、マリアを目で振り返った。マリアは小林をうっとり見つめていた。マリアはキスを送るようにチュッと唇を鳴らした。小林は表情を輝かせた。


 ピアスの男は教壇の前を堂々と通り、教室を出ていった。


 優慈は信じられなかった。男はドアを開け、廊下へ出ていったのではない。ドアを幽霊のように通り抜けていったのだ。優慈は立ち上がった。


「どうした、森村!」


 鈴木が声をあげたが、優慈の耳には聞こえていなかった。

 

「座りなさい」


 優慈はドアを開けて教室を出て行き、男を追い掛けた。


 男は廊下を歩いていた。


「いま、何をしたんだ」


 優慈は背後から男に叫んだ。男は立ち止まった。


「マリアに何をしたんだ」


 男は振り返ると、驚いたような表情を優慈に見せた。


「私が見えるのか」

「見えるに決まってるだろう」

「じゃあ、君もクピドか」

「クピド? なんだそれ」

「あの女の子は君のことが好きなようだった。君もあの女の子が好きだった。だけど、女の子に対する好きという思いは、君よりもあの小さな男の子のほうが勝っていた。君は油断をしたんだ。それは両思いのカップルにありがちなミスだ。でも、君がクピドなら、残念ながら、君の愛は永遠に実らない。どんなに君の愛が強くてもな」

「だから、クピドってなんだっていってるんだよ」

「翼の持ち主だよ」と男は言った。「私は翼を持っている人間として、自分の使命を果たした。あの小さな男の子は入学式で彼女を見初めた。それ以来ずっと彼女を思い続けてきた。そして、君が彼女に告白するということを知り、彼は私に救いを求めた。だから、彼の思いのままの愛をかなえてあげた。だけど、これが最後だ。ボランティアはもうおしまいだ。私はこの街を離れ、東京へ行くよ。私は大きいことをやってやる。君と会うことはないだろう。住む世界が変わるからだ」


 ピアス男が話していると、別の教室から顔の大きな禿げ上がったおやじが出て来た。真っ白なスーツを着たおやじの肩にも脂ぎった翼がついていた。優慈を見ると鬱陶しそうに言った。


「なんだこのがきは」


 二人の男はそのまま廊下を歩いていった。男は右耳に弓矢のピアスをつけていた。


 その日、英語の授業が終わった後で、小林裕史と色辺マリアは、クラス全員の前で交際宣言をした。二人は廊下を腕を組んで歩き、篠原に職員室に連れていかれた。その時の小林は、脂顔がやらしいほど輝やいていて、ちょっとしたヒーロー気取りだった。 


 青木孝美はおやつのポテトチップスを食べながら、優慈に言った。


「信じられないわ。マリアが小林を好きだったなんて。私にそんな相談は一度もなかったもの」




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