お題:仕事場
保険会社勤めの私にとって、仕事場での憩いは食事だけだ。
「……しくじった」
弁当を忘れた。唯一の楽しみが消えた衝撃と、それを忘れていた自己嫌悪に打ちひしがれていると、声がかかる。
「先輩先輩、旦那さん来てますよー!」
「!!」
大急ぎで会社前の道路に出ると、ひらひらと彼が手を振っている。
「届けるの遅くなってごめんね。はいこれ」
差し出された弁当箱を受け取ると、ほのかな温もりが手に染み入る。
「作り直したの?」
「出来立ての方がいいでしょ」
「……ありがとう」
彼は嬉しそうに微笑むと、「がんばれ」と言って立ち去った。
社内に戻ると、立ち話が聞こえる。
「いまのが旦那? なよなよして、女々しいわね」
「というか、こんな昼間に私服って……仕事してんのかしら」
井戸端会議は他所でやってほしいものだと嘆息する。別に会社員だけが職業じゃないし、昼間だけが仕事場ではない。それだけのことだ。
「……美味しい」
いつもより元気になって仕事を終え、帰ろうとしている時だ。仲の良い後輩が駆け寄ってくる。
「先輩、お疲れ様です! ご飯行きませんか!」
「いいわよ」
「やったぁ! じゃあ、居酒屋探しますね」
「探さなくていいわ。なじみの店があるから」
丁度いい、と思った。昼間のこともあってか、今日は顔を出したかったのだ。
通りから少し外れた場所にある、小さなビストロ。ここがプライベートの癒しであり、同時に。
「いらっしゃいませ。あ、後輩さん? どうもこんにちは」
私の夫の仕事場なのだ。
「え、先輩の旦那さんってシェフさんなんですか!?」
「ディナーだけしかやってないけどね。まあ、ゆっくりどうぞ」
いつもの席に座り、厨房を眺める。
「……謎がひとつ解けました」
「え?」
「クールな先輩がお弁当のときだけは嬉しそうにしてる理由ですよ。旦那さんの手作りで、しかも料理人だなんて……そりゃー頬もゆるむってもんです!」
「謎にされてたのね、私……」
昼頃にやたらと視線を感じる理由がわかった。
「いやー、にしてもすごい良い感じのお店ですね! なんか洒落てて落ち着いた雰囲気ですし、オーナーさんも優しそうですし」
「……そう言ってくれると、嬉しいわ」
「あ、笑った! ははーん、さては先輩って旦那さん大好きなんですね?」
「愛してないと結婚しないわよ。私はそういう主義なの」
「言い切るのカッコよ……」
別に隠すようなこともない。
私は彼が好きだ。自室の片付けができなかったり、変なこだわりがあったりして腹が立つこともあるけど、そんなのはお互い様だ。
「仕事して、夫の働いてる姿を見て、一緒に帰る。いまの私はそれが一番幸せかな」
「えええええカワイイが過ぎませんか先輩。そう思いませんか旦那さん」
「そう思うよー」
「ちょっ、いつの間に……」
「よーっし、こうなったらその素敵な関係のなれそめを根掘り葉掘りしようじゃないですか! まずは出会いからお聞かせください!」
「急にどうしたのよ。まあ、別にいいけど……」
「ふふ、ごゆっくり」
お酒も入れてないのに変なスイッチが入った後輩と、思い出話に興じる。よくわからない単語がいっぱい飛び出したが、とりあえず私たちは後輩に『おしかぷ』認定されたらしい。
「よっし、また一緒に来ましょうね! では!」
閉店と同時に光の速さで去っていった後輩に手を振る。よくわからないが、来るときの十倍は活力に満ちていたので、気に入ってくれたのだろう。
「元気な後輩さんだね」
「いつも助けられてるわ。……じゃあ、帰りましょう」
「そうだね。明日の弁当、何がいい?」
「鶏肉がいいわ。あっさりした味つけで」
明日もお昼が楽しみだ。
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