お題:遊覧船
「良い眺めねぇ」
小舟から見る紅葉を見て、杜若の着物のご婦人はたおやかに微笑んだ。
年号が昭和に変わって、初めての客を前に自分は緊張していた。
「楽しんでもらえてよかったです。こんな片田舎の遊覧船なんて滅多に客も来ないんで、大したもてなしもできませんが……」
「いえいえ。むしろ、私一人のために船を出していただいたのですから、感謝するのはこちらの方です」
紅葉の見頃といっても、山間のここを訪れる人は少ない。自分も父の仕事を継いだというだけで、普段は農業で自給自足だ。
「奥さんはお一人で旅行ですか?」
「ええ。そんなところです。以前もここに来たことがありまして、その時にみた紅葉が忘れられなくて」
「はぁー、それでここまで。自分からすると見慣れたもんですけど、たしかに綺麗ですからね」
ゆっくりと船を漕ぐ。水面を染める落ち葉の赤が波紋に揺れていた。
客との会話は、自分にとっては貴重な時間だ。しかし、食い入るように紅葉を見続けているご婦人を邪魔することが憚られたので、自分はひたすら船を静かに漕ぐことに専念した。
目に映るのは紅葉とご婦人の横顔だけだ。
そんな時、一陣の風が吹いた。紅葉がひらりひらりと舞い飛び、船まで届いた。紅葉がご婦人の手に舞い降りると、彼女はそれを慈しむように微笑んだ。その瞬間が、まるで値千金の絵画のように見えて、自分は息も忘れて固まってしまった。
「大丈夫ですか?」
「あっ、すいません。あんまりにも綺麗なもんですから……」
「まあ。ありがとうございます」
「奥さんみたいな人と結婚する方は、さぞ幸せもんでしょうね」
「褒めても何も出ませんよ? ふふ、お付き合いしている相手もいないのに奥さんだなんて、女としては光栄なことですけれどね」
自分は耳を疑った。あんまりにも落ち着いた雰囲気の女性だから、もう身を固めているとばかり思っていたのだ。
「と、とんだ失礼を……」
「構いませんよ。去年までいた学校でも、同級生からお姐さんと呼ばれていましたから」
「そんなにお若いんですか!?」
「よく驚かれます。やっぱり、老け顔なのかしら……」
「い、いえいえ! きっとあんまりにも美しいもんだからみんな仙女様みたいに思ってしまうんだと思います!」
そう言うと、彼女は目を丸くして、大きく笑い始めた。
「仙女様だなんて、そんな褒め言葉を仰る人は初めてです。うふふ……いままでで一番の褒め言葉ですね」
「そうですか?」
「あなた、面白いんですね。……ふう、可笑しい。少し疲れたので、もう少しゆっくり船を漕いでいただけますか?」
「そりゃもちろん」
「ありがとうございます。……よろしければ、もっとお話ししませんか?」
断る理由なんてどこにもない。
紅葉が舞う中、自分たちはいつまでも語らっていた。
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