愛がいやならLOVEでどうだ

MIYA尾

第一章 森村優慈の恋

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 二十年前の話だが、夏に潮まつりがあった時、森村優慈(ゆうじ)はたくさんの白い鳩を小樽の港で見かけた。ピンクの提灯が飾られた特設ステージの壇上にいたり、運河にかかる橋の欄干にのっていたりした。白い鳩は学校の屋根や門のところにもいた。いつだったか中学校の廊下を飛んでいるのを優慈は見たことがある。鳩の多くは川本雅夫と一緒に目撃しているはずだったが、川本は白い鳩なんて見ていないと言う。だとすると、自分の目がどうかしていることになる。もしかしたらあれは白い鳩なんかじゃなく、鳥の幽霊なのかも知れないと優慈は思った。


 しかし、記憶をたどっても、鳥に呪われるようなことは何もしていない。鳥を殺したことはない。石をぶつけたことはないし、首を絞めたこともない。羽を毟ったことも、脚を鋏で切ったこともない。鳥を虐待をしたことは一度もない。ケンタッキーのフライドチキンやマクドナルドのチキンナゲットは食べたことはあるが、回数はまわりの友人程多くはない。鶏肉が好きじゃないからだ。優慈は鳥に憎まれる人間ではない。鳥にとりつかれるような悪い行いを優慈はなにも、本当になにもしていなかった。


 それとも、誰かを好きになり、いやらしいことを日常的に妄想するようになると、そいつが、つまり翼が背中から生えてくるのだろうか。


 風呂から上がった後、優慈は勉強机の引き出しを開こうかと思った。困ったり、悩んだり、寂しくなったりすると、優慈は引き出しを開き、その中にいる「その人」と心の声で会話をする。小さな子供の頃からそうしてきた。しかし、今回はことが急なだけに引き出しの中の「その人」に相談しているひまはなかった。


 優慈は父親に救いを求めた。


 父親の森村爽彦(あきひこ)は一階の居間にいた。天井の照明を消し、サイドテーブルに置かれたスタンドだけを灯し、一人掛けの革張りのソファにもたれ、ヘッドホンで映画音楽を聞いていた。長髪で、髪の色は銀に近い灰色。鼻の下と顎に髪と同じ色の髭を生やしていた。風貌は芸術家タイプだが、爽彦はガソリンスタンドと中古車販売会社の経営者だった。テレビは見ない。野球も知らない。キャンプも嫌いだ。趣味らしきものはなにひとつないが、家にいる時、爽彦はいつも映画音楽を聴いている。映画が特別に好きなわけでも、心身をリラックスさせるためでもない。ただ感傷に浸るためだ。映画を見たその時代に自分はどのように生き、誰を愛していたのか、爽彦は回想し、思い出すのが好きだった。


 爽彦はドアのところに立っている優慈に気が付き、眼鏡が下がった目で息子を見た。


「どうした?」と聞いて、右耳のヘッドホンをはずした。

「いやべつ、たいしたことじゃないんだ」

「そうか」

「ただ、背中に」

「背中?」

「翼が生えた」


 優慈は肩を回し、ユニフォームの背番号を見せるように、父親に背中を向けた。


「ほら、翼でしょう」


 首に近い背中から一双の小ぶりの翼がぶら下がっている。湯上がりの体は濡れていたが、翼は金属でできているみたいに輝いていた。


「そうだな・・・」


 爽彦は驚いた表情をみせなかったが、真顔になり、ヘッドホンを耳から外し、首にぶらさげた。


「しかも、青い。こういうのって、普通、白くない?」

「ああ確かに」

「これって、お祓いをやってくれる人に、みてもらったほうがいいかな」

「お祓い? どうして?」

「翼が生えたのは、鳥の呪いかなにかじゃないかと思うんだ」

「おまえは鳥に何かをしたのか」

「何もしてないよ。してないけどさ、知らないうちに鳥を傷つけているかも知れないじゃない」

「それは、呪いではないな」

「じゃあへんな病気にかかったんだ。これって、皮膚科かな。っていうか、これに保険は効くかな」


 優慈はのんきに話していたが、心はかなり混乱していた。


「こっちへ来て、よく見せろ」


 優慈は居間の中に入ってきて、背中の翼を父親に見せた。爽彦は鼻の上の眼鏡を近づけ、翼を人差し指ではじいた。


「痛いか」

「別に」

「なぜ生えたんだ」

「知らないよ」

「じゃあ何を考えていた」

「何をって」

「風呂場でだ。何も考えていないのに、こいつが生えてきたとは思えないが」


 優慈はお湯に浸かりながら同じ三年三組の色辺(しきべ)マリアのことを考えていた。明日の昼休みに学校の体育館で優慈はマリアに告白することになっていた。緊張はない。これは儀式だからだ。


 一週間前、優慈は誰にも言うなよと言ってマリアに告白することを親友の川本雅夫に話した。川本はそのことを同じクラスのマリアの友人である青島孝美にばらし、青島は学校の帰りにマリアに伝えた。


 マリアはもうすでに明日の昼休みに、優慈に告白されることを知っている。マリアも優慈が嫌いじゃない。もっと前向きに言うならば、マリアも優慈と交際することを望んでいる。そのことを青島から川本が聞き、川本は優慈に伝えた。


 優慈はマリアにふられる心配はない。お互いの気持ちはもう通じ合っている。なのに優慈は僕と交際してほしいと、マリアに伝えなければならない。


 なぜ言葉が必要なんだろう。


 お互いに好きだとわかっているのに、なぜそれをいちいち声に出して言わなければいけないのだろう。


 面倒くさいと優慈は思う。が、優慈の心身は愛に満たされていた。満たされたまま優慈はダム底に沈む呪われた塔のように立っている湯の中のペニスに指をかけていた。


 マリアはまるでメデゥーサだった。マリアのことを見たり、思ったりするだけで、優慈の身体の一部はいつも硬い石になった。優慈はその石を液体のダイヤモンドに変える魔法を知っている。それには、呪文は必要ない。ただ二本もしくは三本の指さえあればよかった。優慈はうっとりした面持ちで、右手の指をそこにセットした。その時、突然、背中にかゆみを感じたのだ。背中に手を回すと、そいつは海草のように指にまとわりついた。


「女の子のことをちょっと考えていた」


 優慈は父親にそう答えた。


「それだけか」

「うん」

「それで翼が生えたんだな」

「でも、女の子のことはいつも考えているし、それが理由とは思えないけど」

「直接の理由ではないかも知れないが、おまえの愛がきっかけになったことは確かだ」


 愛? 


 優慈は堅物の父親の口から、愛という言葉が出てきたので、驚いた。


「気にするな」爽彦は言った。「たいしたことじゃない。一晩寝れば、翼は消えてなくなるさ」


 爽彦はいつもと変わらない言葉を息子に吐き、そして呟くように言った。


「そうか、おまえまで翼の持ち主になったのだな」


 爽彦は奇妙な言い方をしたが、優慈はその言葉を聞き流した。




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