お題:信号
「ほらチビどもー、手ぇ挙げて渡れー?」
「「はーい!」」
今日は中学が創立記念日で休み……だというのに、朝から親の代わりに旗振り誘導に精を出すことになった。まあ、実際のところこういうのは嫌いではない。爺さん婆さんばっかりに仕事させるのも忍びないし、初春の陽気を登校時の悪感情抜きに浴びていられるのは気分がいい。
「つっても眠ぃ……ふぁあ~……」
「大きなあくびですね」
「そりゃまあ朝は眠……?!」
「おはようございます。目は覚めましたか?」
いつの間にか隣にいたのは、物腰が丁寧なことに定評がある同じ部活の女子だ。彼女は覗き込むように顔を見せると、思春期の男を全員殺せるような清涼感の笑顔を見せてきた。
心拍数が一気に跳ね上がって首の裏が熱くなってくる。
「な、なんでここに……」
「休みの日ですから、お出かけですよ。そっちはどうしたんですか?」
「親の代わりに旗振りを……ってあ! バカお前点滅してるのに渡んな!!」
「うっせー!」
どこの学年にもこういう『アブないことする俺カッコいい』みたいなはねっ返りがいるので困りものだ。小学生の歩幅で点滅信号を渡るのはめちゃくちゃ危険なのに、当の小学生は危険性を説かれても理解しない。結局、その都度怒鳴るぐらいしか俺にできることはない。
「……きみ、何年生?」
「あ? 関係ねーだろババア!」
「ばっ……お前失礼だろうが!」
「いいですよ。……ふふふ」
彼女は微笑んだ。さっきと同じ、端正な顔だというのに何故だろう。寒気がした。
「きみは点滅した信号を渡ってはいけないと教わらなかったのですか?」
「ふん。おれ足はやいから平気だし!」
「止まっていた車が走り出すかもしれませんよ?」
「おれのほうがはやい!」
「そうですかそうですか。では、お行きなさい」
「は? いま、赤色……」
「そうですね。ほら、行きなさいな。脚が速いのでしょう?」
「で、でも……」
ヒュンヒュンと車が行き交う道路を見て、言い淀む少年に視線を合わせ、彼女は更に詰め寄った。
「車よりも速いのでしょう?」
「で、でも……」
「できもしないことなら最初から言いなさんな」
怒られているわけでもないのに、威圧感に思わず背筋が伸びる。噴火するような説教より真顔のまま詰められる方が怖いのと同じで、怒鳴るよりもよっぽど恐ろしい叱り方だ。
「ごっ、ごめんなさいぃ……」
「あーあーあー! もうその辺で!」
少年は半泣きになって服のすそを掴んでいた。そんな子の頭を、彼女は優しく撫でた。
「ごめんなさい。大人げない怒り方をしましたね。……きみが思うより、車はずっと速くて危険なの。きみなんて、蟻を潰すみたいにぺちゃんこにされちゃうぐらい。だからこうやって、お兄さんみたいな人がきみたちを守るために旗振りをしてくれてるの」
「ぐすっ……ごめんなさい……」
「ちゃんと言えたわね。偉い! ……今度はちゃんと、手を挙げて渡れる?」
「うん……」
少年は涙を拭くと、ちゃんと手を挙げて信号を渡っていった。
「すげー……ああいう奴って何言っても聞かないのに」
「……見苦しいところをお見せしましたね。私、実はけっこう短気で……こう、もっと諭すような言い方ができればいいのですけど、実際に叱らねばならない状態になると相手を萎縮させるような言葉と態度ばかり取ってしまって……」
「いやー、仕方ないじゃん。そうした方がいいってことは山ほどあるけど、実際にできる人なんて少ないだろうし。……何はともあれ、あのチビが事故る可能性が減ったんだから良いんじゃね?」
「……そう言ってくださると、心が救われます」
少し眉を下げた顔は、いつものお淑やかな彼女だった。
「そうだ。よろしければ、この後にお食事でもどうでしょうか。さきほどの醜態の口止め……ということで」
「そんなことしなくても、誰にも言わないって」
「……子どもに本気で怒るような女と一緒では、嫌ですか?」
普通ならドキっとくるセリフだろう。俺もドキっときた。ついでに背スジもゾワっときた。
「い、嫌なわけじゃないぞ。その、口止め的な意味じゃなく普通に行くなら嬉しいし……」
「ああ、そういうこと。……私、きみともっとお話したいんです。その……学校で誘うのは、気恥ずかしくって……」
「じゃあ、その……もうちょっとで終わるから、待ってて」
「もちろんです」
期せずして、俺は気になっていた女子と休日を過ごすチャンスを得た。
そして同時に心に誓った。彼女に余計な口答えはしないと。
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