お題:逃走

「おはようございますっ。今日の寝顔もたいへんかわいくて結構でした。さすがは私の婚約者ですね。では、こちらの方にサインを」

 大和撫子という言葉が似合う黒髪の美少女は、微笑のまま起き抜けの少年に紙を突きつける。

「あの、それって婚姻届……」

「拇印でもいいですよ?」

「あ、あの。僕はまだ16なんですけど……」

「私、今日18歳になったんです。法律的には何も問題ありませんね」

「……っ!」

 八方塞がりと悟った少年はベッドから飛び起きて逃げようとするが、即座に手首を掴まれて押し倒された。

「迅速な判断、さすがです。けれど、合気を修める私から力づくで逃げるのは不可能ですよ」

「いじめないで……」

「ぐぅ、かわいい……けれど逃しません……!」

「ひぃぃ……」

 息を荒げて目を妖しく輝かせる少女だが、ハッと我に返って拘束を解いた。

「ご、ごめんなさい。私ったらなんてはしたない……」

「怖かった……」

 この少女、基本的には善良なのだが婚約者に対しては暴走しやすい傾向にあった。独占欲や嫉妬からくる諸々の愛情表現は日常茶飯事だったが、寝室に侵入されたのは少年にとって初体験であった。

「……正式に婚姻が結べるようになったのが嬉しくて、自分を御することができなかったんです。こんな慎みのない女……お嫌いになられましたか……?」

 しばしの沈黙があり、少女は俯いてしまった。少年は逡巡したが、覚悟を決めるように自分の頬を叩いた。

「ぼ、僕はずっときみが好きだった!」

「えっ……!?」

「ところ構わず愛情表現されるのは恥ずかしかったけど、本当に僕のことを愛してくれてるってわかってた。だ……っ、だからこそ、結婚は僕から申し込みたいんだ!」

「っ」

 少女の頬が紅潮する。

「親が決めた婚約者だからじゃない。僕は、僕の意志できみを幸せにする! だ、だから……ちゃんと心の準備をさせて」

 少年は制服を取ると、部屋を出た。そしてドアを閉める直前に言葉を残した。

「その時は……逃げないで聞いてね」

 一人残った部屋で、少女はしばし放心していた。顔どころか手足の末端まで熱くなったまま、少女は愛する婚約者のベッドに倒れ込んだ。

「そんなの……逃げるわけ、ないじゃないですか」

 彼女にとって、少年は庇護の対象だった。そんな彼の成長と、いままで返ってくるとも考えていなかった愛の告白。

「こんなことされたら……我慢、できなくなっちゃいますから」

 少女は起き上がる。音が聞こえない足運びは、獲物を狙う獣のそれに似ていた。

「愛し合いましょうね。私の旦那さま」

 甘く、暗い吐息が落ちた瞬間、着替えていた少年は背筋に怖気を感じた。嫌な予感が的中するまで、あと10秒もなかった。

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